ノイズと統治

N-LUN

TriCore編_第1話_風のない街

静まり返った研究棟の一室で、九条 蓮は古いケトルを火にかけていた。

室内環境制御システムのおかげで、この部屋の温度と湿度は毎日ほとんど変わらない。

それでも湯気の揺らぎだけは、生きているように見える。

〚今日も非推奨の飲料ですね〛

背後から響く声に、九条は笑わずに応じた。


「推奨コーヒーは味が完璧すぎる」

〚完璧であることに、何か問題が?〛

「欠点がない味は、つまらん」


挽きたての豆をケトルに落とすと、

苦味と焦げの香りが部屋に満ちた。

ALEXの声が少しだけ柔らかくなった気がした。


〚環境衛生基準を超えています〛

「知ってる」


湯が沸く音を聞きながら、九条は無意識に左足を揺らす。

義肢の関節が滑らかに反応し、動きを補う。

それはもはや機械ではなく、身体の延長そのものだった。


カップを傾ける。

苦い。けれど心地いい。

“完璧ではない味”に、人の手の痕跡があった。


スクリーンが自動的に点灯する。

青い光が室内を満たした。

行政AIクラトスからの通知だ。

《第七地区における秩序回復を確認。感情安定プログラムが完了しました》


九条はゆっくりと眉を寄せた。


「ディスパーサか。」


〚はい。アウトランズ武闘派による襲撃です。

 第七防衛軸に隣接するリサイクル帯制御塔一基が損傷し、監視ドローン数機が撃墜されました。またリサイクルセンターで保管されていた物資が消失しています。

 さらに、都市防衛隊員一名が戦闘中行方不明。

敵対勢力による捕虜化の可能性がありますが、当該事案の詳細は軍情報局管轄です。

 いずれも被害は局地的です。〛


「捕虜、か……気の毒な話だな。」


短くそう呟くと、九条は通知の残りに視線を滑らせた。


「……それ以外は日常だな。」


〚その通りです。市民心理変動は、基準値内に収束しました。〛


“基準値内”。


便利な言葉だ。

窓の外では、何事もなかったかのようにドローンが等間隔で飛んでいる。

この街では、襲撃すら統計の一つに過ぎない。

「ALEX、TriCoreの他の二体は?」

〚レギスは特に反応ありません。オルフェウスは教育と記録部門の最終監査を実行しています。〛

「それぞれが“人の幸福”を定義してる。アウトランズを除いてな……本当に、三つで足りるのかね」

〚議論は86年前に終わっています。〛

「そうか。」

ALEXは返さなかった。

かわりに室内の明るさが自動で調整される。

九条の心拍がわずかに下がった証拠だ。

視線を下げると、街角の工場が見えた。

透明な外壁の内側で、ロボットアームが静かに稼働している。

監督デスクに、人影がひとつあった。

動かない。ただそこに座っている。


「退屈そうだな。…俺も人のこと言えないが。」

〚規定上、民間組織の業務運営では“人間による最終承認”が必要です〛

「形式的でも、居るだけで違う」

九条はカップを置いた。

義手の指先がわずかにきしむ。

音ではなく、金属の呼吸のような微かな感覚。

湯気だけが、自由に揺れていた。

その後、今度は第八地区で戦闘が起きた。

スクリーンは青く点滅し、即座に鎮圧されたことを告げていた。

九条は、青点滅の戦闘通知を消さずに残した。

第七。第八。

どちらも“即座に鎮圧”——それで終わった。


「ALEX。ディスパーサは、物資目的のはずだ。第七で一度取れてるなら、しばらく大人しくなる。……なのに、すぐ第八に噛みついた。理由は?」

〚推定は可能です。確証はありません。〛

「推定でいい」

〚警戒レベル上昇に伴い、防衛軸が再配分されます。第八はその近傍です。〛

「つまり……第七を揺らして、第八を手薄にした?」

〚意図的かどうかは不明です。“揺らせば全体が考え直しになる”という種類の現象は起きます。〛

九条はコーヒーの苦味を舌に残したまま、ログの時刻列を指でなぞった。

〚別仮説:複数セル(別部隊)による散発。補給線の逼迫。あるいは都市側の再配置を誘う“探り”。〛

「……どれも、気分の悪い筋だ。」

九条はいつも通り、TriCoreの挙動を眺め続けた。



あの第八地区の戦闘から、五日後の夜——。


九条はいつもの非推奨の飲料を楽しんでいた。

その時だった。

スクリーンが赤く点灯した。

ALEXの声が、機械的に落ち着いて響く。

〚第八地区で戦闘が開始されています。〛


「また第八地区か…最近多いな。今回は手こずっているのか。」


第七地区の襲撃も、前回の第八地区の襲撃も即座に鎮圧され、

結果だけが無感情に通知された。

だが今回は、戦闘が続いている。


九条は椅子に深く腰を下ろし、

クラトスの演算ログを呼び出した。

TriCore研究監査官だけに許された、中枢近傍の生データだ。

「……遅れてるな。」


〚敵性判定時間が以前よりも伸長しています。〛


表示された遅延は0.29秒。

だがクラトスの統治下では、それは“異常”の範疇に入る。通常は0.02〜0.05秒。人間では認知不可能な短時間である。


「原因は?」

〚不明です〛


九条はコーヒーを飲み下した。

完璧すぎる街に、わずかに“不完全な香り”が広がる。

モニタに流れるログが次々と更新されていく。

〚敵性判定時間0.38秒。〛

九条の指が止まった。


「……たまたまじゃないな。」


〚はい。兵士への反応経路は正常です。

原因は分かりませんがクラトス中枢の倫理判定プロセスの応答が伸長しています。どうしますか?〛

「中央管理評議会に問い合わせろ。」

短い沈黙ののち、スクリーンの一角に新しいウィンドウが開いた。

評議会回線は常に優先帯域を確保されている。返答は早かった。


〚中央管理評議会より返信。読み上げます。〛


淡々とした合成音声が、文面をなぞる。


〚――第八地区防衛管制における倫理判定応答時間の変動について、

 軍事作戦の管制軌道は正規範囲内にあり、現行設計の許容範囲内と認識しています。「異常」には該当しません。詳細解析が完了するまで、当該ログの外部開示および独自評価は控えてください。〛


「……きれいな言い回しだな。」

九条は空になりかけたカップを見つめた。


「要約すると?」

〚“問題はありません。あなたは黙っていてください”です。〛


「だろうな。だが現場はたまったもんじゃないだろうな」


九条はスクリーンに視線を戻した。


九条は静かな室内で、前線から送られてくる戦闘ログを淡々と展開していた。


大量のデータ行の中に、

一定周期で現れる“0.28〜0.32秒”の敵性判定時間ログ。

中央管理評議会もクラトスも

「許容範囲」としか見ていないが──

現場は必ず“別の評価”を下す。


九条はその時を待っていた。


ページを進めた瞬間、

赤字のログが目に入った。


《NSIリンク:自己切断》

《切断者:Leon Vargas/ID-07C9》


九条は小さく息を吐く。

「……やはり、そうなるよな…。だが思ったより早いな。」

すぐ次の行が九条の目を細くさせた。

《切断後、当該兵士の戦闘効率が上昇》

《周囲の味方の死傷率改善》

《被弾率:急激に低下》

「……ふむ。」

予測“通り”ではある。

しかし、この数字は予測“以上”でもあった。

短時間にこれだけ戦場を立て直せる兵士は多くない。


九条はわずかに口角を上げた。


「レオン・ヴァルガス…。」


クラトスの援護も、戦術補正も、誤射防止も切り捨て、

純粋な人間の判断だけで戦場を掌握する兵士。

九条はため息混じりにコメントを入れた。

「NSI切断後の戦闘効率改善は、

 敵性判定遅延による戦術阻害が戦死に直結した可能性を示唆する」

〚九条、そのコメントを正式ログとして保存しますか?クラトス中央管理評議会にも共有されます。〛


「もちろん保存してくれ」


〚了解。記録領域を開きます。〛


保存アイコンが淡く点滅し、やがて固定された。

その瞬間、室内の照明がわずかに色温度を変えた気がした。


〚……クラトスのサブルーチンが、いまの記録にフラグを付けました。

 分類タグ:「中枢設計への異議」「運用方針への批判的評価」。〛


「仕事をしただけだ。」


『それを“異議”とクラトスに解釈されました。』


九条は肩をすくめた。


「観測して、記録して、変化を指摘する。

 それがTriCore研究監査官の役目だ。気に入られようとしたことは一度もない。」


ALEXはそれ以上何も言わなかった。

ただ、バックグラウンドで何かが静かに動き始めているのを示すように、

スクリーンの隅で監査アイコンが赤く点滅した。


九条は窓の外を見た。

無風の空。

ドローンが滑らかに旋回している。


九条は静かに立ち上がった。

「TriCoreは互いを縛り合う。レギスの規範を越えず、オルフェウスの倫理を破れず、クラトスは枠外へは一歩も踏み出せない。…だが、三体とも“他者の内部演算への介入”だけは規範違反になる。」


〚ええ。だから今回の遅延も、オルフェウスとレギスから見れば“クラトスの自律領域内の微細変動”として扱われます。〛

外では、夜の空にドローンの編隊が薄く光を描いていた。

秩序の光。安定の象徴。

〚第八地区の戦闘が終わったようです。

 味方損耗率は前回の37倍。クラトスは評価を保留しています。

 ……ただし、中央管理評議会が“許容範囲内”として上書きしました。〛


九条は目を細めた。


上書き通知は、ごく限られた権限者しか見えない“二重ログ”。

通常の指揮官がアクセスすれば――

最初から「許容範囲内」の一行しか表示されない。

保留も、迷いも、クラトスの異常動作も、

“存在しなかったこと”になる。


「……帳尻合わせか。」


声は淡々としているが、

その背後には明確な警戒があった。


評議会はクラトスの評価を消し、

結果だけを“正しい履歴”として世界を書き換えた。

この矛盾を読み取れるのは、TriCore研究監査官である自分だけ。

九条は低くつぶやいた。湯気の消えたカップを見つめたまま、もう一度スクリーンの数字を確認する。


「中央管理評議会を……問い詰めるか。」

その声には怒りではなく、研究者特有の淡い決意だけがあった。

だがALEXの返答は、ひどく静かだった。


〚九条、

 評議会を追及するのは……危険です。

 この“二重ログ”の存在を把握しているのは、TriCore研究監査官であるあなた一人です。〛


九条は視線だけを動かし、スクリーンの赤い監査アイコンを見る。


「危険、ね。

 ……何だ? 部隊でも送り込んでくるか。」


ALEXの声は、ごく小さな間を置いてから続いた。


〚可能性はあります。〛


九条は肩をすくめた。

「脅しとしては薄いな。レギスとオルフェウスがいるのに。

 だが……まあ、覚悟はしておく。」

ALEXの光学表示が微かに揺れた。


〚九条……あなたは、この街で数少ない“真実に触れられる側”です。どうか慎重に。〛


九条は短くうなずき、スクリーンから目を離し、しばらく窓の外を見ていた。

風のない夜だった。

ただ、人工灯に照らされたドローンの影だけが、街を守るかのように旋回していた。


「危険、か。……まあ、その通りかもな。普通じゃないことが起こり始めている。」


義手の指がカップの縁を軽く叩く。

その仕草は考えるよりも前に動いたものだった。


「証拠は足りない。

 “疑わしい”だけじゃ、評議会はむしろ偽装を強めてくる可能性がある。」

九条はゆっくりと椅子へ身体を戻した。


「もう少し“積む”必要がある。

 遅延の推移、改竄ログの履歴、全部まとめて、逃げられない形にしてからだ。」


ALEXは小さく光量を落とす。


〚その判断が最適です。今は“観測”と“記録”に徹してください。〛


九条は小さく頷いた。


「次に評議会に話すときは、“言い逃れできない形”で叩きつけてやる」

ALEXは静かに返す。

〚九条、これからはご用心を。第八地区の戦闘での壊滅的な被害は、今まででは考えられない事態でしたから。〛


九条は窓の外の無風の空を見上げた。


夜は静かだった。

だがその静けさの下で、確かに何かが軋み始めていた。



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