第10話

絢斗くんの息を呑む音が聞こえた気がする。

私の周りだけがすべてを肯定するように静かだ。


「律……さん?それってどういう…」


「大丈夫。ちゃんと一緒のところに行けるようにするね」


金属製の手すりに絢斗くんの背が触れる。背中を預けるには低い、その手すり。


「ずっと苦しかったんでしょ。だったら終わらせようよ。」


雨で滑りやすい足元も手元もあまりにも心許なく、彼には抵抗する間もない。私の腕は思い切り彼の体を押す。


「律さ———」


「最後に」


絢斗くんの体が、静かに後ろへ傾いた。


川が激しく流れる音だけが、すぐ闇に溶ける。


「最後に、あかりの名前を呼んでみなよ」


私はただ、落ちていった場所を見下ろした。


私の名前を呼ぶ気配もない。

私に助けを求める声もない。

雨と川の音が、何もかも奪い去っていく。


私はしばらく立ち尽くし、ポケットに手を入れて、スマホの画面を確認する。


時刻はそんなに遅くない。


「……帰らなきゃ」


誰も聞いていない独り言を呟き、私はゆっくりと歩き出す。


川沿いの道は、もとから何もなかったような顔でただ、淡々と続いていた。


降り続く雨の音はいつも通りの日常を告げていた。


玄関の鍵を開ける。母は珍しく出かけているようだ。父は今日も仕事だ。


靴を脱いで部屋に上がる。湿った髪から落ちる水滴が床にぽたぽたと落ちる。濡れたままの服も冷たい。ポケットの手袋もぐちゃぐちゃになっていた。それなのに、胸がすく思いだ。


「……ただいま」


返事が返ってくるはずはない。沈黙は今の私には心地良い。


鞄を拭いたタオルを床に敷く。

その足で浴室に向かう。シャワーを浴びて部屋着に着替える。


私はソファに沈み込む。視界にスマホの画面が明るくちらつく。


(あかりも、絢斗くんも)


思い出そうとすると、その輪郭がゆっくり水の底へ沈んでいくみたいに曖昧になる。はっきり覚えているのに、触れれば壊れてしまうような感覚。


手のひらを見つめる。


怖いとか罪悪感とか、

そういう名前の感情はどこにもない。


(……これでやっと、静かになる)


私はそっと目を閉じた。


ソファで寝てしまわないように、二階に上がる。他校の友達から届いた通知で、スマホが震えた。


ラインを開く。たわいない話に、いつも通りの速さで返信する。


ふと視界の端に、机の上のキーホルダーが映った。あかりとお揃いだったそれは、少しだけ破れていた。


あかりとのトーク画面を開く。


『律ってほんとは絢斗のこと——』


既読はもうずっと前に付けている。

その続きを読む必要は、どこにもない。


指が勝手に動いて、絢斗くんとのトーク画面を開いた。

書きかけの未送信メッセージが、残っている。


それを迷いなく削除する。


そこに並んでいた言葉たちに、

もう意味なんて何ひとつなかった。


(明日も学校に行かなきゃね)


当たり前のように思ったその感覚に、自分でもおかしくて少し笑った。


でも——


その“当たり前”のなかに、二人の居場所はもうどこにもない。

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残影の帰路 ミオ @mi03_inunekosuki

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