月夜に捧げるワンダーランド

あおいいろ

ep.1 楽園

「ウサギさん、待って……!」


白い毛並みのウサギさん。どうして私を置いていくの? 野はこんなに青々と茂っていて、花々は美しく咲き乱れているというのに。

ウサギさんは後ろ脚を器用に使い、高く跳ねて、まるで私が足の遅いのを馬鹿にしているよう。私も芝生をウサギさんを真似して、力強く蹴ってみるけれど、足がもつれて顔から倒れてしまった。伝えなければいかないことがあったのに、体に力が入らない。ほんの少し先に、あの、白い毛玉が見える。ウサギさんの後ろ姿が、まあるい毛玉のように見えて、そう言ってみた。ふと、お母様が、よくまっしろい毛糸で編んでくれたマフラーがそんな白色だったことを思い出す。


「あ」


私が余計なことを考えている間に、ウサギさんはまるでケサランパサランのように小さくなって、見えなくなるところだった。ダメよ、私。立ち上がって。


拳に力を入れ、ゆっくりと上体を起こす。足を前に出し、腕を振り、息が上がる。その瞬間、視界に映る全てがすろおもおしょんになる。



____ウサギさん、この先に行ってはダメ!!



ウサギさんは、大きな影に飲み込まれて消えてしまった。だからダメだと言ったのに。言うことを聞かないから、こうなってしまったのよ。

私は大きな大きな暗闇に向かって下瞼を下げ、「めっ」をやった。そう、私はは悪くない、わ。私は悪く……ない、わ。私は……悪く……ない、わ。


目頭が熱くなり、ひとつ、ひとつと水滴が溢れるのを感じた。ぼろぼろと流れる大粒のそれを、袖で拭う。あぁ、大きな影が淀んで、蠢いて、こちらを向いてくすくすと笑っているよう。ここにいれば、安全だったのに。なんてお馬鹿なウサギさん。あの暗闇の化け物に、喰われてしまったのね。


「……かわいそう」


「そうだね、可哀そうなウサギだ!! でも、君はよくやったよ。あの哀れなウサギに、危険を知らせたんだ。なんにも泣くことはないさ!!」


隣に視線を下ろすと、五寸ほどの置き時計が軽快な弁舌を振る舞っている。アンティークなカラメル色の時計をしている。


「あなた、名前は?」

「あはは。面白いな、君。ボクのことは、好きに呼びなよ」

目と口があるなんて、可笑しな時計。


「なんだって、ボクがおかしい?」


どうやら、この可笑しな時計は私の心が読めるらしい。時計は私に呼びかたを委ねたけれど、なんて呼べばいいのかしら。


「そうだ、時計って英語でクロック、っていうらしいの。知ってる?」 

「知らないね。それがどうかしたのかい?」

「あなたの名前、クロックから頂いて、『クロ』はどう? 」


カラメル色なのにクロなのが少し変だと思って、くすくすと笑った。


「ワ、君がつけた名前なのに笑うなんて酷いじゃないか!!」

「ごめんなさい。そんなつもりはなかったの。でも、初めて会ったのに、なんだか懐かしい気がするわ」


私がそう言うと、「キミは変わってるね」と言いながら、けらけらと笑った。


くすくす、けらけら、くすくす、けらけら。


風が心地良い。陽光があたたかい。野の花も、木々も、歌い、踊っている。




____________時間よ。




酷く冷たく、機械的な声が脳裏に響く。瞬間、体が大きく引っ張られるのを感じた。


「待って、君!! まだ名前を聞いていないじゃないか!!」

「……ク、ロ……私の…名前……は……」


またこの時間が来てしまった。暗闇は大きく腕を伸ばし、私の体をすっぽりと包み込んで、深淵の中へ連れ去ってしまった。


ここは、どこだろう。





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