霧の峠と巨大な猫

十兵衛

霧の峠と巨大な猫

霧が深く立ち込める猫ノ沢(ねこのさわ)峠。この峠は古くから、旅人を惑わす怪異が潜むと言い伝えられていました。

その日、薬売りの宗助(そうすけ)は、山向こうの村へ向かうため、人里離れたこの峠道を急いでいました。

「早く通り抜けねば、日が暮れてしまう」

宗助が岩場を登りかけたその時、目の前を覆っていた霧が、まるで手で払われたかのように一瞬で晴れました。

そして、宗助は息を飲みました。

目の前にいたのは、人の背丈を優に超える巨大な猫でした。毛色は淡い桃色にも見える薄茶、瞳は夜の闇を射るような黄金色。鋭い爪を持つ前足は、宗助の立っている場所を軽く一跨ぎできそうなほどです。

猫は身構えることなく、ただ宗助をじっと見下ろしていました。その威圧感に、宗助は動くことも声を出すこともできません。

猫の前には、小さな黒い土器(かわらけ)が置かれ、そこから白い湯気がゆらゆらと、まるで生き物のように立ち昇っていました。猫は、その土器に興味を示している様子でした。

「お、お前は……この峠の主か」

宗助が震える声で尋ねると、猫は低い唸り声一つで答えました。それは、風の音にも、地鳴りにも似た、重々しい響きでした。

宗助は決心しました。ここで逃げようとしても、この巨獣から逃げ切れるはずがない。彼は腰を落ち着かせ、背負っていた薬籠(やくろう)から、**湯冷ましの入った小さな瓢箪(ひょうたん)**を取り出しました。

「これは、道中のお茶だ。もしや、お前さんはこれを……」

宗助は意を決して、土器の近くへ歩み寄りました。土器の中の液体は、どうやらただの米のとぎ汁のようでした。旅人が喉の渇きを潤そうと、置いていった残りかもしれません。

宗助は、瓢箪から湯冷ましを土器に注ぎ足し、さらに懐から取り出した干し飯(ほしいい)をひとかけら、そっと土器の縁に置きました。

「粗末なものだが、お腹が空いているのなら、召し上がれ」

巨大な猫は、それまでの威厳に満ちた表情を緩め、宗助の差し出した干し飯を鼻先でそっと押しました。そして、土器に注がれた湯冷ましを、満足そうに一舐めしました。

その瞬間、猫ノ沢峠に再び濃い霧が戻ってきました。

宗助が目を開けると、巨大な猫の姿はどこにもありません。ただ、岩場には干し飯を置いたはずの場所に、真新しい金貨が一枚置かれていました。

宗助は静かに礼を言い、金貨を懐にしまうと、再び峠の道を歩き出しました。

猫ノ沢峠の霧は、以前にも増して深くなりましたが、それ以降、この峠で旅人が道に迷うことは二度とありませんでした。そして、宗助の薬籠は不思議と、どんな病にも効く万能薬で満たされるようになったと言います。

それは、峠の主である巨大な猫*山神の化身たる大猫**からの、感謝の贈り物だったのかもしれません。

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霧の峠と巨大な猫 十兵衛 @rokubei

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