たんこぶ
赤坂栗助
前篇
疲れ果てて全身に力が入らない。気力という気力が抜け落ちてしまったようで、椅子にきちんと坐ることもままならない。それでも最後に、たんこぶについて警告しておかなければいけない。ぼくをこんな状態にしたのは他ならぬたんこぶなのだし、たんこぶを詳しく観察した者はそう多くない。すべての人間がたんこぶをもっているのにも拘らず、たいていの人はその存在に気づいてすらいない。貴重な体験記になるだろう。君に託すのはこの文章をなるべくたくたくさんの人の目に触れるようにしてほしいからだ。一方でこれはたいへん個人的な、ある種の遺書でもある。それも死を前にしての遺書ではなく、書いた後も生き続けるという苦しみのなかで書く手紙。まだぼくの腕は動くけれど、どんどん硬直しているように感じる。長く書き続けることはできないだろう。ぼくはじきに博物館の剥製みたいな存在になる。いつまでも目を開けて、何もできないのに視界に映るものを眺め続けなければいけない。そうなる前に瞼を閉じてしまうのも手だな。ふとんをかぶって眠りについたふりをするのだ。その方がずいぶん気楽だろう。そうとなれば、手短に語り尽くしてしまおう。さっさとこの電子メールを送信して、最後の就寝にふさわしくからだをきれいにしたい。そう考えると少しだけ生気が戻ってくるようだ。
――他人のたんこぶも自分のたんこぶも、ぼくの目にはこれ以上なくはっきりと映っている。もしいま君の手元に鏡があるのだったら、自分の喉を観察してみてほしい。たんこぶは顎と首との間の影のあたりにある。まんまるな球の形をしていて、何本かの細い血管が走っている。もし万が一、君もたんこぶを見ることができるのならこれ以上ありがたいことはないのだが。再び言うけれどぼくは疲れていて、正直なところたんこぶについて自分ではわかりきっている詳細を書くのは面倒くさいのだ。でも結局のところ、この手紙はたんこぶの見えない人にも宛てられているのだから、きちんと説明しなければいけないだろう。普通の人間がたんこぶを見ることができない理由はぼくにはよくわかっていない。ひとつの仮説は、たんこぶには存在感というのがまるでないというものだ。正確に言えば、ぼくたちの認知が目元や口、手などに敏感であるのに対して、たんこぶに対しては致命的に鈍感だという説である。それは実際に他人と向き合ったときでも、鏡ごしに自分の喉を見たときも同じである。彼らがいくら注意して眺めてみても、首の周りを手で探ってみても、たんこぶを見つけることはできない。
たんこぶの脅威について警告するのなら、ぼくの双子の兄のことを書くのがいちばんだ。兄と僕とは一卵性ではなかったけれど、体格も声もずいぶん似通っていた。そしてたんこぶの大きさも。どちらとも顔ほどもあるたんこぶを抱えていた。血色がよくつやつやと輝いていて、真珠のように美しかった。兄はよくたんこぶを愛おしげに撫でたり、冗談めかして顎でつついたりしていた。それでぼくは、彼にもたんこぶが見えるのではないかと疑ったことがある。でも兄はたんこぶの存在に気づいているのではなく、無意識のうちにその世話に励んでいるのだった。彼との戯れの最中、たんこぶは弾むように揺れて嬉しそうにしていた。兄とたんこぶとの秘密の関係を覗き見しているような気がして、ぼくはたびたび目を背けた。それで兄はぼくが自分を怖がっていると思ったようだ。ぼくのことをすっかり見下していた。
中学校に入ったときには、兄とぼくとは全然異なる性格のもち主になっていた。兄は早くも、自分はこれこれの大学の法学部に入るのだと決め込んで、取り巻きたちに言いふらしていた。一方で、自分には中学校など必要ないと思っているらしかった。教師を軽蔑していて、成績はよくなかった。対してぼくのほうは臆病な優等生といった風で、ことあるごとに大人たちの顔色をうかがって、なるべく機嫌を損ねないようにと気を配っていた。表向きは柔和で温厚だったものの、兄に対しては強烈な憎しみあった。傲慢な態度が気に食わなかったし、容貌が似ていることも嫌で仕方がなかった。
二年生のとき、ぼくたちは同じ学級にいた。確か十二月だったと思うけれど、冬休みを前にした国語の授業でスピーチの課題があった。兄はいつもの通り、準備不足の演説を自信たっぷりにやってのけた。教師の口元は始終ひきつっていたものの、同級生たちが抱いた印象は悪くなかったようで、制限時間を大幅に超えて彼の発表が終わったときには拍手が鳴り響いた。次がぼくの番だった。ぼくはやや緊張して椅子から立ち上がり、教壇に向かった。緊張していたのは、その日のためにきちんと原稿を準備して、何度も練習を重ねていたからだった。加えて兄の席がちょうど教壇の前にあった。立ち位置についたぼくは目をつむって深呼吸をした。教師の合図で瞼を開いて話し始めたのだが、スピーチの内容をまったく覚えていないのは、目に入った兄の異様な姿に驚かざるを得なかったからだ。兄は六人の生徒が並んでいてすわっているなかで左から三番目にいた。みなたんこぶに頭をもたせかけてぼくの話を聞いているか、さもなくば聞いているふりをしてうつらうつらしていたのだが、兄は机に肘をついて、両方の掌でたんこぶを支えもち、頭ごとぐっと押し上げていた。もともとたんこぶが大きいのもあって、彼の顔はまっすぐ天を向いていた。彼の眼球はぼくを睨もうと大きく顎の側に向けられていて、苦しそうにぴくぴくと痙攣していた。それは何とも醜い光景だった。しかし何より嫌だったのは、ぼく自身、両手でたんこぶを支えるそのような姿勢をよくとることだった。気づかないうちにぼくもこんな常識はずれの体勢になっていたのではないかと考えるとぞっとした。
このときから、ぼくの兄に対する憎しみは自分のたんこぶにも向けられるようになった。ぼくはさまざまな方法で自分のたんこぶをすっかりなくすか、小さくしようと試みた。学校から帰ってくると自分の部屋に引きこもって、最初は手でたんこぶをねじり切ろうとした。しかしうまくいかなかった。たんこぶのつけ根はゴムのように弾力があり、二周でも三周でも好きなだけねじることはできるのだが、手を離すとたちまち元に戻って、小刻みに震えるのだった。次に試したのはナイフだった。ぼくは家の台所から密かに果物ナイフをもち出して、瑞々しい肌色の球を収穫しようとした。なぜだかわからないけれど、血管を切ってしまうという心配はしなかった。たぶん、たんこぶが他の器官とは違って、身体ではなくもっと他のもののに属していることが、何となくわかっていたのだろう。これは成功した。ナイフはほとんど抵抗なくたんこぶと首との間に入っていき、簡単に切除することができた。このとき初めて知ったのは、たんこぶには重さがないということだった。切り取られたたんこぶは相変わらず完全な球の形をして宙に浮き、血管もそれまで通り脈打っていた。電灯の光を反射してつやつやと輝いて、ときにあぶくのように形が揺らいだ。ぼくはすっかり満足して、その夜は切り取ったたんこぶを抱えて眠った。けれど翌朝起きてみると、新しいたんこぶが生えていて、ぼくはただ部屋のなかに余計なたんこぶを増やしただけであることを知った。結局ぼくが最後まで固執した三つ目の方法は、両手でたんこぶを押さえつけて血流を悪くし、しおれさせることだった。ぼくはいくつもの球が浮かんでいる部屋の中央で、暇さえあれば首についているたんこぶを掴んで圧迫した。人の目があるところでは顎を引いて、首との間でたんこぶが息をできないように気を配った。そうすると必然的に上目遣いになり、声もかすれるので、友だちの間ではぼくが卑屈な人間ということになっていった。しかし徐々に効果は出てきたようで、たんこぶは赤黒く変色し、艶がなくなって代わりに皺が入るようになった。
次の更新予定
2025年12月28日 21:00
たんこぶ 赤坂栗助 @chriske
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