第2話 沈黙の周波数

1. 追跡者の残像


エヴァは、路地の暗闇と霧を利用してジェイクの追跡を振り切った。しかし、背筋に走る冷たい感覚は消えない。CWの情報機関が、自分が「サイレンス」の断片を掴んだことを、いかに早く察知したのか。


彼女はネオ・ベルリンのPFブロック側にある、古びた集合住宅の一室へ急いだ。ここは、彼女の数少ない信頼できる友人であり、PFの中央通信局で働く無線技師、ミーシャ・イワノフ(30)の部屋だ。


ミーシャの部屋は、PFの質素な公営住宅とは思えないほど、奇妙な機器と配線で溢れていた。彼は、両ブロックの技術者が公式に触れることを許されない、非公認の無線技術に魅了されていた。


エヴァはミーシャに、昨日発見した廃棄文書のメモを見せた。


「ミーシャ、これを見て。『平和のための外科手術』。彼らは何を隠しているの?」


ミーシャはメモを受け取り、その慎重な文字をPFの専門用語と照らし合わせた。


「『アルファ』と『ゼータ』…これは、CWとPFの強硬派による、極秘のコードネームだ。協定外の作戦を示す。そして『外科手術』…エヴァ、もしこれが比喩でなく、文字通りの意味だとしたら?」


ミーシャは、自分の組み立てた粗末な受信機を指差した。


「俺は最近、この都市の公共無線インフラに奇妙な異変があることに気づいた。通常使われるべきではない、完全に『空白』の周波数帯域だ。非常に微弱だが、不自然な規則性をもって発信されている」


2. 空白の周波数


二人は深夜、ミーシャの簡易的な受信機とオシロスコープを使い、ネオ・ベルリンの無線帯域をスキャンし始めた。


画面には、通常のテレビ、ラジオ、通信のノイズが波紋として表示される。しかし、ミーシャがダイヤルを特定の領域に合わせると、突然、ノイズが消えた。画面は平坦な線になり、メーターは微細なエネルギーの存在を検知しているにもかかわらず、音は完全に沈黙した。


「これだ、エヴァ。沈黙の周波数だ」ミーシャが囁いた。


「何も聞こえないわ。ただの空き周波数じゃないの?」


「違う。エネルギーは存在している。だが、それは可聴域ではない。もっと低い、あるいは高い周波数に意図的に『押し込められている』。まるで、人間の耳には届かないように設計された、静かな信号だ」


エヴァは鳥肌が立つのを感じた。


「その信号が、私たちの『感情の制御』と関係しているの?」


ミーシャは解析を続けた。彼の技術は、ブロックの公式機関の技術を凌駕していた。


「この周波数は、ネオ・ベルリン全域の公共無線中継塔から拡散されている。そして、その波形…人間の脳波に酷似している。特に、抑制された状態のα波に」


ミーシャの結論は恐ろしいものだった。両ブロックは、この「空白の周波数」を通じて、ネオ・ベルリンの市民の集合的な感情、具体的には「熱狂」や「好戦性」といった強い感情を、常に抑制し続けているのではないか。


3. ジェイクの再接触


翌日。

エヴァはNMCへ出勤する途中、冷たい雨の降る人通りの少ない広場で待ち伏せされた。


「逃げ足が速いな、クライン通訳官」


ジェイクが、霧の中から現れた。彼のトレンチコートは雨に濡れ、表情は強張っている。


「あなたは誰なの? なぜ私を追う?」エヴァは冷静を装うが、声は震えていた。


「俺はCIAの人間だ。だが、今はそれだけじゃない。あの『協定外』の計画は、俺が所属する組織の強硬派が勝手に進めている。俺は…それを止めたい」


エヴァは信じられなかった。「CWのエージェントが、自分のブロックの計画を止めたい? なぜ?」


ジェイクは、彼女に一通の封筒を差し出した。中には、数枚の写真と、数人の名前が記された書類が入っていた。


「俺の娘は、二年前、この街で理由もなく泣くことさえできなくなった。医者は『極度の情緒不安定』と診断したが、俺には分かっていた。何かが、この都市の空気を蝕んでいる。その何か、つまり『サイレンス』の正体を追って、俺はこの街にいる」


ジェイクは、自身も犠牲者であり、裏切り者であることを告白した。そして、彼の情報によれば、PF側にも、この計画の存在を嗅ぎつけ、反対している勢力がいるという。


「俺はあなたの敵ではない。だが、もう時間がない。彼らは、あなたが持っている情報に気づいている。早く、この計画の全貌を突き止めないと、ネオ・ベルリンは静かなまま、魂を失う」


4. ナディアの監視


エヴァがジェイクと密会している様子は、PF側のベテラン監視員、ナディア・ペトロヴァの目に捉えられていた。


ナディアは、PFの中央保安局(KGB特殊部門)で、数十年にわたり、思想の監視と排除を行ってきた冷徹な女性指揮官だ。彼女は、PFのイデオロギーを、戦争を回避し人類を救う唯一の道だと固く信じている。そして、「サイレンス」計画こそが、その最終的な平和をもたらすと信じている。


ナディアは、ジェイクとエヴァの写真を握りしめ、無線で部下に命令を下した。


「対象エヴァ・クラインは、西側のスパイと接触した。彼女の背後にあるのは、協定を破ろうとする戦争推進派の工作だ。彼女をただちに確保し、情報を回収しろ。ただし、CWの介入を招くような『武力衝突』は避けろ。我々の平和を乱すことは、何人たりとも許されない」


ナディアの顔には、一切の迷いがなかった。彼女にとって、エヴァの行動は、世界を再び戦火に陥れようとする、許されない裏切りだった。


一方、エヴァはミーシャの部屋に戻り、ジェイクから受け取った情報をミーシャに見せた。


「CWの人間を信じるの?」ミーシャは疑いの目を向けた。


「信じるわけじゃない。ただ、彼の情報が、ミーシャが見つけた『沈黙の周波数』の存在を裏付けている」エヴァは答えた。


ミーシャは、受け取った情報と自分の解析結果を合わせ、ある結論に達した。


「エヴァ、この周波数はただの抑制じゃない。もし、それを逆手に取れば、この周波数を通じて、真実の信号を都市全体に送れるかもしれない。だが、そのためには、この信号がどこから発信されているのか、その中枢を探らなければならない」


エヴァの脳裏に、ジェイクから受け取った「沈黙の周波数の発生源は地下にある」という情報が蘇った。


「その中枢は、ネオ・ベルリンのどこか、地下深くに隠されているはずよ」


エヴァはポケットの廃棄文書を握りしめた。彼女の個人的な探求は、この偽りの平和を維持しようとする巨大な力との、影の戦いへと変貌しつつあった。そして、その戦いは、もうすぐネオ・ベルリンの地下で始まることになる。

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