影の協定:分割されたベルリンの霧

みぞじーβ

第1話 中立都市の静かなる亀裂

1. ベルリンの朝


1962年。ネオ・ベルリンは、グレーと白で統一された無機質な都市だった。中央を流れるシュプレー川に架かる「協定橋」が、西側の「資本同盟(ザ・コモンウェルス/CW)」の光沢のある近代ビル群と、東側の「計画経済連邦(ザ・プラン/PF)」の重厚な石造りの建物群とを、形式上、結んでいた。


中立監視委員会(NMC)の通訳官であるエヴァ・クライン(28)は、協定橋を渡りながら、自分の体が冷たい霧に溶け込んでいるような感覚を覚えた。彼女の着る地味なグレーの制服は、この都市の感情のない中立性を体現しているかのようだった。


NMCの建物は、どちらのブロックの建築様式にも似つかない、ただの巨大なコンクリートの塊だった。その最上階にある会議室は、毎日、世界の緊張が最も凝縮される場所だった。


エヴァは今日の会議の準備を始めた。


議題は、CWの「西アフリカ開発援助」とPFの「東南アジアにおける資源分配」について。


いずれも、両ブロックが勢力圏を巡って互いの足を引っ張り合うための、外交儀礼に過ぎない。


エヴァが通訳ブースに入ると、向かいの席にCWの主席代表団の通訳官、オスカーが座っていた。彼は西側のブランドスーツを着こなしていたが、その顔にはベルリンの霧のような疲労が張り付いていた。


「おはよう、エヴァ。また、ただの茶番劇だ。」オスカーが囁いた。


「茶番でも、彼らが武器ではなく言葉を交わしている限りは、私たちの仕事は無駄じゃないわ。」エヴァは、そう言うことで自分を納得させていた。


2. 暗号めいた会話


会議が始まった。

CW側の主席代表はアメリカの強硬派で、PF側の代表はソ連の元帥上がりの頑固者だった。二人の間には、一見、和やかな外交辞令が交わされるが、エヴァの耳にはその裏に隠された冷たい敵意が聞こえていた。


1時間の形式的な議論が終わり、両代表はブレイクに入った。エヴァは通訳ブースで目を閉じ、脳を休ませていた。その時、休憩のために立ち上がった二人の外交官、CWのロバート・ウェルズとPFのドミトリー・チェルノフが、ブースのすぐ横の窓際に寄った。彼らは、通訳が休んでいると思い込んでいた。


二人の会話は、いつもの政治的な駆け引きではなかった。


「……サイレンスの周波数については?」ウェルズが低く尋ねた。


「チェルノフ」


「問題ない。最終調整は来月だ。だが、協定外の技術が、我々の合意を揺るがす恐れがある。」


「ウェルズ」


「君の懸念は理解する。しかし、パイプラインは機能し続けている。我々は、過去の過ちを繰り返さないため、投資を惜しまない。」


エヴァの心臓が早鐘を打った。


「サイレンス」「協定外」「パイプライン」


これらは、公式の議題には一度も出てこない言葉だ。彼女の訓練された耳は、彼らが意図的に言葉を隠し、暗号めいた表現を使っていることを悟った。


特に「過去の過ちを繰り返さないため」というフレーズが、エヴァの頭の中でこだました。それは、彼らが第二次世界大戦の勃発を回避した代償として、何か重大な秘密を共有していることを示唆していた。



3. 廃棄文書の中の断片


会議が終了し、エヴァは急いでNMCの地下にある廃棄物処理セクションへ向かった。彼女は「翻訳エラーの確認」と偽り、今日の会議で使われた資料や、過去の関連文書が細断される前の廃棄場所に入り込んだ。


彼女が探しているのは、「サイレンス」「パイプライン」に関連する断片的な情報だった。何時間もかけて細断紙の山を漁った後、彼女の手が、古く、黄ばんだ紙切れに触れた。それは、1950年代初頭の、正式な書式ではないメモのようだった。


【メモの断片】


プロトコルS-29の倫理性についての議論は不毛である。我々は平和のための外科手術を行っているのだ。感情の制御は不可欠だ。ネオ・ベルリンは、そのための最初の試験場となる。


署名:アルファ(CW)


署名:ゼータ(PF)



「平和のための外科手術…」エヴァは息をのんだ。この文書は、単なる武器開発ではなく、ネオ・ベルリンの市民の何かを、両ブロックが秘密裏に「制御」しようとしている可能性を示唆していた。


エヴァはメモを制服の内ポケットに隠した。彼女の心は、通訳官としての冷静な中立性から、真実を求める切迫した好奇心へと、静かに傾き始めていた。


4. 尾行


NMCを出て、エヴァはいつものように混雑した地下鉄の駅に向かった。ネオ・ベルリンでは、誰もが自分のブロックの側に住み、中立地区への出入りは厳しく監視されていた。


プラットホームに立っていると、彼女は違和感を覚えた。

視界の隅で、一人の男が新聞を広げたまま、不自然に動かない。男は、上質なCW側のトレンチコートを着ていたが、その鋭い眼差しは、周囲の誰も見ていないように装いながら、エヴァに固定されていた。彼は、会議の場にはいなかった男だ。


ジェイク、CWの情報機関のベテラン・エージェント。

エヴァは平静を装い、プラットホームをゆっくりと端に向かって歩いた。彼女が歩みを速めると、ジェイクもまた、ごく自然な動きで追従した。


(私を監視している。私が何かを掴んだことに、気づいている…)


エヴァは突然、角を曲がって緊急階段を駆け上がった。ジェイクは一瞬遅れて階段を追った。


地上に出ると、ベルリンの濃い霧がエヴァの視界を遮った。彼女は全速力で走り出し、路地の暗闇へと身を滑り込ませた。


エヴァは立ち止まり、古いゴミ箱の陰に身を隠した。鼓動がうるさく、耳鳴りがする。彼女は廃棄文書を握りしめた。


数秒後、ジェイクが路地の入り口に現れた。彼の目は、獲物を追う猛禽類のようだった。しかし、霧と闇が彼からエヴァを隠した。彼はそのまま、エヴァが消えた方向を見据えて、動かずに立っていた。


エヴァは理解した。この「平和」の裏側には、単なる政治的対立ではない、市民の自由と感情を標的にした、もっと深く、暗い秘密が横たわっている。


(これは、ただの茶番劇じゃない。戦争が起きていないからこそ、始まった戦争だ。)


エヴァはそう決意し、霧の中を、自身の安全を捨てることを覚悟して、真実を探す旅へと踏み出した。

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