スターフィッシュ
坂本懶惰/サカモトランダ
スターフィッシュ
劇中劇の逆、劇外劇を考えよう。ふつう、登場人物たちが役者としてより下位の象徴的な劇中劇を繰り広げる。その劇中劇がこの世界である。この世界は、演じられた劇でしかない、とする。ゆえに、その外側には、もう一回りだけリアルでビビッドな世界が広がっている。
人間より上位の存在であるあなたは、そうだな、この世界で言うところのヒトデに似た姿をしている。宇宙のヴォイドの中に浮かぶ、珪素を主として構成される五芒の星である。しかも大きい。どれくらい大きいかというと、気を抜けば自重で圧縮されそうな程である。数万年単位でゆっくりと自転をしている。恒星間航行している。アルクビエレ・ドライブは未実装であるので、地道に泳いでいる。そして大群である。数百の個体が適切な距離を保ちながら、同じ方向へと進んでいく。目的地は、これから見つけようと思っている。実の所、生物というよりかは、海へと投げ出された、自己複製する瓶詰めの手紙、と言った方が正鵠を得ているように思う。
以降、彼らの種族を単にヒトデと呼称する。
その長く終わりなき旅路では、すごくすごい遠隔作用を用いて、矮小で、しかし珍しい青を湛えたある星の住民としてロールプレイすることが唯一の娯楽であるとされている。
そしてあなたは、劇に興じてのめり込むあまりに、自分がヒトデであることを忘れている。
なので、正真正銘の人間である他のネームドやエキストラと、あくまで対等であると感じている。
ああ、お嬢様、貴方様は人間よりももっと高貴なお方なのです、とあなたが生まれてからずっとその傍で仕えてきた執事はいつも思っている。そして執事もまた、人間のロールプレイであなたの学校の先生を演じている。あなたはそいつを無免許の数学教師だと思って気にも留めない。生徒指導は常に失敗の連続である。担任教師が生徒に、お前は実は異星のヒトデの怪物なのだ、なんて言い出したら、それはもう、だいぶやばい。だからもうどうにも手出しできないのだ。
操り人形は糸が切れればへたり込む。糸、というものがその接続の原理であるように思う。そしてあなたは、人間の神経網という糸を手繰って動かしている。
ただし、人間の視界でものを見て、人間の脳でものを考えている。人間の骨格と筋肉を使って運動するし、人間の本を読んで人間の空想に想いを馳せる。
もはや、誰もあなたを疑わない。ナチュラルボーン・ヒューマンである。と、自分でも信じ込んでいる。夢にも思わない、まさか自分が外宇宙でふわふわしているなんて。
この劇中劇は、モノポリーみたいなものである。日本なら人生ゲームと言った方が伝わるだろうか。飽くまで遊戯でしかなく、賭け事である必要もなく、家族でテーブルを囲んで興じる程度のものである。
そして、例えば、飲み物をグラスへと注ごうとして、モノポリーの駒を肘に引っ掛けて落としてしまったとしても、ふつうは「あ、落としちゃった」としか思わないはずである。すぐに拾い上げて、何事もなかったかのようにゲームは再開される。
しかし、あなたはそうではない。病的にその駒に感情移入している、いやそれ以上だ、あなたは自分の魂がそこにあると本気で信じている。主観はそこにある。だから、それを落とすのは、非常にまずい。落とした、というようには感じない。
なので、こう叫ぶことになる。
落ちるゥゥゥ、と。
そして、自分がいかに弱く脆く華奢で愛らしい存在であるかを熟知している。ガラス細工のように繊細で、折り紙のように湿気に弱い。あなたはその小さな工芸品のような肉体を頗る気に入っており、ゆえにその無限の負け筋を熟知している。割れる、折れる、曲がる、捻じ切れる、など、枚挙には暇がない。
なので、落ちながら、幻肢痛にも似た、差し迫った激しい恐怖を感じるだろう。そのため、明確に「死」というものを意識する。
すると、こう叫ぶだろう。
死ぬゥゥゥ、と。
そして死ぬ。
これはあなたのようなヒトデ全般に言えることであるが、みんな恐ろしくメンタルが弱い。ヒトデの寿命は、全宇宙生物の中でも上位なほど長い。しかも、よく増える。ではなぜ、宇宙がヒトデまみれにならないのか。
それは、彼らのメンタルの弱さが原因とされている。彼らはちょっとしたショックで死ぬ。死ぬと、その巨大な珪素の肉体は、自重で圧縮されて、崩壊する。それは体積を無限に小さくしていく。いわゆるブラックホールの誕生である。
そうして、群体として共に宇宙を漂っていた罪なき仲間ヒトデたちを吸い込み、巻き込んで消滅する。我ら生まれた時は違えど死す時は同じ、なのだ。ゆえに彼らの個体数は適切に保たれている。多く生まれてまとめて死ぬのだ。奇妙な平衡に、自然の神秘を感じるだろう。
という訳で、あなたの横で付かず離れずを保っているあの健気な執事は、あなたと一蓮托生なのである。あなたがストレスを溜めすぎて静かに逝去した場合、なんとも慈悲深いことに、数百の家族を伴ってヒトデのための冥府へと出発することになるのだ。執事も、もちろん家族である。あなたはそれを忘れて久しいが、執事の方はあなたがまだビピンナリア幼生だった頃からあなたを見守っていたのだ。さっさと気付け、あなたは愛されているのだ。
ああ、お労しや、お嬢様、どうか心を痛めないでくださいませ。塞ぎ込んだ時には、適度な運動をするのがようございます。そして、辛くなったら逃げてもよろしいのです。俗世はあまりにも冷酷でございます。お嬢様、私共執事一同は、貴方様がいつご帰還なさってもよろしいように備えております。
と、執事は思っている。だが彼は、人間界では、やはり数学教師の姿をしているので、あなたの人間体の健康や精神衛生を保つ助けはできない。なんで数学教師なんて選んでしまったんだ。もっと、こう、他にもあっただろう。
そして順調に人間として、少女として成長したあなたは、嫋やかな高校生となり、ある青年と出会うことになる。
青年は転校してきたのだ。それも三年生の二学期に。あの数学教師が彼を教室へと招き入れ、自己紹介を勧める。この時点では、まだ名前も知らない。なのに、その柔らかに光を透かす前髪が風に揺れると、何やら心が騒ぎ出す。彼の目が、クラスを走査するようにゆっくりと動き、目が合った。微笑む。あなたが彼に微笑んでいるのか、彼があなたに微笑んでいるのか、あるいはその両方であろうか。
そしてふたりは、恋に落ちる。
もうお忘れかもしれないが、これは劇中劇だ。ゆえに、もちろんその出会いは運命ではない。そういう脚本の劇があり、それにのめり込んでいるだけなのだ。
晩夏になってやっと風は涼やかさを思い出し、開け放たれた窓へ吹き込んで、教室をぐるりと一周してから、そのまま廊下へと吹き抜けていく。その過程であなたと彼の頬をそっとなぞっていっただけで、それはやはり運命ではない。
もちろんあなたはそれに気付かない。ここであなたは概念的サイコロを振って、仮想モノポリーの駒を1マス進める。「アルバイトを始める。20モノポリー・ドルを得る」。
見えない不可抗力に従い、あなたは自由意志によって労働を始める。それは学生の本分ではない。それが飲食店であってフードロスに心を痛めるのか、コンビニであってタバコを番号で指定しない輩に腹を立てるのか、は、些細な違いである。
重要なのは、そのバイト先に、あの青年がいたことである。彼はその少年のあどけなさを残した顔のまま、いらっしゃいませ、と来客に挨拶を投げかける。それを見て、あなたはときめいた。
ここで、前言を撤回する必要がある。うん、これはもう、ほとんど運命と言っても差し支えないだろう。それが仕組まれたものであるとしても、あなたの目には、それは運命にしか見えない。彼の目にも、それは運命にしか見えない。どこから見ても運命にしか見えない以上には、運命でないということを否定しえない。限りなく運命に近いなにか、なのだから、もう近似して運命そのものだと考える方が、却って理性的に思える。そもそも、脚本に沿って進むという必然性は、決定論的な運命観と多くを共有するように思う。
実の所、あなたにとっては、どっちでもいいのだ。あの日に出会えたことが全てである。人間は運命と偶然を都合よく使い分ける。そして、あなたがそのような俗っぽい人間的思考回路に染まってしまったことを、あなたの執事は静かに嘆いている。
二人は仲を深めていく。あと半年もない青春の末尾に、新たな文字を書き加えていく。それは整った文字ではないうえに、唯一性にも欠ける、ありふれたものであった。
しかし、あなたにとっては初めての「ありふれ」である。あなたは見事なまでにそれを謳歌した。四六時中も彼のことを考えている。それは独占欲とも知識欲とも違う、名状し難い感情を伴っていた。むしろ殺意に近い。限りなくポジティブな殺意、そういうものをずっと胸に秘めていた。
二人が辿ったモノポリーのマスには、こんなものもあった。「ふたりで水族館に行く」。試験期間中の早上がりの午後に、二人は制服のまま赴いた。極彩色の熱帯魚や、深海の悍ましさすら感じさせるタカアシガニの水槽を尻目に、あなたはごく自然なことに、壁に埋め込まれて並ぶ小さな水槽の、その中のヒトデに目を奪われる。今のあなたとはこんなにも姿形が異なるのに、なぜだか、とても親近感を覚える。なぜだろうね。
それは、ほんの少しだけ、あなたの執事の姿に似ていたのだ。だが、あなたはもちろんそんなことには気付かない。あなたはそれを、ヒトデが好きな女の子なんて、あんまり魅力的じゃないかも、と考えて、顔には出すまいとする。
しかし彼は、それを見透かしている。そんなあなたを好いているのだ。
そうして、ただ目の前の少女であるあなたは、青年にその存在をくっきりと観測されて、実在性を再定義されていく。どんな声で笑うのか、どんな視線で遠くを見るのか、そういった数多の切断によって、彼は無垢からあなたを彫り出していく。
彼はこの水族館に、よく知らない魚類を見に来たのではなく、よく知りたいあなたを観察するために、あなたを連れてきたのだ。その目敏いことには限りがない。彼にとっては間違いなく、今のこの水族館で生きる生物の中で、あなたがトップを独走しているのである。もちろん、二位のヒトデに大差をつけて。
そして、ある冬の日の夜に、二人は星を眺めに、小高い丘のある公園へと訪れた。排気ガスまみれの幹線道路から離れたところにあるこの小さな公園では、澄んだ空の向こうの、瞬く星がよく見える。同時に、瞬かない星は見えない。瞬かない星が見えないということに、あなたは気付かない。深夜だからか、二人の他には誰もいない。木々を揺らした風が降りてきて、微かに無人のブランコを揺らす。それを気にも留めずに、彼は刈り揃えられた芝に身を投げ出して、大きく四肢を広げた。分厚く黒く長いコートに包まったままであった。
ほら、星がよく見えるよ、と彼は言う。その声音を、あなたは、なんとも快いものだと感じた。
あなたはそれに従って、何年ぶりだろうか、それとも生まれて初めてかもしれない、芝生に寝転がる。芝生が折れる時の、微かな感触が背中をくすぐる。そして、彼に倣って両手両足を思いきり伸ばしてみる。
その姿は、ヒトデに似ていた。
星は、数える程しか見えない。それでも、そのどれもが美しい。名前も知らないし、まして手が届く訳でもない光は、街中を擦れ違う人波とも似ている。話すことも触れることもなく、しかし社会を経由して緩やかに繋がっている、世界の破片たち。すべての星は、存在するからには、過去のどこかの時点で生まれたことになる。ふだん、あなたはそれを忘れている。
そして、並んで仰向けに深呼吸をする彼の、これまでの半生を想像する。冬の乾いた風は、彼の呼吸音さえもよく運ぶ。その穏やかな音色に、平穏と安らぎを感じている。
どれだけ目を凝らしても、最新鋭の天体望遠鏡を使っても、あの執事の姿は、ここからは見えない。しかし、何兆光年離れているかも数え難い向こうから、執事は複雑な表情を浮かべている。
ああ、お嬢様、私共は貴方様の幸福をお祈りしておりますが、ああ、貴方様の幸福とは何なのですか。この我々の生きるべき現実から、逃避しているように思えてなりませぬ。あくまで我々の本分は、宇宙を漂いながら、種を存続させることでございます。もちろん、そちらがまた別の現実であることは重々承知しております。お嬢様、早くお帰りくださいませ。しかしお嬢様、私はこうも思うのです。貴方様が本当に人間になれたとしたら、貴方様が我々と同じ生命体であるということを忘れられたなら、それがいちばんいいのではないか、とも。私は、密かにそう願っているのです。貴方様をこちらへと引き戻そうとする当主様のご意思を裏切って、裏切り続けているのです。そうです、私がお仕えしているのはお嬢様ただ一人でございます。私には未だわからないことがございます。人間として生きて、人間として死ぬ。それが貴方様の幸福なのでしょうか。それとも、そうではないのでしょうか。私にはもう何もわかりませぬ。語りえませぬ。それでも、貴方様の見る色彩が、いと鮮やかであれと願うばかりでございます。
と、執事は俯きながら目を細める。悲愴である。
もちろんあなたはそんな悲痛な願いには気付かない。この世界にあるものは、青年と、あなた自身のみであるようにさえ感じている。それは執事にとって絶望であり、本望であった。
成就した恋は語るに値しない、とは、はて、誰が言っていたものだったか、とあなたは思い出そうとする。そこでキッチンから彼の声が聞こえて、そちらに意識が向く。読みかけの小説をローテーブルに伏せて、ソファからゆっくりと立ち上がる。青年は成長し、あなたはその妻となった。
今日はカレーだ。今日もカレーだ。しかし、昨日のカレーと今日のカレーは、異なる。
二人はスパイスに凝っていて、九割の定石を踏襲したレシピに、あと一割、訳のわからない材料を入れるのが趣味だった。入れてよかったものは、バナナ、インスタントコーヒー。花椒、など。入れるべきではなかったものは、スモークサーモン、グレープフルーツなど。実際、ほとんどのものは入れるべきではなかったけれど、そこまで含めて思い出だ。あなたは、これから死ぬまで、どんなカレーを食べても、食べるたびに、彼と作った失敗作の数々を思い出すだろう。
ああ、お嬢様、それは素晴らしいことでございます、と執事は念じている。執事も少しだけ歳をとった。
失敗することは、何よりも貴重な経験なのです。まして、それを共有できる相手がいるというのは、最上の救いなのです、と。
かつて数学教師を演じていた執事の人間体は、職を変えて、いつの間にやら僧侶になっていた。剃髪していた。しかし僧侶という肩書きも、前職の時と同じく、やはり無免許のものである。
彼もまた、この概念的モノポリーのプレイヤーのひとりである。あなたとは別行動をし続けているだけで、しかし一貫してあなたの味方であった。
実は僧侶になる前に、日銭を稼ぐためにSPをしていた時期もある。黒服に身を包んで、護衛対象と民衆との間に立ちはだかり、インカムに耳を傾け、腰に提げた日本刀が一閃する。そうして襲撃者を次々と両断した。キルレシオは鰻登り。
執事にとってこの人間の身体は、ゲームのキャラクターと変わらないのである。適切なコマンドを入力することで居合が発生して、その間合いを誰よりも客観的に把握している。人間に執着がなく、情も湧かず、また自らの死の恐怖も持たない。人斬りは執事の天職であった。
とはいえ、執事はその天職にさえも執着していない。労働を始めとする人間としての生活は、この肉体を維持するためのものであり、肉体を維持するのは、主君であるあなたを守るためであった。そのために、執事がただひとつ求めたのは、絶対的な強さであった。そして、SPの職を通して、執事は既にそれを体得している。ゆえに、この職への未練は一片も残していない。
なので、実は、何百人も殺している。その業の深さから、当時の護衛対象であった総理大臣に、仏門へと入ることを勧められ、断る理由もないのでそれに従ったのだ。もとより執着の様子もない飄々とした人間と捉えられる性質なので、確かに僧侶という役回りは、執事のもうひとつの天職なのかもしれない。多くの生者の迷いに光明を授け、多くの死者の迷わぬようにと送り出す。
けれど、執事は、あまり人間界に迎合しようと考えていないようだ。飽くまで執事にはヒトデとしての矜恃があり、それを誇りに思っている。職業は事務的なものであり、課された役割以上のことをするつもりもない。人間というものを、正直なところあまり好いていない。しかし仕えるべき主であるあなたと、あなたが選んだ彼のことだけは信じている。それは執事の本体があなたの本体と運命共同体であることとはなんら関係なく、あるいは執事と令嬢の関係である必要もなく、ただ純粋な愛情によるものであることを、あなたは知らない。
あなたの周囲では、円満なる日々が過ぎていく。子供が産まれ、それを育て、孫が生まれ、それを育てた。母親になり、祖母になった。いくつもの幸運と幸福を飲み干して、病にも悩まされず、今は陽だまりの窓辺で孫の手袋を編んでいる。
手袋は、小さい。それは五本の指を持って、ああ、やはりヒトデのようだ。
さらにいくらかの年月が過ぎた。
そして今、あなたの前で、彼が横たわっている。病棟の一人部屋、夕日の差し込む部屋の中央だった。あなたは移動式の丸椅子に腰掛けて、彼の顔を覗き込む。そして手を握る。彼の老いた身体は細まって、その無力さをすら嘆けぬほどに衰弱している。ちょっと前まで、彼は青年だったというのに。
清潔な病室には、もう風が吹くことはない。管に繋がれた彼は、静かに胸郭を上下させている。細く閉じた目の上、皺のある瞼が時折軽く痙攣する。
彼も、夢を見ているのだろうか。
と、あなたは考える。そして、それが幸福な夢であることをあなたは祈っている。
あなたは、それを看取る。その心電図が原初の静寂を取り戻したのを見届ける。
葬儀は、懇意にしていた僧侶を呼んで執り行われた。頑なに表情を崩さないその僧侶は、黒い袈裟を纏って、音もなく歩く。それが執事であることに、もちろんあなたは気付かない。
あなたにとってはたった一度きりの夫の葬式であるが、僧侶にとってはこれまでの数多の、そしてこれからの数多の葬式のひとつでしかない。葬式は可算名詞である。
しかし、その袈裟に隠れた手の中の数珠が、微かに震えたような音が、あなたの耳に届いた。僧侶はすぐに読経を始めた。式は予定通りに進んでいき、当然のように終わった。火葬と納骨のことを、あなたはあまり覚えていない。ただ喪失だけがあり、それは無地ですらない、記憶が色を塗る先もない空虚であった。
その一週間後に、あなたは、別の病室の、窓辺の陽だまりの中で、同じように静かに亡くなった。あなたの娘は、最後まであなたの手を握っていた。
やはり懇意にしていた僧侶の元で、葬儀は厳粛に執り行われた。そこにはあなたの家族たちが参列した。どれもあなたと顔が似ている。
僧侶は、僅かに俯きながら、思い詰めたような表情で親族の前に立つ。ありがたいお話は、一向に始まらない。数珠を握る手が震え、軋む。
どうかしましたか、と問われ、僧侶はその身に覚えのない質問に当惑する。そして、自分の頬を涙が伝っていることを知る。
それは、この人間の肉体を完全に掌握してきた執事にとって、初めての不随意な反応だった。
これはこれは、大変失礼いたしました、と、微笑んで、取り繕う。取り繕えていない。涙が止まらない。式は中断された。そして、あなたの娘が、僧侶に声をかける。
きっと、お辛いことがあったのでしょう、と。
僧侶は思う、その言葉は本来、自分が投げるものであるのに、と。しかし、こうも思う。その声の響きは、お嬢様の豊かな階調のそれとよく似ていた。顔を上げれば、不安そうに覗き込むその虹彩は、お嬢様の深く青いそれとよく似ていた。ここから見える夜空の濃紺、あなたの故郷の、外宇宙の色だった。
そして執事は、その宇宙の果てで瞑目する。外宇宙は暗く、光もない。ゆえにヒトデたちは視覚を持たない。当然、目という器官はとうに退化して久しい。瞑目というのは比喩でしかない。
だから、ヒトデの目は、ただ涙を流す器官としてのみ残っていた。
ああ、お嬢様、往かれましたか。
その隣で自壊してひび割れ、極めてゆっくりと自重で圧縮されていくあなたの遺骸を見て、さらに涙を流す。
ああ、お嬢様。あなたの本体は、これから私共同族を巻き込んで消滅するでしょう。私とて例外ではありませぬ。貴方様は、いわゆる、ブラックホールになるのです。それは、斯くも美しき葬送でございます。お嬢様はホーキング放射をご存知でしょうか。星はその末路のその先に、ごく弱い光を発しながら、緩やかに蒸発して、そうして消えていくのです。だから、貴方様の生きた痕跡は、我々の生きた外宇宙には塵程も残らないのです。私にはそれが悲しくて堪りませぬ。
しかし、これでよかったのです、とも執事は思っている。貴方様の生き様は、愛し愛され、間違いなく美しいものでございました。お嬢様にお仕えできて、私共も恐悦至極でございました、と。
そして、また青い星の僧侶の身体に意識を戻して、心配そうなあなたの娘に対して、言う。まだこの身体は動きますので、ご心配なく、と。
そうですか、と娘は応え、微笑む。
報われたのですね、お嬢様。貴方様は最後まで幸福でございました。貴方様はそれを証明してくださいました。ただヒトデとして生きるだけでは残せなかったものを、貴方様はこの星に残していかれたのですね。執事一同、貴方様をお見送りできて、身に余る光栄でございました。
そうだ、身体はまだ動くのだ。この葬式が、私の最後の葬式だ、と執事は前を見据える。式は再開された。
あなたの娘は、最後に、棺を覗き込んで目を瞑った。あなたの白く冷たくなった手に触れて、それを優しく握りしめた。
夜が明けた。昨晩、僧侶は、一晩中、静かに泣いていた。泣き疲れて眠って、何かの夢を見た。それはあなたの出てくる夢であった。一言二言、言葉を交わして、目が覚めた。
僧侶は、身辺整理を始めた。あの外宇宙では、既にあなたの崩壊が始まっている。執事は、やがてそれに巻き込まれて消滅するだろう。それまでに、この世界でできることをしておかねばならない。家具を売り払い、所属する寺に還俗届を提出し、数年ではあったが馴染み深く思えた居室から退き、身一つで歩き出す。
ああ、未練などもうございませぬ。
河川敷を、意味もなく歩いている。燻んだベンチに座り込む。
そして、通帳に記された莫大な額の資産を眺めて、大きく溜息を吐いた。執事は、あなたに何かがあった時のために、貯金をしていたのだ。貯金なんて額ではない。ほとんど財団である。それも、もう必要ない。
貴方様の人生が、それを動員する必要のない平穏なもので、よかった。
もうこの貯蓄も必要もない。執事はそれを適当な団体へと寄付してしまった。以前ならば、人間などがどうなろうともどうでもいいと思って捨てただろう。けれど、今は、どうにもすべての人間が、あなたの存在と同様に尊いものに思えてしまう。
そして、執事の足が縺れる。あちらからの操作が、この肉体まで届きにくくなってきた。それもそうだ、生まれつつあるブラックホールが強烈に時空を歪めているのだから、まだ動けていることの方がおかしいのだ。
それでも、ずっと歩いていた。何も持っていない。やがて日が暮れる。
今はただ、感覚が過敏になって、しんどい。幹線道路や、踏切や、街灯や、夜の往来から逃げるように、執事は漂う。
そして辿り着いたのは、小さな公園だった。二三の遊具があるだけの公園。中心部が小高い丘になっており、それを芝が覆っている。その頂点へと誘われるように、歩いていく。
丘を登りきって、ああ、通信が途切れた。と思うより先に、身体が投げ出される。文字通り、糸が切れた。操り人形の糸が切れた。わかっていたことだ。仰向けに、脱力した四肢を放りながら、まだ五感は残っている。
風が執事の頬を撫でる。春の夜の風だ。あたたかい。どこかの家からカレーの匂いが流れてくる。
そして何より、星が、きれいだった。その空の遠く彼方に、あなたの星を見つけて、執事はゆっくりと目を閉じた。
そうして、外宇宙で、いくつかの星が消えた。
そのことを、あなたの子供たちは知る由もない。
スターフィッシュ 坂本懶惰/サカモトランダ @SakamotoRanda
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