五.


「言っとくが先に刃物出したのはお前だぜ。正当防衛だよな?」

 榊は依頼人を見下しながら片側の口角を上げた。元々目つきが悪いのも相まって、傍から見るとどちらが悪人だか分からない。神父が悪魔になったかのような顔で蟹江は榊を見、近くに手頃な長物はないかと探している。そんな依頼人に対し、榊は一歩一歩じりじりと近づいていく。

 蟹江は近くにあった段ボールを榊に投げつけようとしたが、手の怪我によりうまく力が入らないらしい。ダンボールは床を滑り、榊の目の前で止まる。それをも蹴り飛ばして、部屋の隅へと追い詰めていく。

「俺たちを見くびりすぎだよ。模擬刀? んなもんで商売ができるかよ。こっちは命懸けで真剣にやってんだぜ」

 血で濡れた切っ先を蟹江へ向けると「ヒッ」と短い悲鳴を上げて這いつくばるように後退りするが、自分の血液にまみれた手ではぬるぬると滑るらしい。時折肘を打ち付けながら叫ぶ。

「そんな……そんな危険なもの、なんで持ち歩いてるんだ! 人を殺せるじゃないか!」

「お前に言われたかねえな。道具は『使い方』だよ。霊を祓うためにしか俺は使わない」

 榊は抜刀したまま依頼人に近づいていく。日の光がカーテンの間から差し込めば、その祓い刀は美しく妖しく光る。蟹江は何かを喚きながらも壁の方面へとにじり寄るが、もう逃げ場がない。背後の壁にべたべたと血の手跡をつけている。

 だが、この澱みが受けた恐怖は、こんなものではないだろう。

「死ぬほど胸糞悪ィから俺が手を下したい気分だけどな、不運か幸運か、此処は法治国家だ。法の下で裁かれるべきなんだろう。だが」

 ゆっくりと刀を鞘に仕舞う。蟹江が安堵の表情を見せたのもつか

「残念ながら、そこの『お嬢さん』はやる気だぜ」

 榊の隣に立っていたはずの澱みは、今は人の形を成していない。榊が言った瞬間、部屋全体がどす黒く澱んでいく。部屋の至る所で無数の血走った目がぎょろぎょろと動き出し、笑いとも叫びとも言えない混沌と狂気に満ちた禍々しい声が部屋を包む。

 依頼人はすがるように榊に手を伸ばす。顔は血と汗とよだれまみれて非常に汚らしい。まるで地獄絵図だ。

「やめ……やめてくれ……なんだ! これは! なんなんだ! なあ! おい!」

 依頼人には視えなかったはずの澱みも、聞こえなかったはずの恨み声も、今は全て認識しているらしい。この澱んだ場に居続けたからなのか、依頼人が狂気に陥ったからなのか。やっとこの暗澹あんたんたる気分と澱みの怨情えんじょうから解放される。榊は蟹江を見下しながら嗤笑ししょうした。

「おいおい喜べよ。あんたの欲しかったものだぜ。だが融合なんて願い下げだとさ。代わりに狂気のプレゼントってところか? 目には目を、歯には歯を、狂気には狂気を」

 耳を塞いでも目を塞いでももう無駄だ。

 視えたら最後、聴こえたら最後。最早、現実なのか幻なのか、依頼人にはもう分かっていないだろう。

 榊は美優だったものを一瞥いちべつし、背を向けた。

「……今回ばかりは特別だ。俺は目を瞑るよ」

 依頼人の断末魔を背後に浴びながら、榊は玄関ドアへと歩を進めた。



「アニキ! 無事っすか! 今の叫び声は……」

 ドアを開けると目の前には榊が昔に面倒を見ていた弟分が立っていた。制服も着慣れてきたようで、馬子にも衣装と揶揄からかっていた頃が懐かしい。澱みと狂った依頼人の瘴気しょうきから解放され、見知った顔を眺めるとひどく安心した。

 無事という意味で軽く頷くと、桐哉きりやの頬が一瞬緩んだ。しかしすぐに気を引き締めるように敬礼し、現場のアパート内へばたばたと走っていった。

 結はそんな二人の様子を少し離れた場所から眺めている。榊の姿を見て、ほっとしたように傍に駆け寄った。

「おう。呼んでくれたんだな」

「もちろん。手筈通り」

「さんきゅ」

 ふと結の視線が榊の首元にいく。黒のタートルネックの上からでも分かる赤黒いそれは、線状に、点状に飛び散るように広がっている。結はそれが血である事に気づいたらしく、目を見開いて襟元へ手を伸ばす。相変わらず距離が近い。

「血じゃん!? どっか怪我したの!?」

「俺は無傷。依頼人が暴れてたし返り血かもな」

「かえ……!?」

 結は榊の肩越しに現場となったアパートの中を覗こうと背伸びするが、榊の手によってその目は覆われた。

「……お前は見んな。もう桐哉きりやに任せとけ。大丈夫、俺は手を出してない」

 流石に人を殺しはしない。分かってはいたことだが、その言葉に結は胸をで下ろしたようだった。

 依頼人は気絶したらしい。聞こえるのは澱みのくぐもった怨嗟の声と、桐哉きりやが本部に応援を要請する明朗快活な声だけだ。

 依頼人の大絶叫はただ事ではない。近隣の住民が何事かと顔を出してきたため、刀を所持する榊はさっさとその場から退散したい気分だった。

 やがて桐哉きりやが電話で救急車を呼びながら部屋から出てきて、ポケットから立ち入り禁止と書かれたテープを取り出し玄関を塞いでいく。それをものともせず部屋奥からふらふらと澱みが出てくるのを桐哉きりやは驚き避け、のけぞりながら凝視している。

「アニキ、ちょっと!」

 榊を呼んでひそひそと耳打ちする。

「それ──例の被害者っすか? どうするっすか。連れて帰るんすか?」

「こいつについては俺らで対処しとく。あ、そうだ」

 榊は上着の内ポケットから封筒を取り出し、桐哉きりやに手渡す。

桐哉きりや、これ頼んだ」

 戸惑いながらも受け取った桐哉きりやは封筒の中身をちらりと見て息を呑んだ。渋沢栄一が百人ほど覗いている。

「ちょっ……なんすかこの札束!?」

「中で倒れてるクソ外道から依頼料で受け取った金だよ。被害者の家族に渡してやんな」

「俺がっすか!? だとしてもアニキ、まだ祓わないなら家族に会わせてやっても」

「下手に俺たちみたいなのは介入しねえ方がいいだろ。怪しさ満点だ。……これ以上、引っ掻き回されたくねえだろうし」

 遺族の心情をおもんぱかるとそれが最善だと思えた。桐哉きりやが呼んだ応援が来る前に、榊と結、そして澱みはその場を立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る