大学日本拳法という天国への道 V.1.1
@MasatoHiraguri
第1話 第0話 (天国を目指す私にとっての)大学日本拳法の意義(価値・重要さ)
新約聖書の要諦(①肝要なさとり ②肝心の点・大切なところ)とは、イエス・キリストらしい生き方と死に方をすれば、誰でも彼が言う『天国』へ行けるが、その難関を突破するのは難しい、ということ。
因みに、天国とは人の魂・スピリットが再びその人に生まれ変わるまでの待機所のようなもの、というのが私の解釈です。イエス・キリストは十字架上で死んでその待機所(天国)へ行き、再びイエス・キリストとして生まれ変わる。これを今まで何度も繰り返している、のだと。
つまり、イエス・キリストという人間は、何万回も「生まれては死に」を繰り返してきた。特にその晩年は、人々に尊敬されたのと同じくらい、否、それ以上の精神的苦しみ(裏切り・嘲笑・迫害)を受け、最後は十字架上で殺されるという人生を。
おそらく、35歳くらいまではかなり充実した・中身の濃い人生であり、その繰り返しが晩年の新約聖書に書かれているような、多くの立派な言行につながったのでしょう。一回こっきりの人生で、あそこまで濃いはなしができるはずがない。
仏教の釈迦のように、若い頃は王子様として3,000人の女性に取り囲まれた後宮(日本の江戸時代の大奥)で、飲めや歌えの生活をし、35歳に坊主になって今度は3,000人の先輩修行僧に囲まれて修行をした、というのとは違う。イエス・キリストとは、神と自分との一対一の真剣勝負というか、対話の中で自分を磨いてきた人間であったようです。
そんなイエス・キリストの真剣勝負・人生の再現性に魅力を感じる私は、「オレも成田屋イエスのように」と、自分なりの「天国へのアプローチ」を始めたのですが、それに資するのが大学日本拳法の魂というか根性ではないか。
2010年、私が53歳で書いた「思い出は一瞬のうちに」の頃より気づき始めた「自分の過去に学ぶ」ことによって、還暦の頃には「60年で再び生まれた年の干支に還(かえ)る)どころか、「オレは再び自分に還る」のではないかとさえ思い始めた。
2016年の日本映画「君の名は。」で、その思いは俄然強くなり、翌年2017年の欧州旅行で奇遇のチリ人女性に聞いたreincarnationの話や、ニュールンベルグでの白日夢とその数ヶ月後の青森三内丸山古墳訪問で見た景色の一致によって、「自分が自分に還る」は確信となりました。
その永劫回帰(一周してもとへ帰ること。めぐりかえること。くりかえすこと)の意識が、2018年頃よりの大学日本拳法時代への回帰(各大学のブログを見たり各種大会を観戦する)となったのです。
そして、2025年には天理大学図書館で再び出遭った新約聖書によって「イエス・キリストだけでなく、オレでも天国へ行けるのではないか。」と強く思い始めました。
(また最近になって、手っ取り早く金を稼ぐ為に飛び込んだ日雇い労働者(土方・土工)の世界で、いよいよその確信は強まったのです。土方・土工の世界とは、ザックリ言えば正直者の集まり。正直なるが故に犯罪を犯したり、一般社会(普通の会社や工場)では受け入れられない人々を賛美・崇拝するわけではないが、新約聖書(イエス・キリストの言行)に通じるものがある。)
○ 「見る前に飛ぶ」(大学日本拳法における)習慣
が、(社会人になってからは)私の習性となり、ジジイになった今では本性・人性(人の本然の性・人間としての性質)となっている。予測不能・未経験の場で気合いと根性で切り抜ける力。68歳にもなって、「!」と、いきなり大阪西成のどや(安宿)に寝泊まりし、日雇い労働者なんかするか?という話です。
大学時代、日本拳法の試合で「お見合い」なんてしない。相手がどうであれ、間合いに入れば必ず・即前へ出て面突きを行う。(周囲からは、シャモのケンカ・バカ拳法と言われたワンパターンでしたので、毎日の練習でも公式戦でもそれを読まれて、なかなか勝たせてもらえなくなりましたが、私は気にしませんでした。ただ、元気がある拳法ということで、現役中、公式戦ではずっと先方でした。)
本当に・真剣に殴り合う瞬間にこそ真実が見える・真剣勝負の醍醐味がある。相手を殴るとは、同時に自分も殴られるということであり、その危険にあえて(自分の意志・気合いで)飛び込むことによって「なにものか」を体得できる。野球で真剣にバットを振る、サッカーで真剣にボールを蹴る、なんてことよりも数倍というか、全く次元の異なる「真剣になれる場」なのです、日本拳法における相打ちの一瞬とは。
極論すれば、この一点にのみ大学日本拳法の醍醐味・本義(本来の意義・正しい意味・根本をなす大切な意義)がある、といってもいいくらいではないか。それに比べれば、段位を取る・試合で勝つ・優勝するなんてどうでもいい、とさえ言える、と私は思います。
大学日本拳法におけるわずか3分間の殴り合い(という真剣勝負)には、70のジジイで飛び込んだ、朝3時起床5時から17時まで、何から何まで真剣勝負の肉体労働者の世界に匹敵する真剣度(天国へ行くための根性)があります。
○ 原理・原義(もとの意義・原意)に則した「場と間合いと拍子(タイミング)」
ケンカ(ストリート・ファイト)における殴り合いと違い、大学日本拳法には、この場・この一瞬、絶対にここしかないというポイント(相手の顔面・顎の所)に、理に適った・義に則した・時宜を得た拳をぶち込むという正義・正当性・合理性がある。
(本義に外れ、ただ場と間合いと拍子(タイミング)で勝つ・問題を切り抜けるでは、要領がいいというだけで真実に行き着くことはできない)
○ 心と肉体の完全一致
心で打つと思った瞬間、相手の顔面にパンチがめり込んでいる。(現実には相打ちか、相手の拳が先ということも多いのですが)
○ 打たれ強さ
私の拳法とはワンパターン(相打ち勝負)なので、自校の練習でも公式戦でも、勝ち負けは別にしてずいぶん殴られました。一方的に殴られるのではないので痛みはなかったのですが。
「人を愛する」とは、たとえ相手が嫌な奴であっても辛抱強く付き合う(ことで何ごとかを学ぶ)こと。どんな嫌な人間でも学ぶべきことがあるものですが、それを観察し・学びとして吸収するには、粘り強く相手の心・気持ちに接し(続け)、その身上(とりえ・値打ち・本領)に学ぶこと。自分よりも強い相手でも食いつく、嫌な奴でも傍に居るようにする、これが愛であると思います。
実際、イエス・キリストは新約聖書中、嫌なパリサイ人や異邦人たちから逃げず、常に彼らのど真ん中で生き(そして殺され)た。これがイエス・キリスト流、愛の実践であったのです。
第1話 私的な新約聖書の解釈
新約聖書に対する私の理解とは「イエス・キリストが神の子(神の代理)として、あなたや私・人類を救済してくれる」ということではありません。私たちが困っている時、「mother Merry comes to me, speaking words wisdom 『Let it be あるがままにせよ』」という教えでもない。
自分で自分を厳しく律することで、誰でも天国へ行くことができる。だが、誰もそれをやろうとしない。イエス・キリストだけが、自分で自分を厳しく律するという自己鍛錬によって(新約聖書の中で)正しく生き・死んでいった。
つまり、イエス・キリストの真摯で・真剣で・本気で・必死な生き方こそが「天国への道」であり、「イエス・キリストを信じる」本義(本来の意義・正しい意味・根本をなす大切な意義)である。
この厳しい事実・現実を認識した上で、イエス・キリストと同じ生き方・死に方を、人それぞれの境遇・生活環境・人間としての立場において自分なりのスタイルで行えば、おそらくイエス・キリストが行き着いた「天国なる世界」へ行けるであろう、というのが私平栗雅人の解釈なのです。
第2話 22:14(天国へ)招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(新約聖書)
新約聖書中、最大の矛盾とは、誰でも天国へ行く資格はあるが誰も行けないというイエス・キリストの言葉にある。しかし、イエス・キリストは行くことができた。
それはどんな逆境にあっても、イエスは神を信じたから。だから、あなたも私も「神の子であるイエス・キリストを信じ彼に祈る」ことで、なんとか自分も天国へ行かせてもらおうというのが、世界中に広まるキリスト教の本義(本来の意義。正しい意味。根本をなす大切な意義)なのでしょう。
なにしろ、イエス・キリストの「天国へ行くための」教えとは、常人ではとてもやれるものではないくらい厳しい。汝の敵を愛せ、エッチなことを考えるな、嘘を言うな、あまつさえ、金持ちは天国へ行けない(現世でカネを貯めないであの世でカネ(徳)を積むような生き方をせよ)、等々。
<引用始め>
5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
19:18イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」と。
・・・
5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
19:21イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
19:30しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。
<引用終わり>
第3話 「信じるものは救われる」自分なりの天国
何を信じるかによって「救われ方」は違ってくる。世に存在する教会の教えとか、世界中に広まるキリスト教に関する常識ではなく、自分なりの聖書の解釈・イエス・キリストの理解によって、救われる(天国へ行ける)のではないか。
蓼食う虫も好き好き(辛い蓼を食う虫もあるように、人の好みはさまざまである。)、新約聖書を平栗雅人流に解釈し、それが天国であると信じることができれば、それでいい、と私は思うのです。
○ イエス・キリストは天国へ行けた。「19:29永遠の生命を受けつぐ」ことができた。
○ 天国とは自分の人生を繰り返し行うための「待機所」のこと。
○ 自分の人性(人の本然の性・人の性質)を煮詰めて・極めることで、その人の人生を何回でも行うことができる。これこそが人間として最高の幸せではないか。
例えば、私の勝手な解釈では;
イエス・キリストは「金持ちは天国へ行けない」と言いましたが、それは「豊かすぎてはかえって不幸になる」ということ。
早い話が、美味いもの・栄養のあるものばかり食っていると、逆に不健康になる。
質実剛健(飾り気がなく真面目で、強くしっかりしていること)こそ、肉体的に健康となり、精神的にも「天国へ行ける」ということなのです。
精神的に(イエス・キリストのように)豊かになることで物質世界を超えられる
新約聖書中、彼の多くの(譬え)話とは、彼の極めて豊かな心の証明といえる。
35歳程度の人間が、よくもあそこまでいろいろな経験を積み、そこから抽出された真理を、様々な譬え話として開陳(意見などを申しのべること)できるものだ、と感心させられます。
新約聖書中のイエスの言行とは、あまりに生真面目で堅苦しいが、それは彼のそういう面だけ述べられているだけであって、彼の持つ詩情の深さ・心の豊かさ・美しい精神性もまた、新約聖書には書かれていないにしろ、常人を逸したほどのものであったのではないだろうか。
その豊かで高度な精神にとって、パリサイ派ユダヤ人に扇動された何十万人の大衆から石を投げられようと十字架に磔にされようと、大したことではなかったのでしょう。
何万回も、そして未来永劫、(35歳までの充実した人生と晩年の不遇という)イエス・キリストの人生を繰り返すことができるのですから。
<引用始め>
7:28イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
・・・
13:54そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
13:55この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
<引用終わり>
第4話 中国とは現代のイエス・キリストか
「天国」とは再現性のある生き方のこと。
そう解釈すれば、正直でストレートで公明正大を義とする中国人は天国へ行ける(生き方をしている)ことになる。
一方で、自分(たち)の原点を故意にぼやかし、いつもどこででも、強い者(國)・金持ちの使い走りとして・属国民として、名前や国籍を変え口ばかりの民族性を誇示して生きる民族もいる。彼らは、ここ2,000年間は中国、そして近代に入ってからはロシア・日本・アメリカといった大国の属国(民)として「要領よく」生きてきた。
しかし、世の中は不可思議なもの。
そんなまともな中国人が日本の政治屋・マスコミ屋・警察屋・戦争屋に嫌われ、アメリカという大国の走狗となっている韓国人的日本人が好まれて、首相をはじめ国会議員やテレビを中心とした様々なマスコミの顔として人気を博している。
早い話が「中国とは現代のイエス・キリスト」といえるのかもしれない
第5話 自分の身の丈に合った中国(人)との付き合い
私は新約聖書に書かれたイエス・キリストを自分で解釈し、キリスト教徒ではなく私なりに彼の人性(人の本然の性・人の性質)と付き合いたい。
同じく、日本の政治屋・マスコミ屋・戦争屋でかまびすしい(やかましい。さわがしい)中国(人)とも、自分の考えで付き合う。世上、マスコミが喧伝する「中国(人)」というものに興味も関心も無い。
中国の人民網日本語版など、日本のどの新聞よりもまともなことが書かれている(口調や論調は中国人らしく、濃いが。)
その意味で、少なくとも日本の韓国脳が支配する言論界における中国とは「現代のイエス・キリスト」に例えられるかもしれません。
もし私が20歳代で、中国と戦争をするから徴兵される、なんていう事態になれば、かつてベトナム戦争に一人反対して兵役拒否をしたモハメド・アリと同じ道を歩むでしょう。
彼は言いました「オレにはベトナム人に何の恨みもない。戦うべき相手はベトナムではなく、黒人を差別するこのアメリカの白人優位主義社会だ。」と。
中国や中国人を嫌いな人、韓国脳が好きな人はそれで結構。
私は私で、中国の食品をはじめ様々な手頃な値段の中国製品のおかげで、豊かに健康に生きていけるという厳然たる事実から、パンダなんかどうでも良いが、中国とは仲良く付き合っていく(人間と交流するということではありません)でしょう。
(興味深いのは、中国人でも日本に住んで日本名で生きている中国人が、在日韓国人がやるような重篤な性犯罪を犯した事件がありました。偽名を使う人間とは人間としての核がなくなり、モラルや節操がなくなるものなのか。)
私のやっていた禅坊主の精神的規範となっている、或いは、かれら禅坊主が現在でも売り物にしている禅(語)とは、すべてMade in China、中国の坊主が言ったり行ったこと(臨済録・無門関といった言行録)を基本にしている。
日本が韓国(南朝鮮)に教わったものなどひとつもない。仏教でさえ、インド・中国、そして「韓国経由で日本に入ってきた」というにすぎない。だから、聖徳太子は南朝鮮との交流を止め、中国との直接交流に切り替えたのです(遣隋使)。
韓国を否定するわけではないが、私の中では大学時代の在日韓国人OB以外、その存在感は無に等しいのです。
2025年12月13日(土)
V.1.1
平栗雅人
大学日本拳法という天国への道 V.1.1 @MasatoHiraguri
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