世界を変える者

古田 まお

第1話

戦場に響く剣戟の音。

炎と闇が渦巻く中、勇者は剣を握りしめ、魔王と対峙していた。

胸の奥で、何度も同じ問いを繰り返す。

――魔王を、倒すことが正しいのか

魔王が地上に現れてから、争いは苛烈になっていき、各地で人間と魔族の攻防が続いて、戦況はじわりと魔族側へ傾いている。

街が落ち、避難民が溢れ、世界は静かに崩れ始めていた。

世界の理は告げている――魔王を倒せるのは勇者だけだ、と。

使命は理解している。果たさなければならない。

だが、心は追いついてくれず

薄れゆく痛み、遠のく眠り、瞬く間に癒える傷

日に日に、自分が“何かに変わっていく”恐怖が、胸を締めつける。

――僕は……一体、何になるのだろう

逃げたい。変わりたくない。仲間の傍にいたい。

その弱い声は幼子のように、泣きじゃくりながら胸の奥で叫んでいた。

仲間の笑顔が脳裏をよぎる。

――拒絶されたくない。

だが、変化は止まらない。

いずれ自分は、彼らの手の届かない場所へ行ってしまうのだろう

使命と恐怖が、剣を握る手の中でせめぎ合っていて、苦しみ藻掻く

だが――それでも、守りたいものがあった。

譲れない願いで、想いで、勇者が見た夢だ

その瞳は燃えるともしびを映し、迷いのない光を宿していて

勇者は最初から、相打ちを覚悟していた。

自分の力は、いずれ人間にとっても恐怖の種となる。

だからこそ、死なねばならない。命も魂も灰となり、輪廻を失っても構わない。

未来を守るために、彼は剣を振るった。

魔王は剣を受け止めながら、低く笑った。

「……その目だ。

神に選ばれた者の目。

哀れなほど、俺たちと同じだ。」

勇者が息を呑む。

魔王は続ける。

「お前は何を背負っている?

神に作られ、人間に祀り上げられた……ただの人形が。」

その声には、嘲りよりも深い怒りが滲んでいた。

「俺たちは神を拒んだ。

駒として生きることを拒んだ。

だから魔界は闇に沈んだ。

だが――」

魔王の瞳が勇者を射抜く。

「お前はどうだ?

結局、神の作った道具のまま終わる気か」

それは勇者への怒りではなく、

神に届かぬまま積もり続けた憎悪だった。

魔王の剣の炎が、噴き上がる感情に合わせて激しく燃え

怒りに声が震える。

だが次の瞬間、その激情はふっと静まり、

魔王は冷たい笑みを浮かべた。

そして、憤りを断ち切るように――

魔王は炎を纏った剣を振るう。

「勘違いするな、勇者。俺は地上そのものを消そうとしているわけではない。

人間が邪魔なだけだ。弱く、脆く、力に縋る存在……それが不要だと言っている。」

剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。

「人間は弱い故に祈りに縋る。だが祈りは力ではない。

声で世界は変わらぬ。祈りに縋る者は未来を歪める。

その歪みこそが、俺たち魔族にとって脅威なのだ。」

勇者は息を呑む。

魔王の言葉は冷酷でありながら、どこか切実な響きを帯びていた。

「魔界は負の力しかない。その力は俺たち魔族を蝕み、滅びへと追いやる。

だからこそ、俺は地上を欲する。生命の循環がなければ、我らは死を待つのみだ」

「……何故だ。何故、魔族だけがそんな目に遭わねばならない?」

魔王の瞳が、細められる。

「それを問うか、勇者。答えは一つ――神を裏切ったからだ。

我らは神に創られた駒だった。命さえ道具にされ、自由はなかった。

だが我らは拒んだ。駒として生きることを。

その反逆の代償が、魔界の闇だ」

その瞬間、勇者の胸に理不尽な痛みが走った。

それは傷の痛みではなかった。

魔王の瞳に映ったもの――それは人間と同じ、神に翻弄される者の影だった。

「千年だ。地上に来るまでその絶望を味わった。お前には解るまい。勇者!」

魔王の声には嘆きだけでなく、駒であることを拒んだ誇りが宿っていた。

魔族もまた、未来を奪われ、選択を許されず、ただ抗うために牙を研ぎ続けてきた。

勇者はその事実を悟った瞬間、胸の奥に更に鋭い痛みを感じずにはいられない。

――なぜだ……なぜ同じ痛みを背負いながら、剣を交えねばならないのか。

魔王の嘲笑は冷たく響きながらも、自嘲の影を含んでいた。

その瞳に宿るのは、人間と変わらない

魔族もまた、神の冷酷な意志に縛られている

「滑稽な道化だな……我々は。」

魔王の声は冷たく響きながらも、どこか深い苛立ちを含んでいた。

「笑えるな。……笑わせる。だが、笑うしかないのだ。

我ら魔族もまた、神の鎖に囚われている。

抗うために牙を研ぐしかない。未来を望んでも、選ぶことは許されぬ。それが我らの理不尽だ。」

勇者の瞳が揺れた。

魔王の嘲笑は、ただの嘲りではなかった。

そこには、自らも神に囚われた者の苦悩が滲んでいた。

抗う者の瞳に宿る影は、人間と変わらぬ未来への希求だった。

勇者が見てきた人々と同じ“色”の瞳

自分の使命とされることが、正しいのか

――魔族の未来を奪っても良いのか。

未来を思い描く姿は、人間と何も変わらないというのに。

それなのに、それを奪うのは……


人間が勇者を必要とするのは魔王がいるからだ。

魔王がいなくなれば、勇者は不要となる。

だが魔族はどうだ。彼らは神に翻弄され、負の地に追いやられ、滅びを強いられている

未来を取り上げることが、本当に正しいのか。

勇者は思った。

――彼らにも未来を。

勇者である前に、一人の人間として、そう願わずにはいられなかった。

しかし、地上に降りて時は浅く、経験も乏しい自分が、世界を変えられるはずもない。

仲間と共に歩む未来も、彼らが長命でない以上、途中で途切れる。

ならば自分ひとりで、世界を変える自信など持てなかった。

――それに。

自分はもう、人間のままではいられない。

変わっていく自分が、地上の未来に触れる資格などあるのだろうか。

だからこそ、勇者は悟っていた。

自分は地上を“変える側”ではなく、“去る側”の存在なのだ、と。

だが、目の前の魔王は違った。

統治者として民を背負い、未来を創ろうと足掻いていた。

その姿は人間と同じだ。

――この人ならば、世界を変えてくれるのではないか。

勇者は息を呑み、言葉を絞り出す

「魔王……僕は、君たちを助けたい」

その声は震えていたが、真実だった。

嘘はないと、魔王と目を逸らさず向き合う

魔王は一瞬、瞳を細めた。

そして低く笑い、吐き捨てるように言った。

「何を馬鹿な」

その声は冷たく、嘲りに満ちていた。

勇者は震える声で応じた。

「神が創ったとしても、思考や思いまで縛ることはできない。

未来がない君たちを……助けたいんだ」

魔王の炎に揺れるその瞳の奥には、わずかな葛藤が潜んでいた。

勇者の言葉を即座に信じることはできない。

しかし、心の奥でその響きが残り続ける――そんな余韻を隠せない。

その証拠に剣の軌道がブレ、勇者をとらえきれず

勇者はさらに言葉を絞り出した。

「魔王……未来を欲するのは人間も魔族も同じだ。

ならば、なぜ人間を不要とする?共に生きる未来はないのか?」

炎が燃え上がり、勇者の胸の痛みと魔王の揺らぎが重なり合った。

戦場は静かな痛みと嘲笑に包まれていた。

魔王の瞳が細められ、剣が振り下ろされる。

「戯言を!!」

その声は冷たく、断罪の響きを帯びていた。

だが勇者は動かなかった。

刹那、剣の軌道がわずかに揺れ、肩をかすめて止まった。

炎の中で二人の影が重なり、未来を問う声と断罪の響きが交錯していた。

「……何を考えている、勇者。貴様、はじめから死ぬ気だったな。」

勇者は驚き、目を見開いた。

「……どうして、それを……」

魔王は嗤った。

「俺にはわかる。死を覚悟した者の目は、俺たち魔族と同じだ。だが、貴様は人間の未来を背負っている。その覚悟を、俺は見誤らぬ。」

魔王は魔族の未来を譲らないという覚悟を既に背負っている

魔王は再び剣を振り上げ、勇者はその刃を正面から受け止め、火花が散った。

剣戟の余韻が炎に溶け、二人の影が重なり合う。

勇者は静かに答えた。

「僕では、世界を変えられない……変える力を持たない。だが、魔王……貴方にはある。

だからこそ、争うのではなく、未来を創る道を選んでほしい。」

勇者の声は炎に揺れ、戦場の静寂を切り裂いた。

その瞳には死を覚悟した光と、なお未来を託そうとする願いが宿っていた。

魔王は剣に手を掛けたまま、わずかに眉をひそめる。

「……口先だけの言葉だな。未来を創るだと?

俺はすでに背負っている。魔族の未来を譲る気はない。

人間がいる世界で未来など作れぬ。

貴様の覚悟が人間を救うためのものなら、俺の覚悟は魔族を救うためのものだ。」

その声は冷たく響いたが、炎に照らされた魔王の瞳には意思が潜んでいた。

勇者は静かに息を吐き、握っていた剣の柄を強く握り直す。

「……この世界が欲しいなら、あなたが変えてゆけばいい。」

その声は挑発ではなく、託すような響きを持っていた。

「魔族なら長命だ……時間をかけて作りたい世界にすればいい。あなたならできるだろう……魔王。」

眩しい物を見るかのように、瞳を細める。

「ただ――少しの間だけでいい。世界を変える間だけは人間を残してみてくれ。その先で、やはり人間が要らないと思うなら、好きにすればいい。」

沈黙。

魔王は剣を握りしめたまま、勇者の瞳を見据えた。

その瞳は真っすぐで、力強く、未来を射抜いていた。

だが――その未来に勇者自身の姿はなかった。

「……愚かだな、勇者。」

魔王の声は低く、しかしさざめきを含んでいた。

「未来を語りながら、自らはその未来に立たぬと言うか。

それは我ら魔族にはない選択だ。

滅びを恐れる我らは、命を奪ってでも生き延びようとする。

だが、お前は自らを灰にしてまで、その先を望むのか」

勇者の瞳が揺れる。

魔王は瞑目したまま、しばし沈黙する。

死を覚悟した者の目――それは、滅びを恐れて未来を奪う魔族の覚悟と同じ光を宿していた。

その矛盾を抱えた不器用さに、魔王はかすかな共鳴を覚えた。

「よかろう。お前の言葉、少しの間だけは俺が背負ってやる。

だが忘れるな。俺は人間を不要と断じた魔王だ。

その先で、やはり人間が要らぬと知れば、容赦はしない。」

それで、良いのだろう?

とニヤリと嗤う魔王。

勇者は驚きながらも、胸の奥で微笑んだ。

魔王の言葉は冷たくもあり、同時に確かな煌めきを含んでいた。

炎が震え、二人の影が重なる。

その静寂の中で、魔王は剣を握りしめたまま勇者の瞳を見据える。

わずかに息を吐き、

心の移ろいを断ち切るように、魔王は一歩後ろへ退いた。

大きく息を吸い込み、剣を高く振り上げる

炎を宿す刃が、闇に覆われた空へと閃き、

勇者は動かず、瞳を閉じてその行為を受け入れた。

「……あなたが魔王で良かった。」

託せる者を見つけた安堵が、その声に滲んでいた。

剣が振り下ろされ、鋭い閃光が勇者の身を裂く。

勇者の命は花と散り、刹那炎が静かにうねり踊る。

燃え尽きた躯はやがて、魂の形までも壊し灰となった。

神が作った勇者は創造物であるが故、使命に背くことは、魂の存在さえ許されない。

血ではなく、灰が舞い上がる。

——そして勇者は風に溶け、静かに消えた。

魔王は剣を握ったまま、低く呟いた。

「さらばだ、勇者。」

その一言には冷徹さと、確かな敬意が宿っていた。

炎が消え、勇者の形は静かに崩れ落ちた。


舞い上がった灰は、風に散るだけではなかった。

細かな粒子となって魔王の周囲を漂い、

やがて彼の肌に触れ、熱を帯びたまま染み込んでいく。

灰は血流へと溶け込み、

まるで勇者の意志そのものが、

魔王の胸の奥へ静かに入り込んでいくかのようだった。

「……ぐっ。」

力が変質していくのを、魔王ははっきりと感じた。

だが同時に、胸に刻まれるその痛みは、

まるで問いかけのようでもあった。

——この灰は、勇者の問いなのか?

魔王は剣を握りしめ、膝を折りそうになる。

闇の血が焼かれ、光の力に身が掻き消されるように暴れ、

その苦痛はまるで勇者が灰となってなお、刃を振るい魔王を打ち続けているかのようだった。

胸の奥で二つの力が拮抗する。


闇の心臓が鼓動を刻むたび、

光の心臓がそれを打ち消そうとする。

魔王は己の存在が裂かれる錯覚に苛まれた。

その刹那、血が逆流し、口から吐き出される。

だが赤黒い滴は地に落ちる前に灰へと変わり、淡い光を帯びて風に舞い上がった。

それはただの灰ではなく、勇者の問いと同時に神の聖なる力を媒介する灰だった。

意識の淵で、魔王はその灰の中に勇者の瞳を見た。

灰の瞳は冷たく、声なき声で神の意志を告げていた。

だがそのまなざしの奥に、冷徹な神の意志が潜んでいるのを感じ取った。

魔王は息を呑み、低く呟いた。

「この力は……神か……おのれ」

剣を握る手から力が抜けていく。

耐えきれぬ痛みに膝を地面に着き、魔王はついに意識を手放した。

灰に侵食され、消えていくようにさえ感じる。

魔王は深い闇に沈み込んだはずだった。

——だが、目を開けると、そこは夜明けの浜辺。

波が静かに寄せ、空は淡い光に染まっていた。

その光の中に、勇者が立っていた。

勇者は、優しさを湛えた目で魔王を見つめ、何かを言う。

声は波に溶け、祈りのように響いたが、言葉は掴めなかった。

ただ、その瞳には憂いと、嘘のないまなざしが映っていた。

魔王は息を呑み、伸ばした手が空を掴む。

次の瞬間、視界が滲み浜辺は消えた。

灰の痛みが胸を裂き、瞬間的に鋭く突き刺さる激痛が、魔王を意識へと引き戻す。

視界は白く霞み、胸の奥で二つの鼓動がぶつかり合い、魔王の存在そのものが乱れる。

だがその激痛は、次第に淡い光に包まれて和らいでいく

それは勇者の祈りが形を取り、灰の中に宿っていた力だった。

「……生きている? ……勇者……お前が生かしたのか。」

魔王は荒い息を吐き、胸に残る痛みの中で低く呟き

その言葉は冷徹でありながら、確かな苦悩を含み

勇者は消えたはずなのに、魔王の胸には、その意志が刻まれていた。

――魂さえ残っていないはずの勇者が、何を言った?

勇者はすでに、存在そのものが消え去ったというのに、その祈りは確かに魔王を救った。

だが、その意味を魔王は理解できない。

魔王はただ、灰を生み出す鼓動と共に、その問いを抱き続けるしかなかった。

魔王は荒い息を吐き、胸を押さえながら、

ゆっくりと立ち上がる。

その足元に、淡い光が揺れているのを見て、瞳の奥に静かな波紋が広がり

その灰が落ちた地面だけが、淡い光に包まれ、小さな芽がひとつ顔を出す。

まだ弱々しく、風に揺れるだけの存在。だが確かに、そこだけ穢れが祓われている。

魔王は目を細め、低く呟き

「……勇者の力か?それとも、俺の血が変わったのか。」

芽は答えず、ただ静かに揺れていた。

魔族の血ならば腐敗をもたらすはず。

だが今は逆に、地を清めていて。

――この力は……

魔王は剣を握りしめ、胸に重い問いを刻んだ。

灰は勇者の意志なのか、それとも自らの血が変わった証なのか。

答えはなく、ただ聖なる力だけが静かに広がっていた。

その沈黙こそが、勇者の問いであり、魔王の胸に重く刻まれるものだった。


魂の形までも壊され、未来を託す問いだけが残され

それまで近づくことすらできず、

ただ剣戟の響きだけを聞いていた魔族の兵たちが、

音が途絶えたのを合図に、恐る恐る戦場へと足を踏み入れる。

勇者の姿がないのを確認した、魔族の兵たちは歓声を上げた。

「魔王様!勇者は倒れました!これで地上は我らのものです!」

「進軍を!人間どもを滅ぼしましょう!」

血に飢えた声が戦場に響き渡る。

だが魔王は剣を下ろし、静かに彼らを見渡し。

「……進軍は許さぬ。」

灰の重みが勝利の声を押し潰し、魔王の瞳は一瞬だけ曇った。

剣に宿る炎が、主の揺らぎへ応えるように震え、

兵たちの沈黙が、心に生まれた微かな波を映し出していく。


兵らはざわめいた。

「なぜです!勇者は死んだのですぞ!」

「今こそ地上を奪う好機!」

魔王の瞳が燃えるように光った。

「地上の者に伝えよ。聞けぬというなら――儂自ら手を下すとしよう。」

その声は低く、しかし雷鳴のように響いた。

兵たちは恐れ、声を失った。勝利の歌は消え、沈黙だけが広がる。

魔王は掌に残る灰を見つめた。

それは勇者の灰と魔王の血が混ざり合い、生まれた新たな灰だった。


勇者の死を知る者は魔王ただ一人。


魔王は天を仰ぎ、灰を掲げた。

その瞬間、王城の上空を覆う暗闇に、雷鳴が轟く。

魔王の魔術が天へと伸び、竜のような雷が空を裂いた。

裂け目から溢れた光は、まるで神の裁きのように大地を照らす。

暗闇は一気に晴れ渡り、世界を統べる者たちは、これで勝手に解釈するだろう。

【勇者が、魔王を打った……!】

【これぞ神の裁きだ!】

魔王は沈黙したまま、その誤解を受け入れた。

実際には、すべてが彼自身の魔術によるものだった。

だが人々の目には、「勇者が魔王を撃ち倒した」としか映らない。

こうして――

「勇者は魔王を打ち倒した」という偽りの神話が生まれた。

魔王は勇者の姿を纏い、世界を導く者となる。

すべては、あの問いの答えを得るために。


空を轟く、異変は離れた所にも届き、勇者の仲間たちも空を見上げた。

胸騒ぎを覚えた彼らは、真実を確かめるため魔宮へと急いだ。

戦場に、勇者の姿をした者が現れた。

だがその雰囲気は違っていた。仲間を見ても顔色ひとつ変えず、無表情のまま立ち尽くしていた。瞳には冷たい光が宿り、かつての勇者の温もりは欠片もなかった。

最初に声を上げたのは、まだ若い豹の舞踊家だった。

「違う……!勇者じゃない!」

人懐っこい笑顔を見せることの多い彼の顔は、恐怖と怒りに歪んでいた。勇者と吟遊詩人と三人で過ごした日々が脳裏をよぎり、直感が全身を突き動かす。舞うような蹴りを放つが、その者は反撃せず、ただ受け止めるのみだった。

「勇者の姿を汚すな!」

剣を振るったのは騎士で、仲間から“お父さん”と呼ばれることもあった。だが今は怒りに駆られ、涙に濡れた刃を震わせながら振り下ろす。

「なぜだ……!生きて帰ると約束したはずだろう……!」

声は低く、嗚咽に混じって震えていた。普段は頼れる兄のような存在だった彼が、今はただ勇者を失った男として剣を握りしめていた。

刃が迫る瞬間、勇者の姿をした“それ”は微動だにせず、ただ静かに手を伸ばした。

金属が触れ合う澄んだ音が響き、魔王はその剣を指先ひとつで受け止めた。

力を込めるでもなく、いなすでもなく、ただ拒まずに受け止めた。

巨体のワニガメ戦士が前に立ち、仲間を庇うように盾を構えた。

その姿は、いつ攻撃が来ても受け止められるよう備えている。

温厚な彼は言葉を発さず、ただ静かに構え続けた。

沈黙の中、九千年を超える魔術師のドラゴンが一歩前に出る。

「……妙だ。勇者を倒したのなら、我らなど赤子の手を捻るようなもの。なぜ攻撃を返さぬ?」

その声は冷静でありながら、仲間の胸に疑念を突き刺し、

長寿の知識と見識が、場の空気を変えた。

その時、勇者の姿をした者が初めて口を開く。

「……俺は戦いに来たのではない。勇者の最後の言葉を伝えるために来た」

仲間たちは凍りつく。

魔王の口から“勇者の最後”という言葉が出た瞬間、

胸の奥で何かが崩れ落ちた。


――どうして魔王が知っている?

――勇者はどこで、どうなった?


疑問が怒りに変わり、剣がかすかに動く

「……!生きて帰って来いと言ったのに!」

怒号が響き、剣が震える。

魔王の言葉は矛盾していた。

勇者の死を知るはずがない。知っていてはならない。

だが、確かに“知っている者の声”だった。

魔王は勇者の最後の言葉を静かに告げる。

「『この世界が欲しいなら、魔王が変えてゆけばいい』――とな。

なぜ勇者自身が選ばなかったのか……それは俺にはわからぬ。だが、お前たちの方が知る所だろう。共に過ごした者ならば。」

涙が頬を伝い、祈りの言葉が漏れる。

「勇者……どうして……」

声は震えながらも途切れることなく続いた。

彼女のまなざしは揺れ、言葉にならない嗚咽が漏れる。

彼女にとって、それは最後まで“弟”を呼び続ける行為でもあった。

天使の血を継ぐ吟遊詩人は静かに楽器を取り出す。

それはいつも場を和ませてきたリュートだった。だが今は、指が弦に触れるたびに、哀しみが音となって広がっていく。

最初の音は震えていた。仲間の涙を映すように。

だが次第に旋律は落ち着きを取り戻し、焚き火の夜に交わした言葉を思い出させるように流れていった。

「……俺は……お前が居る世界が見たかったよ……」

吟遊詩人は弾きながら呟いた。

音は灰の中に溶け、仲間たちの胸に勇者の姿を重ねた。

怒りに震えていた騎士の剣も、涙に濡れた神子の祈りも、豹の舞踊家の叫びも――すべてが旋律に包まれていく。

仲間たちは息を呑み、祈るように目を閉じた。

勇者の最後の言葉は、音楽とともに彼らの心に刻まれ、彼の言葉が記憶を呼び起こし、仲間たちの胸に勇者の姿を重ねた。

音は闇に溶け、仲間たちの胸に沈んでいった。

沈黙の奥で、ひとつの夜がそっと蓋を開ける。


そして――戦いの前夜の記憶が蘇った。


焚き火の炎が柔らかく波打ち、勇者は剣を磨いていた時

その横顔を見つめていた仲間――騎士が、静かに口を開いた。

「……死ぬ気なのか?」

勇者は驚いて顔を上げた。

「え……」

一瞬だけ言葉を失い、やがて綺麗な笑顔を浮かべる。

「それが、世界の未来のためだ」

その笑顔は澄んでいて、それぞれの胸を締めつけた。

仲間は立ち上がり、肩を震わせて叫び

「そんなの駄目だよ!

勇者が守った未来を、勇者自身が見れないなんて……そんなの間違ってる!」

勇者は黙したまま炎を見つめた。仲間の声だけが夜を静寂に響く。

「勇者が恐れる未来は、私たちが無いって証明するから。

だから……死ぬなんて言わないで。

あなたが守った未来を、一緒に見ようよ。」

勇者はその言葉に胸を打たれ、ほんの少しだけ笑顔を曇らせた。

焚火の炎が、風に煽られて形を変える。

その変化は、勇者の胸の奥に潜む、思いを映し出しているかのようだった。

仲間の声が夜を震わせ、涙が落ちるたびに炎は強く燃え、また静かに沈んだ。

勇者は黙したまま炎を見つめ、その赤い光は、決意の影と、

かすかに震えながらも折れぬ心を映していた。

炎はただ燃えているのではない。

仲間の祈り、勇者の覚悟、未来への問い――すべてを鏡のように映し出す

やがて勇者は微笑んだ。

炎の揺れがその笑みを照らし、仲間の声と重なり合う。

焚き火は夜を照らすだけでなく、仲間たちの胸の奥に潜む想いをそっと浮かび上がらせていた。


――未来を守るために死ぬ。


それは、願いで思いで譲れない

だが、仲間の涙と声は、勇者の心に温かい影を残した。

仲間の問いに勇者は少し戸惑い、やがて静かに口を開き

「……僕は、神に造られた存在だ。

人間ではない。

だから、ずっと思っていたんだ。

人間の中にいても、どこか違う。

本当の意味で受け入れられることはないだろうって。」

勇者は仲間たちの顔を見渡した。

その瞳には驚きも、恐れもなかった。

ただ、真剣に彼の言葉を受け止めようとする光があった。

「でも……君たちは違った。

僕の強さを知っていても、恐れなかった。

僕が人間ではないと分かっても、拒もうとはしなかった。

ただ、僕を仲間として見てくれた。

それが……幸せなんだ。」

勇者は微笑んだ。

その笑顔は戦場で見せるものとは違い、柔らかく、温かかった。

「僕は未来を守るために戦う。

でも、本当の幸せは……君たちと出会えたことだ。

それだけで、僕は救われている。」

仲間たちは黙って勇者を見つめ、焚き火の炎がその言葉を包み込んだ。

勇者は神の創造物であり、人間ではない。

それでも、仲間と出会えたことが彼にとっての「人間らしい幸せ」だった。

勇者は仲間の涙を見つめ、静かに微笑んだ。

「……ありがとう。君たちの気持ちは受け取った。

だから尚更、魔王へは僕一人でいくよ。」

「なぜ!!」

仲間が叫ぶ。

勇者は目を伏せ、やがて言った。

「魔王は驚異で、異質だ。

人間の力では抗えない。

君たちが共に来れば、足手まといになる。」

その言葉は冷たくはなかった。

むしろ、優しさが滲んでいた。

――完全な真実ではない。

――完全な嘘でもない。

仲間を否定するためではなく、守るために。

勇者は孤独を選び、仲間に向かって言った。

「魔王とは僕一人で対峙する。君たちを巻き込むわけにはいかない。」

仲間たちは言葉を失った。

勇者の思いが痛いほど伝わっていたからだ。

だが、その沈黙の奥には揺るぎない決意が宿っていた。

「ならば、魔王のもとへ行く道は私たちが切り開く。

静かに見送るなんてできない。魔族が待ち構えているのだから。」

その言葉に勇者は少しだけ微笑んだ。

「……ありがとう。背を守ってくれるなら、心強い。」


夜明け。

勇者と仲間たちは魔王の居城へと歩みを進めた。

森の影から魔族が現れ、牙を剥いた。

仲間たちは剣を抜き、勇者の背を守るように戦った。

勇者は振り返らなかった。

仲間の声と剣戟の音を背に受けながら、ただ前を見据えた。

――魔王との一対一の戦いへ。


「……あなたは、これから何をするつもりなのですか」

神子の声は震えていたが、魔王を澄んだ瞳で向き合った

魔王はしばらく沈黙し、ゆっくりと答える

「俺にも……まだ分からぬ」

その言葉は、強さよりも躊躇いを帯びていて

「ただ……勇者はこう言ったのだ。

『未来を創る道を選んでほしい』とな」

魔王は、その言葉を噛みしめるように続けた。

「だから俺は……その問いに応えねばならぬのだ」

仲間たちは息を呑んだ。

「……その“問い”とは、具体的に何を指している?」

魔王は目を伏せ、低く答えた。

「……魔族と人間が、その二つが共に歩む道は、本当に閉ざされているのか。 勇者は……俺にそう問いかけた」

その言葉に、仲間たちは言葉を一瞬失う

月の明りが、胸の奥に残る勇者の面影を照らし出す。

「勇者は……人離れした力を持っていて、恐れられることも多かった。

それでも、誰かが困っていれば手を伸ばした。

たとえ“化け物”と呼ばれても、決して背を向けなかった」

だから、なんだね。と小さく呟いた言葉は、風が消し去っていく

魔王は仲間の言葉を聞き、わずかに目を伏せた。

月の光は、その横顔に別の色を与え、影がかすかに動いた。

「……あの男は、そうだったな」

低く漏れた声には、嘲りも否定もなかった。

ただ、痛みと戸惑いが混じっていた。

「恐れられても、拒まれても……それでも手を伸ばす。

俺には理解できないが。だが――」

魔王は胸に手を当て、ゆっくりと言葉を探した。

「……あいつの問いは、今もここに残っている」

その声は、魔王自身が答えを持っていないことを示していた。

魔術師が静かに息を吐き、言葉を継いだ。

「……この世界を変えていく、というわけか」

魔族と人間の共生

「ああ」

魔王の短い返答に、焚き火の炎がたゆたう

吟遊詩人はリュートの弦をそっと押さえ、それから小さく笑って、星空を見上げる。

「……馬鹿だな、あいつ。本当にお人好しの馬鹿だよ」

そして、仲間としての覚悟を込めて言い放つ。

「魔王。1つ言っておく。――”俺たちは、見ているからな”」

責めるでも脅すでもなく、想いを託すような、深い願う声

同時に、どこかで見ている勇者への祈りでもあった。

魔王はその言葉を受け、わずかに瞼を伏せた。

夜風が吹き、影がその横顔を静かに撫でる。

「……分かっている」

その声は低く強さよりも、心の影と痛みを含んでいた。

勇者の問いだけが、胸の奥で静かに燃え続ける。

魔王はゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、答えを持たない者の不安と、

それでも歩き出そうとする、微かな決意が宿っていた。

魔王が背を向け、闇へと消えていく。

その足音が完全に途絶えたとき、場に静寂が落ちた。

弔いの炎を焚き、仲間たちの影を長く伸ばしていく

魔王が去った後の静けさの中で、彼らは勇者の不在を噛みしめ

「……俺たちが“勇者”と呼ぶのは、あいつだけだ。

一緒に未来を見て、作りたかったのも……あいつなんだよ」

誰ともなく呟いた声は、夜に溶けていく。

吟遊詩人の祈りのような言葉を受けて、戦士がゆっくりと頷いた。

「ああ。そうだとも」

しばらく沈黙が続いた後、魔術師が静かに口を開いた。

「……さてと、これから……どうするべきだろうな……」

魔術師は前に進もうとする、仲間たちの意志を確かめるように呟く

意を決して、最初に口を開いたのは騎士だった。

「俺は世界中を回ろうと思う。勇者が行きたかった場所、故郷にも足を運び、書物を沢山残す。人々が本当の勇者を知るように、言葉で刻もうと思う」

若い豹の舞踊家は焚き火の周りに軽やかに立ち上がり、笑みを浮かべると、目じりの涙が光った

「私は踊るよ。勇者がいかに強くて優しかったかを舞に込めて。たくさん踊って、みんなに見てもらうんだ。勇者の優しさを、動きで伝えるんだ……勇者が褒めてくれたから」

泣くまいと、唇をかみしめる。

岩のようなゴツイ手が、そんな彼女の優しく頭を撫でながら

「某は彫刻でも習おうとするかな……。何時ぞや旅先で、腕が良いと言われたのだ。石に刻み、勇者の姿を残すとしよう。永遠に消えぬように」

魔術師のドラゴンは腕を組みつつ、静かに呟いた。

「儂は絵を描きながら世界を回ろうとするかな。勇者の姿を色に託し、未来へ渡すために。絵は時を越えて残る」

絵なんて描けたんだ……と、舞踊家がぼそりと零す。

と吟遊詩人は涙を拭い、声を震わせながら言った。

「俺は勇者の歌をたくさん作って。本物の勇者を広め、色々な人に覚えてもらう。本物の勇者を」

仲間たちの誓いが一巡した後、沈黙が訪れた。

その沈黙を破ったのは、神子だった。

「……私はもう神を信じません。

神は私たちを試すだけで、救おうとはしなかった。

勇者に全てを押し付け、弔うことすら許さなかった。

最後まで、勇者で有り続けたのに……意に背いたからってあんまりです。……私、神子を辞めます。

勇者が好きだった世界を残し、育んでいこうと思います」

言葉を吐き出した瞬間、神子の頬を一筋の涙が伝った。

怒りとも悲しみともつかないその涙は、彼女自身が気づくより早く零れ落ちていった。

焚き火の炎は祈るようにそれぞれを照らし、仲間たちはその言葉を胸に刻む

彼らは、それぞれの方法で勇者を残すと誓い、偽りの勇者についても「勇者が託したのなら命尽きるまで見守ろう」と決めた。

そして彼らは勇者と出会った、最初の地へ戻ることを選んだ。

始まりの場所が終わりの場所となり、そこから勇者の物語は世界へと広がっていく。

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