第6話
魔王の異変を感じ取ってから、さらに数十年。
聖女は魔王の中に残る“灰の気配”を最初に察した者だった。
老いた彼女は最後の夜に空を見上げ、
風に溶ける灰の温度を感じて呟いた。
「……あなたの願いは、まだ生きています」
その祈りは“誓い札”となり、“沈黙の月”となり、
人々の暮らしに息づき続けた。
そして今、勇者を直接知る者はもういない。
それでも村の祭りでは、子供たちが空を見上げて言う。
「助けてくれてありがとう。」
誰に向けた言葉でもなく、未来を生きる者の祈りだった。
勇者の名を知らずとも、人々は感謝を継いだ。
灰は風に散り、世界に溶け、
その想いだけが人々の心に残り続けた。
魔王は遠くからその光景を見ていた。
胸の奥には、勇者が守りたかった未来の温度だけが静かに灯っていた。
そして魔王は勇者の姿を纏い、地上に生き続けた。
名乗ることはなく、ただ「託された者」として世界を導いた。
人間と魔族は肩を並べ、灰を祀る祭りを共に行っていた。
子供たちは笑い、老人は歌い、祈りは空へと昇る。
魔王はその光景を見て呟いた。
「……これがお前の望んだ世界か、勇者。 俺が欲したのは、死を待つだけの魔族を救う未来。 だが今ここにあるのは、人も魔族も変わらぬ未来だ。」
この未来は、奇跡ではなく、
幾百年の痛みで出来ていることを。
そして胸の奥で理解した。
勇者の死から長い季節が巡り、ようやく世界は変わった。
それは魔王の望みであり、勇者の願いでもあった。
数百年の間、その嘘は続いた。
だがその嘘は世界を穏やかにし、秩序を保ち続ける。
村の広場には焚き火が焚かれ、夜空に火の粉が舞っていく。
人間と魔族が輪になり、肩を並べて座り、
子供たちは笑いながら歌を口ずさみ、
老人たちは静かに祈りを唱えていく。
「灰よ、風に乗り、森を守れ。 灰よ、水に溶け、命を癒せ。」
その声は人間のものでも魔族のものでもなく、混ざり合い、
ひとつの歌となった。
祈りは区別なく響き、ただ未来を願う者の声として夜空へと昇っていった。
魔族の子供が人間の子供と手を取り合い、輪の中で踊った。
小さな足が土を蹴り、笑い声が夜空に跳ねた。
「こっち、もっと早く回るんだよ!」
人間の子が言うと、
魔族の子は耳を揺らしながら必死に合わせた。
「ま、待て……足がもつれる……!」
「だいじょうぶ、手を離さなきゃ転ばないよ!」
二人の影は焚き火の光に揺れ、高い笑い声が響き合い、
まるでひとつの影のように寄り添って踊った。
輪の外では、人間の老人が魔族の若者に祈りの言葉を教えていた。
「息を吸って……ほら、声を落とすんだ。
祈りは叫ぶものじゃない」
「……こうか?」
「そうだ。お前の声は深いから、祈りに向いている」
魔族の若者は照れくさそうに喉を鳴らし、
老人はその様子に目を細めた。
一方で、魔族の長老が人間の子供に古い歌を伝えていた。
「この歌は、森がまだ深かった頃のものだ」
「むずかしい……舌が回らないよ」
「急がずともよい。歌は覚えるものではなく、染みるものだ」
長老はゆっくりと節をつけて歌い、
子供はその声を真似しながら、少しずつ音を拾っていった。
焚き火の光が輪を照らし、
人間と魔族の声が重なり、混ざり、ひとつの歌になっていった。
歌と祈りは交わり、境界は消えていった。
人間と魔族が同じ歌を歌い、同じ祈りを捧げる姿
勇者が最後に見ようとした未来。
未来を、勇者は命を賭して魔王へ託した。
それは、力を求めることでも、戦い続けることでもなかった。
「忘れないこと」
――助けられた恩を消さず、蔑ろにせず、語り継ぐこと。
灰の祭りはその答えとなった。
人間も魔族も、同じ歌を歌い、同じ祈りを捧げる。
それは勇者が望んだ未来であり、魔王が背負った答えでもあった。
焚き火の炎が揺れ、歌声が夜空に溶けていく。
その光景は、勇者の灰がもたらした祝福の証であり、 人間と魔族が共に生きる世界だった。
別の村でも、灰の祭りの夜には同じように輪ができた。
ただ、この村では踊りよりも笛が盛んで、
人間の若者が魔族の子に笛の指使いを教えていた。
「そこ、指を浮かせすぎだよ」
「む、難しい……風が逃げる」
魔族の長老は笑いながら、
人間の子に森の古い節回しを教えていた。
焚き火の音と笛の音が混ざり、
この村だけの祈りの形が生まれていた。
その輪の外で、魔王は勇者の姿のまま人々を導いていた。
「森を守れ、海を清めよ、争いを捨てよ。」
その言葉は歌となり、祈りとなり、村の秩序を形づくっていた。
やがて、焚き火の輪の中からひとりの少年が近づいてきた。
火に照らされた瞳が、まっすぐ魔王を見上げる。
「勇者の継ぎ手様、どうしていつも見守ってくれるの?」
魔王は答えに詰まる。
問いの答えを求められていると、錯覚した。
その真実は、少年の無垢な瞳の前で重くのしかかった。
だが少年は続けた。
「継ぎ手様がいると、みんな安心するんだ。だから、ありがとう。」
その言葉は刃より鋭く、魔王の胸を刺した。
――安心。
人間は脆い。
だが、互いに寄り添うことで強さを作る。
それは魔族にはない力だった。
焚き火の光が揺れ、魔王の影も揺れた。
胸の奥で、勇者の問いが静かに息を吹き返した。
「人間は要らぬ」と言った自分の言葉が、少しずつ揺らぎ始める。
勇者が見たかった答えは、ここにあるのかもしれない。
終わりの見えない日々は続く。
仮面は重く、しかし人々の祈りに支えられて軽くもあった。
魔王はまだ答えを出せない。
だが、問い続けることこそが勇者の遺した未来だった。
勇者が命をかけて望んだ未来は、
ただ“記憶を繋ぐこと”だった。
誰かの善意を見失わず、受けた優しさを次へ渡すこと。
権力者たちは時にその重みを敬遠した。
守るものが多いほど、勇者の影は脅威に見えた。
だが、何人かは忘れなかった。
本物の勇者がしてくれたことを、書に記し、絵に描き、石碑に刻んだ。
やがてそれらは神話となり、勇者を知らぬ世代までもが、
「ありがとう」と祈るようになった。
魔王はその光景を、静かに見届ける。
胸の奥では知っている。
勇者が守りたかった未来は、確かにここにあるのだと。
魔王は静かに空を見上げた。
「世界は変わったか? 勇者……」
答える声はない。
それでも魔王の中には、勇者の瞳と笑みが刻まれていた。
そして気付いた。
本来なら勇者がすべきことを、自分がしている。
人間も魔族も、未来を欲する心は変わらない。
「魔族も人も変わらない……それがお前の答えか。」
勇者は世界を変えたかった。
だが、自らの命を賭けても叶えられないと知っていた。
だからこそ、長寿で知恵を持ち、敏い魔王に託したのだ。
魔王はその重みを背負い、歩みを始めた。
勇者の灰を胸に抱きながら――世界を変える者として。
その夜、魔王は魔界に残った魔族たちを呼び集めた。
「魔界に留まれば滅びを待つのみだ。
だが地上には循環がある。灰が降り、命が巡っている。
人間を排除するのではなく、共に生きる道を選ぶべきだ」
魔族たちはざわめいていた。
其処に居たのは地上に行かず、長く人間を恐れ、憎み、避けてきた者たち。
魔王は静かに続ける。
「信じられぬかもしれぬ。だが、地上ではすでに人間と魔族が肩を並べている。
祈りも歌も、もう種族を選ばぬ。
疑うなら――行って、その目で確かめるといい」
沈黙の中で、魔族たちは互いに顔を見合わせた。
恐れと戸惑い、そしてわずかな希望が混ざり合う。
「滅びを待つか、未来を見るか。選ぶのはお前たちだ」
魔王の声は、深い闇に静かに響いた。
魔界に居た彼らは、こっそりと地上に住み始めた。
人間の影に紛れ、森に隠れ、村に溶け込む。
勇者の灰がもたらす祝福の下で、魔族は少しずつ未来を得ていく。
人々は知らなかった。
だが、感謝の祈りを捧げるたびに、勇者の灰は魔族にも届いていた。
それは勇者が望んだ未来――「共に生きる世界」だった。
灰は風に散り、人間の村にも、魔族の隠れ里にも降り注いだ。
荒れた大地に芽吹きが訪れ、濁った泉が澄んだ。
人間も魔族も、その恩恵を受けた。
魔王はそれを見届けながら、静かに思った。
「……この世界は、俺が望んだものではない。 死を待つだけの魔族を救うために地上を欲した。 だが今、救われたのは人間も魔族も同じだ」
魔王は空に問いかけた。
「勇者……お前が示した未来は、種族ではなく“心”で世界が動くということだったのだな」
人々は勇者を知らずとも、感謝を語り継ぎ、魔界の魔族はゆっくりと地上に根を下ろした。
その世界は、勇者が命を賭けて託した未来だった。
勇者は灰となり、魂の形を壊されて消えた。
その事実を知るのは魔王ただ一人。
そして人々は「勇者は天へ帰った」と信じた。
灰は地を浄化し、病を癒し、争いを鎮めた。
魔族とのいざこざも、時が流れる中で収められていき、
魔王は勇者のふりをし続けた。
だが決して「勇者」とは名乗らず、ただ「託された者」として世界を変えた。
やがて時は人々の記憶を薄れさせ、勇者は天寿を全うして天へ帰ったと語られるようになった。
真実を知る者はもういない。
ただ石板に刻まれた名だけが、祈りの中で模様となり、永遠に響いた。
魔族は本来、二千年を生きる種族だ。
だが魔王は、勇者の灰を取り込んだその日から寿命を削られ、
八百年を迎える頃には、もはや残された時はわずかだった。
胸の奥には、ようやく形になった答えがあった。
人も魔族も変わらない。
それが勇者の望んだ未来であり、
自分が長い時をかけて辿り着いた答えでもあった。
魔王は歩みを進め、勇者が灰となった場所へ向かう。
答えを告げるためではない。
ただ、その答えを胸に抱いたまま、
始まりの場所で終わるために。
そこは今は、人々が祈りを捧げる聖地だった。
魔王は空を見上げ、微笑んだ。
「……勇者。お前の望んだ未来はここにある。 俺はただ、それを見届けただけだ。」
風が吹き、灰がひとひら舞った。
それはまるで、勇者が迎えに来たかのようだった。
夢を見ているようだった。
死んだはずなのに、夢なのだ。
そこは夜明けの浜辺。
何時ぞやの、あの場所だった。
波が静かに寄せ、空は淡い光に満ちていき、地平線には、朝日が生まれようとしていた。
光の中に、勇者が立っていた。
「……世界を変えてくれて、ありがとう魔王」
そう呟くと、嬉しそうに笑いながら、ゆっくりと消えていった。
魔王は静かに目を伏せた。
――……ああ、そうか。
お前は、勇者の思いで、願いで、祈りが形になったものだったのだな。
存在を許されなかった、勇者が残せる唯一のものが、
八百年ここで待っていたというのか。
魔王はふっと息を漏らし、かすかに笑った。
「……お前の為ではない。お人好しめ」
その声は、波に溶けて消えていった。
魔王の影が長く伸び、朝の光に揺れていた。
波に触れた瞬間、輪郭がふっと滲んだ。
波が返すたびに影は薄れ、形を保てなくなっていく。
まるで水に溶ける墨のように、静かに広がり、魔王の姿は静かに風へと溶けていった。
勇者と同じ循環へ戻るように。
魔王の死を知った魔族たちは、静かにその働きを語り始めた。
ある者は、
「我らの王は、滅びゆく魔界を見捨てなかった」
魔界の大地が枯れ、泉が干上がり、闇すら薄れていったあの時、逃げる者も、諦める者もいた。
だが王だけは最後まで歩き続け、滅びの中に希望を探した。
誰よりも先に絶望を知りながら、
誰よりも先に未来を求めた。物語を紡いだ。
またある者は、
「灰の祝福を最初に理解したのは王だった」
勇者の灰が降り注いだ日、我らはただ怯えた。
だが王はその灰を手に取り、静かに言った。
『これは呪いではない。命を巡らせるものだ』
その言葉の通り、枯れた土に芽が生え、濁った水が澄んだ。
王は灰の意味を見抜き、我らに生きる道を示したのだと。
別の魔族もこう語る。
「人間と争うなと教えたのも、王だ」
憎しみは深く、恐れは根強かった。
だが王は言った。
『争えば滅ぶのは我らだ。生きたいなら、まず知れ』
王は自ら地上へ赴き、人間の暮らしを見、祈りを聞き、
その上で我らに道を示した。
『敵ではない。共に在る者だ』
その言葉が、我らの未来を変えた。
実際に見届けた訳ではないがと、魔族は前置きをし
「八百年、影から世界を支え続けた」
王は名を求めず、誉れも求めなかった。
人間の祈りが乱れればそっと整え、争いが芽生えれば影から鎮め、魔族が迷えば静かに背を押した。
誰も知らぬところで、王は八百年もの間、世界を陰で支えた。
その手は常に影にありながら、
世界のどこよりも温かかった。
我々は、そのことを忘れはしないだろう、とも
魔王がいかに尽くし、支え、魔族にとって偉大なる王だったかを、
彼らは沢山語った。
だが誰ひとりとして、
“勇者の姿をしていたのが魔王だ”と、語る者はいなかった。
それは王が望まなかったからだ。
王は勇者の名を守り、自らの名を捨てた。
やがて魔族の語りは人間の祈りと混ざり合い、
二つの名はひとつの神話となっていった。
人々はやがてその地を「勇者と魔王が眠る場所」と呼び、 祭りでは両者の名を共に讃えるようになった。
嘘と真実は溶け合い、神話となった。
勇者と魔王――二つの存在が世界を救ったと。
石畳みの中央には炎が燃え、 その傍らの石板には二つの名が並んでいた。
「エリオン」――人間の文字。
「レギウス」――魔族の文字。
異なる文字は寄り添うように刻まれ、
長い時を経て、ひとつの模様のように見えた。
この場所は、かつて灰が初めて降り注ぎ、
枯れた大地が浄化され、最初の芽が生まれた場所だった。
千年の時が流れ、石畳みは苔と草に覆われ、
その中央には天を突くような大樹が根を張っている。
枝葉は風に揺れ、まるで世界を見守るかのように影を落としていた。
大樹の根元には黒と白の小さな花が、ひっそりと咲いている。
黒は魔族の色、白は人間の色。
かつてこの地に最初の芽が生まれたとき、
大樹の影から黒い花がひとつ咲いた。
それは魔族の命が再び巡り始めた証だった。
翌年、同じ場所に白い花が咲いた。
それは人間の祈りが大地に届いた証だった。
二つの花は互いに寄り添うように咲き、
どちらが先に枯れることもなく、
同じ風を受け、同じ光を浴びて揺れていた。
人々はこう語る。
『黒と白の花が咲く限り、
人間と魔族は共に歩むだろう』
そして魔族は静かに付け加える。
『あれは王と勇者の色だ』
二つの花は寄り添い、同じ風を受け、同じ光を浴びて揺れていた。
祭りの日、石畳みの中央にある炎がゆっくりと灯される。
その火は大樹の葉に反射し、緑の影を揺らす。
人間たちは白い布を手に祈りを捧げる。
魔族たちは黒い紐を結び、誓いを立てる。
白は願い。
黒は決意。
子どもたちは大樹の周りを走り回り、
老人たちは勇者の歌を口ずさむ
風よ運べ 灰のひかり
土よ抱け めぐるいのち
黒と白 よりそい咲き
ひとつの空に 声は重なる
エリオンの名よ
レギウスの名よ
世界を照らせ
めぐるひかりよ
魔族の長老は魔王の言葉を静かに語る。
『争うな。
知れ。
寄り添え。
それが生きる道だ』
祭りの終わりには、
人々と魔族が手を取り合い、
黒と白の花の前に立つ。
そして全員で、同じ言葉を唱える。
『二つの名はひとつの世界を変えた』
その声は大樹に吸い込まれ、
枝葉を揺らしながら空へと昇っていく。
勇者は早くに天へ昇ったが、その名は永遠に残り、
魔王もまた、世界の循環の中で静かに眠っていた。
大樹の下で揺れる黒と白の花は、
まるで世界の行く末を見つめているかのようだった。
黒と白の花は揺れ続ける。
まるで、これから先の千年を見守るように。
世界を変える者 古田 まお @hanahana77
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