空葬譚ー約束の花は、二度と咲くー

朝霧文女

第1話ー守り手の記憶

僕には、名前が無い。


正確に言えば、かつてはあったのかもしれない。


誰かが僕を呼ぶ時に使った、固有の音の連なり。


けれど今、それは霧の中に消えてしまった。


長い旅路の果てに、ただ、忘れただけなのかもしれない。


それとも、最初から無かったのかもしれない。


僕に与えられた使命。


それは、この世界を駆ける「龍」の守り手であること。


そして、この土地セレヴァナに根付く「空葬の儀」を取り締まること。


守り手と、人々は僕をそう呼ぶ。


「守り手さま」と。


それが僕の名前の代わりだった。


役割が、そのまま存在の証明になっていた。


朝、目を覚ますと、僕はまず自分の手を見る。


節くれだった指。


薄く刻まれた傷跡。


これが本当に自分の手なのか、時々、分からなくなる。


鏡を見ても、そこに映る顔が誰なのか確信が持てない日もある。


ただ一つ、確かなことがある。


僕は、守り手だということ。


それだけが、僕を繋ぎ止めている。


(ヤァ、テッラ)


この言葉を、僕は何度口にしただろう。


「大地に感謝」などを意味する古代語だ。


セレヴァナでは、誰もが知っている言葉。


子どもでさえ、自然と口にする。


その用法は多岐にわたる。


一時的な別れの際に述べる言葉。


「また明日」や「気をつけて」といった意味を込めて。


幸運を引き寄せるために唱える言霊。


朝起きた時、大切な仕事の前、誰かの無事を祈る時。


感謝を示す言葉。


食事の前、贈り物を受け取った時、自然の恵みに対して。


そして——


この古代語が最も多くの人に口にされるのは「空葬の儀」の場面だ。


「ヤァ、テッラ!」


儀式の最後、その場に会するものはみな、一斉にそう唱える。


声が重なり、空に響き、風に乗って遠くまで届いていく。


その声によって「空葬の儀」は幕を閉じる。


始まりではなく、終わりの言葉。


または別れの言葉。


けれど同時に、再会を約束する言葉でもある。


なぜなら、花となって生まれ変わるのだから。


空葬の儀。


セレヴァナでは、生命がその息を引き取ると皆一様に「空葬」される。


身分の高い者も、貧しい者も。


老人も、子どもも。


善人も、悪人も。


死の前には、すべてが平等だった。


空葬の概要はこうだ。


まず、死者が「誕生」する。


人々はそう表現する。


死を終わりではなく、新たな始まりとして捉えているのだ。


その日の晩、静かに空から白き龍が舞い降りる。


いつも、決まって日没後。


星がまだ完全には瞬いていない、薄暮の時刻。


空気が青紫色に染まり、世界の輪郭が曖昧になる、その瞬間。


白龍は音もなく降りてくる。


巨大な翼を広げて、けれど風すら起こさずに。


まるで幻影のように、けれど確かな存在感を持って。


白龍は決して、鳴くことも咆哮することもない。


その静寂こそが、神聖さの証だった。


その白龍の現れた時が、守り手である僕の出番だ。


村の誰かが、僕の小屋を訪れる。


ノックの音で、僕は全てを理解する。


言葉はいらない。


僕は弓を手に取り、外套を羽織り、扉を開ける。


「守り手さま」


訪問者は頭を下げる。


僕は静かに頷き返す。


そして、ホウルプッレへと向かう。


ホウルプッレ——「魂の丘」を意味する古い言葉——は、村の東にある小高い丘だ。


頂上は平らで、崖の縁まで歩いて行ける。


そこから見下ろすと、遥か下に森が広がり、その向こうには地平線まで続く草原が見える。


空葬に最も適した場所として、大昔から使われてきた聖地だった。


その夜、僕は丘へ向かい、焚き火を起こす。


薪を組む。


火打ち石を打つ。


小さな火種が生まれ、やがて炎となって燃え上がる。


赤い光が闇を押しのける。


そして、僕は連れてきた亡骸を焚き火の傍に横たえる。


炎の光が、故人の顔を照らす。


白龍は、サラマンダーと僕が名付けた。


今まさに、崖の縁に佇んでいる。


巨大な体躯。


鱗は月光を受けて銀色に輝き、瞳は深い紫色をしている。


翼を畳み、長い尾を巻きつけて、まるで石像のように動かない。


けれど、その瞳だけが生きている。


サラマンダーは、一晩かけて遺体を見守る。


なぜそうするのか、僕にも分からない。


ただ、それが龍の役目なのだ。


死者を見送る前に、最後の夜を共に過ごす。


そして、この光景を誰にも邪魔されないように見守るのが、守り手としての僕の役割だった。


不審者がいないか。


野生動物が近づかないか。


焚き火が消えないか。


いったい、何度の夜を通したことか。


数え切れない。


百回? 二百回? それとももっと?


同じ儀式を繰り返しながらも、それぞれに違った重みを感じている。


ある夜は、若い母親の亡骸を見守った。


まだ三十にもならない女性で、幼い子どもを残して逝った。


焚き火の光に照らされた彼女の顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。


ある夜は、老人の亡骸を見守った。


百歳を超えていたという。


長い人生を全うし、満足そうな表情で横たわっていた。


ある夜は、子どもの亡骸を見守った。


まだ十歳にもならない少年。


病に倒れたという。


その小さな体を見ながら、僕は初めて——いや、何度目かもしれないが——涙を流した。


それぞれの夜に、それぞれの物語があった。


それなのに、最初にこの命を授かった時のことすらも、僕は忘れていた。


いつから守り手だったのか。


誰が僕にこの役目を与えたのか。


その前は、何をしていたのか。


すべてが、霧の中だった。


焚き火は翌日の朝まで一晩中、焚かれてなくてはいけない。


その炎が消えることがないように適切に管理することも、また、守り手の役目だ。


僕は一晩中、起きている。


時折、薪を足す。


火の勢いを調整する。


風向きを確認する。


そして——亡骸を見つめる。


人は死ぬと、何になるのだろう。


魂はどこへ行くのだろう。


記憶は消えてしまうのだろうか。


それとも、どこかに残り続けるのだろうか。


僕は、自分の記憶が曖昧なことを思い出す。


もしかしたら、僕も一度死んだのかもしれない。


そして、何らかの理由で——もう一度、ここにいるのかもしれない。


「ヤァ、テッラ」


僕は小さく呟く。


炎が揺らめいた。


まるで、応えるように。




次回〜空想の朝〜




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