千蹴の回廊
不思議乃九
千蹴の回廊
I. 夢の始まり――放課後の儀式
彼の名は、まだ誰も知らない。
背の高いフェンスに囲まれた、薄暗いコンクリートの広場。
放課後、彼はいつもここに来る。遠くを走る車の音と、団地の窓から漂ってくる夕食の匂いだけが、この場所を現実につなぎ止めている。
履き慣れたトレーニングシューズは、サイドが少し裂けている。
ボールは、何度も地面に叩きつけられ、毛羽立ったゴムの球だ。
彼は深く息を吸い、右足のインサイドでボールを蹴り上げた。
ポン。
それは合図だった。
彼の時間が、そこで切り替わる。
リフティングが始まる。
右、左、右、左。インサイド、アウトサイド、インステップ。
規則的で、静かで、終わりのない反復。
ボールは彼の身体から半径三十センチの軌道を描く。
呼吸、鼓動、思考。そのすべてが一つのリズムに収束していく。
周囲の壁は消え、視界は夕焼けから、まだ見ぬ未来の色へと変わる。
少年の身体は成長し、着ているユニフォームは、いつか袖を通すはずのクラブの色を帯び始める。
ワンタッチごとに、夢は現実の輪郭を獲得していった。
II. ジュニア――泥と光の哲学
ポン、ポン、ポン。
彼の意識は、選ばれた者だけが立てる土のグラウンドへと移る。
足元のボールは、もう不規則に弾まない。意思を持つかのように、正確な軌道を描く真球だ。
「岳、すげえな。プロになれるんじゃないか?」
かつてチームメイトが放った言葉が、何度も脳内で再生される。
回数は自信だった。
百、二百。
蹴るたびに、未来が積み上がっていく。
「お前はボールと話しすぎだ。周りを見ろ」
コーチの声が割り込む。
だが彼は知っていた。
ボールとの対話こそが、すべての始まりだということを。
彼はインステップでボールを巻き上げ、完璧な角度で受け止める。
この世界で、彼は「支配する」という感覚を手に入れた。
III. ジュニアユース――強度の壁
リズムが速くなる。
人工芝のグラウンド。
周囲には、速く、強く、似た技術を持つ選手たちが並ぶ。
ここでは、彼のリフティングはまだ「見世物」にすぎない。
「そのタッチは武器だ。でも、逃げにもなる」
監督の冷たい声。
彼は学ぶ。
空中に上げすぎないこと。
触れる一瞬で、すべてを判断すること。
技術は、防御へと変わる。
奪われないための、静かな闘争。
彼は生き残る。
そして、海の向こうにある舞台を、はっきりと意識し始める。
IV. ユース――組織という現実
リズムは、洗練されていく。
国内屈指のクラブ。
プロへの入り口。
身体の大きな同年代に囲まれ、彼は歯車になることを求められる。
「美しすぎる。もっと速く、もっと簡単に」
彼は葛藤する。
自分の色を殺さず、組織の流れに適応する方法。
リフティングは、判断と速度の訓練へと変貌する。
彼は誓う。
――このボールで、世界へ行く、と。
V. 欧州――異邦での証明
石畳。
異国の空気。
彼は小さく、異質だった。
だからこそ、絶対に奪われない技術が必要だった。
リフティングは、低く、速く、鋼のようになる。
それは防御であり、証明だった。
やがて、彼の存在は評価される。
次の舞台が、開かれる。
VI. 日本代表――重圧の重み
日の丸。
期待の集合体。
ボールは、もはや彼一人のものではない。
全国の夢が、足元に集まる。
彼は、それを前へ押し出す。
リフティングは、重圧を受け止めるための儀式だった。
VII. ビッグクラブ――頂の孤独
世界最高峰。
天才しかいない場所。
彼は、創造性を求める。
速度と発想を融合させる。
千の蹴りが、ここに収束する。
VIII. 現実への帰還
ポン。
最後のタッチ。
完璧に止まるボール。
歓声が爆発する。
足元のスパイクは、特注品だ。
照明が、夜のピッチを照らしている。
「岳、いいアップだったな」
キャプテンの声。
新堂 岳。背番号10。
審判の笛が鳴る。
彼はボールを抱え、中央へ歩く。
千の蹴りで通ってきた回廊は、
今、現実として開かれていた。
彼の視線は、ゴールを捉えている。
あの放課後と、同じ熱を宿したまま。
千蹴の回廊 不思議乃九 @chill_mana
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