第3話

 正面から風を受けると汗で濡れた体が冷えたが周りに見える木々の幹も、徐々に細く若くなりあと少しで森を抜ける、頭の上に差す木洩れ日の量も目に見えて増えていると感じられることが救いだった。



 セメン爺とは西の沢で落ち合う約束だった。

 森の中で茸が採れる場所が大きく変わることはない、殆ど同じ。沢まで辿る道順は把握している。森のことはセメン爺に教わった、だから当然待っていれば会えるだろうと思っていた。

( 今日も一旦、東へ向かってから来るのだろう )

 先に沢へ着いたのはやはり僕だった、いつもなら会っていても良い頃合いになってもその気配すら感じないことに、何かあったんじゃないかと不安が募ると当たりを付けた道を急ぎ戻る。

 木と木の間からセメン爺の姿が見えたとき声を掛けた、僕の声は風の音で掻き消されて届いたかどうかわからない。風は僕の横から前に、後ろに向けて強く吹いていてこの場所だけが荒れていた。

 バサ、頭の上で羽音が聞こえた気がして葉の間を仰ぎ見たけれど何かわからなかった。そして視線を下げたところで黒い大きな鳥を見た。

 それと爺が行き違ったあと一方は空から地へ降り立ち、もう片方は声を上げることなく顔面から倒れその場にくずおれる。この後大きな鳥だと思ったものは、自らの体の輪郭を徐々に小さく変え最後は人の形になった。

( あれは怪物だ )

 そう認識しそれは直感だった。

 目を合わせた訳じゃない、けれど一瞬だけ僕の立つ位置から見えた。

 女が肩越しに振り向く、息を呑む程の美貌だと思ったのは確かだけれど好きになることはないなとも思った。凍てつく氷のような冷めた双眸に背筋がゾワゾワと粟立つ。

 荒れていた周りの風はいつの間にか収まり静かになっている。

( 怪物なんだ、鼻が利くのかも知れない )

 ふとそう思い当たると立っている場所が風上でなければ怖くて立っていられなかった、握る手の汗が止まらない。

 今、思い返しても手の汗は止まらない。女はあの場所に僕がいたこともわかっていたのだと思う。だからあのとき態々聞こえる様に大きな独り言を発した。

 ――あ、良いことを思いついた。誰も見ていないし構わないわよね、ねぇそこの、地面に俯せているだけなんて退屈でしよ人生の再出発にゴブリンになるのは、どう。

 頭に残るその口調の音域は高いタメ口に近いそれは、消えるどころか反復すると頭の中を強引に占拠してゆく。

「ふ――っっ」

 息を吐き一歩前へ。震え出した膝を兎に角前へ、前へそれだけを考えた。


 目の前にある傾斜を登り切ると視界が一気に開ける。

 ずっと遠くまで続く空、森はここから左へ弓なりに窪みながらも広がり平地に残る道はその窪みをなぞり、僕の目の前を横切ったあと右の手前から奥にゆったり蛇行して流れる川と並行してプリ村までゆく。

 右頬に当たる朝日の温かさを無の感慨のまま受けて丘を下りて平地を走る。

 所どころにかつて辺りに木が生えていた名残の木立が点在し大き過ぎる木の根は半分掘り起こされて放置したままになっている、右側の木立の切れ目からは日の光を受けて照る水面、川辺の水へ垂れ込む程伸びた緑の草の束。その中に淡い黄色の小さな花弁はプリムローズだ。

 群生し水の中や岸辺で優しく静かに咲く。

 村を出たときに見た景色がそのまま視界を埋めて自然と涙が溢れそうになる。それを走りながら何度か手の平の掌底で擦って拭った。

 最後の木立まで来ると僕は走るのを一旦止めて大きく息を吐くと呼吸を整え、木の陰で気合いを入れ一歩を踏み出そうとして自分の左手が胸元に伸びていることに気づく。

( 何をするつもりだった、んだ )

 考えたが思いつかず木立から村の入り口が見える場所に移動した、前方で気の抜けた語尾の長い声付きの欠伸が出迎えてくれた。

「ふぁぁ――、ん、帰ってきたか。お前疲れてるんなら休めよ、顔色悪いぞ。あ、そうだ村長が呼んでたぞ。早く行った方がいいかもな」

 声を掛けてきたのはスタウトだ、生まれは僕と同じここプリ村だ。村の南側に架かる橋を守っている、僕達の村は旅人もあまり立ち寄らない辺境にある為自衛の必要性は高い。腕に覚えがあれば子供だって橋の守りを任された。

「ん、わかった。ありがとう」

 行き違い遣り過ごせたと思ったところへ奴から小さく声がした。

「お前、ひょっとして泣いた」

( こいつは昔から意地が悪い )

 言い当てられて思わず

「お前の欠伸の所為だ」

 そう言葉を吐いて駆け出すと村の中央からも声が掛かる。

「よぉ、エンバクニード。沢山採れたかい、鹿に食まれる前のヤツなら高く買ってやるよ」

 良く通る聞き馴れた声は食料品を扱う店の親父、彼はセメン爺の息子だ。

「あ、うん、ありがとう。後で店へ行くよ」

 答えて片手を上げると笑ってみせた。腰に吊るした小袋には今朝採ったばかりの茸が八つ入ったままになっている、鹿に食まれた物はない。が森で見た大きな鳥のことを思い出す。

「オゥ」

 親父は短く返事をして踵を返すと村の奥へ歩いてゆく、喉が引き攣れ上手く笑えた気がしない。

 ここで叫んでしまいたい、叫びたかった。

 楽になりたいと思った、でもセメン爺のことをどう話せばいいのかわからない。何もせず一人だけ生きて帰ってきたんだ、なぜ助けてくれなかったんだと責められるのが怖かった。逃げて狡いと言われるのが怖い。

 親父の姿をずっと見ていられなくて、僕は唯々何も言わず空を仰ぐしかなかった。


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