第2話

 傍でまだ多くの葉を付けた枝が撓う力に耐えられず、その根元が弾けて折れ樹皮が長く剥がれて残る枝の塊は幹から離れることなく打ち付けられてなびく。

 少し前まで穏やかだった森の木々が煩く鳴る中で、老人は腰を深く落とし体が浮いてしまわぬよう足裏へ力を入れ向かってくる風と対峙する。

 足元から駆け上がった風は胸の辺りで向きを変え、渦巻くとそのまま上に吹き咄嗟に目を庇った両腕は肩まで上がり脇が無防備に空いた。

 まともに息を吸うこともできない。

 周りの様子を知る手段が音だけになって、顔に近い右腕を胸元、下へ外そうとした。

 そこで思いがけず耳に言葉が届く。

「除け、モブ」

「は、」

 何だと思った、声の主が男か女か、それとも村から同行してきた若者エンバクニードか、と考えた。

 手首の前に出した片方は動かさずもう片方の腕を下へ、僅かにできた隙間から垣間見たのは一瞬、見たこともない程の大きな鳥。然もその顔が女だと認識できた、気の所為だと思った。村の皆に話せば哂われてしまう。

「( 風が ) 煩くてかなわ」

 ――んな。老人の言葉は途中で切れグラリと視界が傾げる、正直痛みらしい痛みはなく指先がじんと痺れた後は急に体が熱く感じた。

 一瞬だけ鳥の黒い影が前から後ろへ通り過ぎ、耳元には短く高い風の音が残っただけ。

 地面へ手を付こうとしたけれどそれは遅れて顔面からぐしゃりとくずおれた。もう自分がどうなっているのかもわからなかった。


「あ――あ、だから言ったのに」

 空から舞い降りた鳥、女曰く竜なのだそうだがそれが外見を鳥から人へと形を変え、完全には振り返りもせず気怠げなまま肩越しに後ろを見て呟く。

 地に倒れた者をしっかり見ていたか、それはわからないが束ねていない髪が肩から背中にかけて流れ落ちた、格好は村娘というより少し大きな町の娘に近くどれもこの辺りで見ることのない物だった。

 上半身は体型に沿った袖付きのチュニック、下も足を全て隠せる程の丈長の筒型でゆったりとした布地を贅沢に使っている。

そして最も人目を引きつけたのは腰の辺りまであるチュニックの上から巻く貴金属製の長い鎖状の細いベルトだった。

 くん。女が周りの臭いを嗅ぐ。

 視線はまだ辛うじて老人の上に留まっていた、老人は地面に両膝を突き尻を上げ、その癖上半身はだらしなく伸びて見えている片側の脇からは内臓や血が外へ漏れ出ている。

 その上に一つ、摘み採られて間もない茸が転げ落ちる。元を辿ればそれは老人の腰に付けた革ベルトに吊るされた小袋から零れていた、小袋は真横へ一本の線が引かれたのかと思える位盛大に綺麗に切れそこからコロコロと茸が続けて二つ落ちて、零れるのは止まった。

 風の静まった森の中で何事もなかったかの様に女の視線がここで逸れ、自らの下唇に人差し指をそっとあてがうと何か考えを巡らせている。刻としては短く唯、この後口から出た言葉は人が知るには実に残酷で聞こえた言葉尻はどこまでも軽かった。

 森の中で起きた事を知る者は少ない、知っているのは空と風、森の木々とそこに暮らす動物達とあとは老人と共に森に入っていた若者、エンバクニードだけだった。


( 皆に、皆に知らせないと )

 村へ戻る道順は頭の中に入っている。

 木の根に足をとられて縺れ一旦走るのを止めた、喉の渇きが尋常じゃなかった。本当は鼻も喉も胸だって苦しいし膝だって震え始めてる。

「おぇ、うう、ハアハア、」

 吐き気を感じながら無理矢理それを抑え込み口の中に残る唾を一度で呑み下し、足を前へ出す。尖頭靴が木の根を越え近くに生えた草を踏むと青臭い匂いが鼻につく。

( 血の匂いよりは全然いい )

 幹に片手を沿わせて目を閉じると、脇からはみ出した内臓と血の赤がチラつく。それ自体に胸の悪さを覚えたりはしない、兎や鹿を狩りにゆけばその場で捌く。だから見ることのあるものだと言えばそうなんだけれど、流石に人の、と言うのはキツい。

 今、後ろを見る勇気はなかった。

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