決心の一輪

king of living water

決心の一輪

町の片隅にある花屋「ルミエール」。店主のミカは毎朝早く店を開け、花を並べる時間が何より好きだった。バラやユリの香りが静かな午前に憩いのひとときをもたらす。この場所こそ、ミカが心から安らげる小さな世界だ。


 けれど、人間という世界。そこに身を置くことが、ときに彼女に息苦しさをもたらした。かつて、忙しい職場で働いていた頃、多くの人が肩を寄せ合う狭間で彼女は「もっと笑顔を」と促され、けれどそれができず「冷たい」と批判される日々を送っていた。その傷が未だ癒えない分、顔を合わせて挨拶するだけの関係でも、どこか身構えてしまうのだ。


だからここに花屋を構えた。花なら、何も言葉を返してこない。ただ見つめるだけで、美しい表情と言葉を持たない優しさを手にできる。ミカにとって、それこそが心を休ませる場所だった。


それでも、そんな「自分の居場所」にさえ、思いがけない乱れは生じる。ひんぱんに訪れる癖のある客や、言葉や態度があまりに散らかった人々。粗野で一方的な態度にさらされると、自分の心がどんどん狭くなるのを止められない。そしてつい心の中に小さな壁を積み上げてしまう。


一昨日、近所の教会を訪れた際に牧師が語った言葉が、そんな日々と向き合う彼女の胸に響いていた。


「互いに人を自分より優れたものとして見なさい…聖書はそう教えます。そしてそれは、行いや性格に左右されない、無条件の尊敬のようなものです。『決心』という行動のひとつが、心を変え、世界を変えることになるのです。」


ミカは思わず眉を寄せて反論したくなった。

そんな簡単なものじゃない、と。実際には、人の態度や行動は目に映り、どうしてもその先の感情を左右する。いくら心がけようとしても、それが無条件だなんてできるわけがない。


そんなモヤモヤを抱えながらも、不思議と牧師の言葉は、その後も心を掠めて離れなかった。


「自分も…変われるってことなのかな。」


心はまだ決して明白ではなかった。ただ、どこか希望めいた熱が胸の奥で芽生えようとしていたのは感じていた。





午後の静けさを打ち壊すように、一人の男性が店内に入ってきた。


50代中盤くらいだろうか、ラフなスーツを着ているものの、よれたネクタイやくたびれた靴、少し乱れた髪が目についた。顔には疲労の色があり、手にはぐしゃっと握られたビニール袋を持っている。その袋からちらりと見えたのは、小さなメモ帳の切れ端。


男性はドアを雑に閉じると、目を細めながら無遠慮に商品棚を見回した。その動きは粗雑で、まるで花には興味がないのが一目瞭然だった。ミカの心に嫌な予感が走る。


「おい、店員。どれも似たようなもんじゃないか。なんか適当にオススメしろよ。」


声は響きが低く荒っぽい。さらに、そばに置いてあった花瓶を小さく動かしたり、販売用の花束に指で触れてみたりと、落ち着かない動きが続く。ミカは思わず眉をひそめる。


(どうせ形だけの贈り物なんだろう。)


一瞬、男性に向けて小さな壁を積み上げかける自分を感じた。そのとき、ふと昨日の牧師の言葉が頭をよぎる。


「決心を持って一歩を踏み出してください。」


その言葉が喉元に降りてきたのは不思議だ。嫌だと思う気持ちにも抗えないはずなのに、何かが自分を今押そうとしている。当たり前の対応をするだけではない、一つ上の決意を持って。


(もしかしたら…この人も心の中では何かを抱え、誰かを想っているのかもしれない。)


ミカは決心するように小さく深呼吸をした。そして商売の言葉ではなく、気持ちを込めた案内をすることにした。


「こちらの赤いバラですが、大切な方への贈り物にお勧めです。贈られる方に響く花束をお作りしますね。」


男性が目を丸くして少し戸惑う様子を見せた。けれどその後何も言わずに頷いた。


丁寧に一束一束。ミカは目の前の男性だけでなく、その先にいる贈られる人を思いながら花束を包み上げた。


(大切な誰かに届きますように)


と心を込めて完成した花束を男性に手渡した。


男性は静かに受け取ると、小さく「ありがとう」と呟き、店を出ていった。


その瞬間、店のドアの片隅に、彼が落とした小さな紙切れが目についた。そこには走り書きの文字でこう書かれていた。


『彼女を支えてくれた人たちに感謝を込めて、どうしても花束を贈りたい。』


…彼女のことが一瞬頭をよぎったが、それ以上は想像を止めたミカ。


(きっととても大切な方なのだろう。)


ミカは紙を見て少しだけこころの奥が暖かくなるのを感じた。そしてふと視線を下に落とすと、足元に赤い小さな花びらが落ちている。


それは彼が出ていくとき、思わず落としてしまった一輪だった。


決心のその先に広がる世界。自分の心を変えることが世界を変えると感じた瞬間だった。


男性が店を出ていき、落とされた紙と一輪の花びらを拾い上げたミカは、小さく微笑んだ。


目を上げると、店の前を静かに包み込む穏やかな夕陽が差し込んでいる。


いつも通り、明日はまた花を並べるだろう。でもそんな日々も、今日のようにどこかが変わるかもしれない。胸に灯った光が、そのことをそっと教えてくれた。



(完)





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