緋色のロジック 〜弁護士・柊子(とうこ)の事件簿:【鏡の殺人】〜

不思議乃九

鏡の殺人

序章:砂時計の底


東京地方裁判所、第二〇一号法廷。


その日の風は、石畳に積もった埃を巻き上げることもなく、ただ重く沈んでいた。緋色の絨毯の上に立つ三十一歳の弁護士、榊野 柊子(さかきの とうこ)の足裏に、一際冷たい感覚を伝える。彼女は法廷の喧騒、壁の木目、天井の照明、その全てから一線を画した場所に立っているように感じていた。世間は彼女を、敗訴濃厚な殺人事件の「捨て石」と見ていた。だが、柊子にとって、これは捨て石ではない。これは、誰にも見えない鏡の裏側を覗き込む、唯一の窓だった。


被告人席に座る男の名は、三谷 健吾(みたに けんご)。二十四歳。彼は、一週間前、深夜の自宅マンションで、恋人であるファッションデザイナー、橘 あかり(たちばな あかり)を殺害した容疑で逮捕・起訴されていた。凶器は室内にあったアンティークの文鎮。彼の指紋がべったりと付着していた。状況証拠は、あまりにも完成され過ぎていた。まるで、手練れの劇作家が書き上げた、完璧な第三幕のように。


柊子は、検察官の、無感情な鉄条網のような論告を、ただ静かに聞いていた。


> 「…被告人は、被害者との口論の末、衝動的に犯行に及んだ。その動機は、被害者があまりに成功し、眩しすぎたことへの、屈折した嫉妬と憎悪に他ならない」


柊子の内側で、何か鈍い音がした。それは、彼女の理性とは別の場所にある、古い、錆びついた真実への羅針盤が、微かに「否」を指した音だった。嫉妬? 憎悪? 三谷の、あの瞳の奥にあったのは、深く、底の見えない諦念、そして、絶望だった。憎しみに燃える者の瞳ではない。事実は常に、人が望む物語よりも、遥かに滑稽で、哀しく、そして、どこまでも簡潔なのだ。


柊子は静かに立ち上がり、弁護人席から被告人を見た。


「三谷さん。あなたは、橘さんを愛していましたか」


三谷は俯いたまま、絞り出すように言った。


「…はい」


「では、なぜ、あなたは彼女を殺さなければならなかったのですか」


三谷は顔を上げた。その瞳に、一瞬だけ、激しい光が宿った。しかし、それはすぐに消え、再び、無感情の灰燼に戻る。


「…私には、わかりません」


柊子は、その「わからない」という言葉の裏に、無限の空白を感じた。ここにこそ、真犯人が仕掛けたトリックの「隙間」が隠されている。彼女は、この完成され過ぎた物語に、たった一箇所だけ、水滴を落とさなければならなかった。





第一章:剥がれた真実の断片


その夜、柊子は橘あかりが殺害された現場、高級マンションの一室を訪れた。警察の捜査は終わっているが、部屋はまだ、あの夜の残滓を纏っている。


橘あかりは、三十歳を目前に、パリコレデビューも果たした新進気鋭のデザイナーだった。部屋は、彼女のセンスを反映した、白と黒を基調とする、まるでモノクロ写真のような空間。しかし、その無機質な美しさの中に、柊子の瞳は、決定的な違和感を捉えた。


違和感その一:観葉植物の向き。

窓際に置かれた大きなフィカスは、光の方向へ向かって、その枝を伸ばしているはずだ。しかし、その葉の付き方は、まるで、太陽が逆の方向から射しているかのようだった。


柊子はその葉を見て、窓の外の光ではない何かを思い浮かべた。生活の光ではない。仕事の光でもない。見せるための光。育てるための光。窓のない場所で生き延びる植物が、そこにある。


違和感その二:壁に飾られた写真。

あかりと三谷が、旅行先で撮ったとおぼしき写真。二人は満面の笑みで、三谷があかりの肩を抱いている。だが、あかりの左手の薬指に、光る指輪がない。三谷は「結婚を前提に交際していた」と供述している。なぜ、この写真だけ、指輪がないのだろうか。


違和感その三:散乱した色鉛筆。

殺害に使われた文鎮の近く、ローテーブルの上に、あかりがデザイン画を描くのに使っていたらしい、色鉛筆が散乱していた。その中に、たった一本だけ、芯が極度に摩耗し、先端が丸くなった鉛筆が混ざっていた。他の鉛筆は、すべて綺麗に研ぎ澄まされていたのに。


柊子は、三谷が殺したという「物語」を、いったん頭の中から消去した。そして、目の前の物理的な「事実」だけを、拾い集める。真実は、いつだって、細部に宿る、微かなノイズだ。





翌日、柊子は三谷に接見した。


「三谷さん。あなたが橘さんを殺した時、窓の外は、雨でしたか、晴れでしたか」


三谷は目を閉じた。


「…わかりません。ただ、部屋の照明は、煌々とついていました」


「では、その照明は、天井の主照明ですか。それとも、間接照明?」


「…主照明です。とても明るかった」


柊子は確信した。あの部屋の照明は、すべて間接照明であり、主照明は、もともと設置されていない。三谷は、あの夜の記憶を、自分の脳内から、あるいは誰かの証言から、「借りてきている」。彼は真犯人ではない。しかし、何かを隠している。あるいは、誰かに、記憶をすり替えられている。


彼女は、指紋がべったりと付着していた文鎮の写真を、三谷に見せた。


「この文鎮は、あなたが橘さんにプレゼントしたものですね」


「…はい」


「では、なぜ、あなたの指紋は、文鎮の底ではなく、側面全体に、まるで全体重をかけて握り潰したかのように、鮮明についているのですか」


三谷の顔色が、初めて、苦痛に歪んだ。


「…私は、文鎮を握った記憶がない」


「そう。ならば、これはあなたが殺害に使った指紋ではない。あなたの指紋を、何らかの方法で文鎮に移植した、偽装工作だ」


柊子の脳内で、ロジックが、閃光のように繋がる。


三谷は、殺害現場にいた。

彼は文鎮で殴った記憶がない。

だが、彼の指紋は文鎮にある。


結論:文鎮は、彼が「生前」に、「何か別の目的」で触れた時、指紋を採取され、それが殺害時に利用された。


あの写真に指輪がないこと、観葉植物の向き、摩耗した一本の鉛筆…。ひとつひとつは小さい。だが、小さいものほど、人は嘘をつけない。





第二章:鏡の構造


柊子は、摩耗した一本の鉛筆に注目した。デザインを仕事にする人間が、鉛筆の先を丸く使い潰すことはない。常に研ぎ澄まされた先端が必要だ。これは、筆圧の低い人間が、デザイン画ではない、別の用途で使った痕跡。


そして、観葉植物の向き。光の方向へ伸びるはずの植物が、逆を向いていた。これは、植物が「窓ではない」人工的な強い光に向かって育っていたことを示唆している。


柊子にとって、観葉植物は犯人を名指す証拠ではない。ただ、疑いの矢印を最初に曲げるための、静かな指先だった。窓のない部屋。強い育成ライト。丸い芯の鉛筆。そこに、誰がいるか。


柊子は、橘あかりの仕事関係者、特に彼女の成功を妬んでいた、同業者の影を追い始めた。浮かび上がったのは、あかりの元・共同経営者、黒田 慎吾(くろだ しんご)。彼は、あかりとの経営方針の対立から会社を追われ、失意の底にあった。彼のデザインは、あかりのデザインと、驚くほど似ている。





柊子は、黒田のアトリエを訪れた。地下にある、窓のない部屋。人工の強力な照明が煌々と照らされている。そして、その一角に、育成ライトに照らされた、見覚えのある観葉植物があった。


「黒田さん。あなたのこの植物、随分と光の方向が、普通の植物と違いますね」


黒田は冷静だった。


「日の当たらない部屋だから、ライトで育てています。何か問題でも?」


「いいえ。ただ、橘さんの部屋にあったフィカスと、品種も、育て方も、まったく同じだと思っただけです」


柊子は、そこで、机の上の、使い古された、芯の丸い鉛筆を見つけた。


「黒田さん。あなたは、橘さんが成功した時、彼女のデザインのアイデアの種を、盗み出したいとは思いませんでしたか?」


黒田の顔が強張った。


柊子は、黒田の殺意よりも先に、侵入の習慣を確かめたかった。一度の衝動なら、偶然で済む。だが、何度も狙った者は、道具を用意する。


柊子は、さらに調査を進めた。あかりのスマートフォンの復元されたメッセージ履歴。そこには、黒田からの執拗な脅迫めいたメッセージがあった。「お前のデザインは、元々俺のアイデアだった」「成功の半分は俺に権利がある」。


その文面は、盗用の告発ではなかった。返せでも、謝れでもない。奪い返すための反復だった。黒田は、あかりの部屋に侵入する機会を狙い続けていた。スケッチ。素材。サンプル。そういうものを取り返すために。


そして、事件当夜、黒田が三谷のマンション付近の防犯カメラに映っていた。時刻は、推定殺害時刻の三十分前。


柊子は、ロジックを組み立てる。


黒田の復讐は「殺す」ことから始まっていない。まず、「奪う」こと。次に、「破壊する」こと。あかりの仕事を奪えないなら、あかりの生活を壊す。そのために、黒田は犯人の器を探していた。三谷は、最も適していた。恋人で、部屋に入れる。疑われやすい。感情もある。


黒田が準備していたのは、殺害のための凶器ではない。罪を着せるための道具だ。ゲル状の転写シート。指紋を写し取り、別の物体に押し付けるための薄い膜。黒田は、侵入の機会を狙う過程で、三谷が触れた物から指紋を採取し、保管していた。目的は、あかりの信用と未来を壊すため。長期の復讐計画は、すでに進行していた。


だが、事件当夜の殺害は衝動だった。盗みに入った。あかりが戻った。口論になった。文鎮が手元にあった。そして、殴った。


衝動は、計画の上に落ちた火種だ。計画は、衝動を処理する装置になる。


黒田は、慌ててゲルシートを文鎮に押し付けた。だが焦りのあまり、文鎮全体を強く握ってしまい、不自然な指紋の付着状態となってしまった。


柊子は、三谷が文鎮を「握った記憶がない」と証言したことに、戦慄した。黒田の偽装は、完璧ではなかった。三谷の無意識が、「触れていない」という真実を、辛うじて保持していたのだ。


そして、あの写真の指輪。写真は二年前に撮影された、婚約前のもの。なぜ、あかりは、わざわざ古い写真を、新しく飾り直したのか。


あかりの友人への聞き取りで、驚愕の事実を知る。あかりは、事件の一週間前、黒田からの脅迫に耐えかねて、三谷に「少しの間、距離を置きたい」と伝えていた。しかし、三谷はそれを「別れ」だと勘違いし、深く傷ついていた。


あかりが古い写真を飾り直したのは、「私たちは、あの頃の純粋な愛に戻れる」という、三谷への無言のメッセージだった。彼女の想いは、黒田によって、永遠に断たれた。





第三章:法廷の反転


二日後。裁判は最終弁論を迎えていた。


検察官は、三谷の「嫉妬」と「憎悪」を、再び論じた。


柊子は、静かに立ち上がった。彼女の言葉は説明ではない。削るための刃だ。


「検察は、感情で物語を編む。嫉妬。憎悪。衝動。……けれど、感情は証拠ではありません。証拠は、沈黙のまま嘘をつけない」


柊子は法廷の空気を一度、凍らせた。


「この事件は、完成され過ぎています。完成品のような状況証拠は、しばしば、誰かの手の匂いを残す」


彼女は、弱いものから積み上げた。崩れない塔を、逆に組むために。


「まず、観葉植物です。被害者宅の観葉植物は、窓とは逆へ伸びていました。これは犯人を断定する証拠ではありません。ただ、“窓のない強い光の部屋”という風景を、事件の外側に投げます」


「次に、鉛筆です。被害者の道具の中に、先端が丸い鉛筆が一本だけ混じっていた。研ぎ澄ます職人の机に、丸い芯は似合わない。そこには、別の手が触れた気配がある」


「そして、照明の齟齬。被告人は『主照明が煌々と』と言った。しかし被害者宅には主照明がない。被告人は夜の記憶を持っていない。……持っていないのに、物語だけは与えられている」


「四つ目。指紋の“付き方”です。文鎮に残された指紋は、自然な把持の圧力分布ではありません。底ではなく側面全体。均一に近い。握った者の指紋ではなく、押し付けられた指紋です」


柊子は一拍置き、決定打へ移った。ここから先は、推測ではない。道具と足跡の話だ。


「弁護側は、指紋移植に用いられるゲル状転写シートの存在を提示します。このシートは、元・共同経営者、黒田慎吾氏のアトリエから押収されたものです」


「黒田氏は、事件当夜、被告人マンション付近の防犯カメラに映っています。時刻は推定殺害時刻の三十分前。被害者宅へ向かうには十分な時間です」


柊子の声は低く、断定的になった。


「黒田氏の計画性は、殺害のためではない。罪を着せるためです。被告人は、犯人に“される準備”を、すでにされていた」


検察官が慌てて異議を唱える。


「弁護人! それでは、被告人が現場にいたという事実はどう説明する! 被告人の供述では、被告人は現場にいたのだ!」


柊子は、その言葉を待っていた。彼女は、静かに、三谷に尋ねた。


「三谷さん。あなたは、あの夜、橘さんの部屋に行きました。そして、そこで、何を見ましたか?」


三谷は、涙を流しながら、叫んだ。


「…私は、あかりが…倒れているのを見ました! 文鎮が転がっていて、血まみれで…! 私は、パニックになって、あかりを抱きしめました! そして、救急車を呼ぼうとしましたが、もう、息をしていなかった…!」


「では、なぜ、あなたは警察に通報しなかったのですか?」


「…私は、『距離を置きたい』と言われた後、あかりの部屋に行くべきではなかったのに、行ってしまった。私が殺したと思われると思って…怖くなって、逃げてしまったんです…!」


柊子は畳みかけない。ただ、決めた。


「逃げたのは罪ですか。……いいえ。それは、人が愛を失った時に見せる、最も凡庸で、最も残酷な弱さです」


柊子は、黒田の方を見た。


「真犯人は、黒田慎吾。鏡の裏で、他人の顔を貼り付けた者です」


法廷全体が、息を呑む静寂に包まれた。検察官は、顔面蒼白で、何も言い返すことができない。


その時、傍聴席にいた黒田が、突然立ち上がった。


「…黙れ! あの女は、私のアイデアを盗んだ! 私の人生を奪った! 私には、復讐する権利があったんだ!」


法廷は騒然となり、黒田は、その場で逮捕された。


判決。無罪。


柊子は、法廷の緋色の絨毯の上で、静かに、目を閉じた。


誰かの絶望の上に立つ真実も、誰かの愛の上に立つ偽りも、どちらも、太陽の下では、すぐに溶けて消えてしまう。しかし、ロジックという冷たい刃だけが、人の心の奥底にある、哀しい真実を、切り出すことができるのだ。





エピローグ


判決から一週間後。


柊子は、拘置所を出た三谷と、静かなカフェで向き合っていた。


「榊野先生…。本当に、ありがとうございました」


三谷は、以前の、無感情な瞳ではなく、光を取り戻した、どこか、穏やかな目つきになっていた。


「いいえ。あなたは、最後まで、橘さんへの愛を守り抜いた。私がしたことは、その愛に付着した憎悪の影を拭い去っただけです」


「先生は、なぜ、そこまで私を信じてくださったのですか」


柊子は、コーヒーカップを静かに傾けた。窓の外は、もう、新しい季節の光に満ちていた。


「物語は、常に、それを語る人間の情動に支配される。けれど、事実は、常に、その物語の外側にある。あなたの瞳にあったのは、殺人の情動ではなく、愛を失ったことへの、純粋な、絶望だったからです」


柊子は、三谷に、小さなメモを手渡した。それは、あかりが生前、三谷のために書いていた、手紙の写しだった。


「これは、橘さんが、事件の前日に書いていたものです。警察が押収していましたが、証拠としては採用されませんでした。無罪を直接証明する物理証拠ではなく、被害者の心情を示すにとどまると判断されたからです」


三谷は、震える手で、手紙を読んだ。


> 「健吾へ。ごめんなさい。私は、少しの間、一人で戦わなければならない。でも、それが終わったら、必ず、あなたのもとに戻ります。あの日の、指輪のない写真を飾ったのは、私たちが、これから、新しい指輪を一緒に選ぶためです。待っていてください。愛しています」


三谷は、声を上げて泣いた。


柊子は、静かに席を立った。


「さあ、三谷さん。あなたには、これから、橘さんの想いを胸に、新しい人生を歩んでもらいます。私の仕事は、まだ終わりませんから」


彼女は、颯爽と立ち上がった。その背中には、まるで、弁護士の制服とは別の、真実を映す女優のような、凛とした光が差していた。


柊子は、法廷の外へ出た。次の依頼人が、既に待っている。彼女の戦いは、まだ始まったばかりだ。


【終】

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