永遠のバカンス

晴れ時々雨

第1話

「旅行?」

 相席した年配の女性が何気なく聞いてきた言葉に、彼と顔を見合せた。

 彼が曖昧な首肯を返事代わりにする。

「夏休みってわけでもなさそうだけど」

 歳を重ねると、他人の事情に介入することに抵抗がなくなるのか、すべてがどうでもよくなるのか、彼女の語尾は呟きのように独り言めいていた。

 8月も終わった。けれど海はまだ人懐こい顔をしている。

 自分たちの方から世間話を求めるほど大人でない僕らが他人から無遠慮に話しかけられたのは、警戒も薄く、寛いでいるように見えたせいだろう。

 9月下旬の平日だが、言ってみれば僕らにとっては夏休みに違いなかった。

 この永いバカンスをとるにあたり、ちょっとした失敗をしたせいで僕のスマホはひっきりなしに震えていた。

「切らないのか」

「そうだな」

 僕はスマホを操作して着拒し、番号を削除した。あっけなく一人の人間と連絡を断てたことに少し震え、震えながら笑いが込み上げた。

 見上げると彼も笑っている。そうしたらますますおかしくなってきて吹き出した。

「LINEどうした?」

 関連的に彼にきく。

「全部消した。おまえ以外」

「ふーん。てかオマエ俺の直電知ってる?」

「奇跡的にな」

 今はなんでも笑いに繋がっていて、彼のどうってことない受け答えにすら吹き出してしまう。 じわりと這い登ってくる笑いの衝動に耐えきれなくなって爆笑しそうになる。

 でも公衆の面前という最後の枷がある。

 僕らが身を寄せあって笑い転げる様に、さっきのご婦人は幽霊でもみたような面持ちをする。


 この電車は年代物だ。二人掛けの座席が相向かいになっている。進行方向と逆向きで腰掛ける僕らがシートに沈んでいたために、後ろから乗車したおばさんは気付かずに僕らのいるボックス席に座ったのだった。

 僕たちは確かに浮かれていた。興奮と緊張で。けれどそれはすぐに脱力と空虚に取って代わる。


「どこへ行くの?」

 おばさんの好奇心混じりの言葉に、まるで言語が通じないように黙る。

 彼が、もしかしたら電車に乗り間違えたかもしれないとそわそわしだしたところをお節介精神に火をつけられたおばさんに尋ねられた末のことだった。

 ほぼ無理だろうけど、外国人の振りをしてみた。そう思い込んで。

 彼女は鼻から大きな溜め息をつき、肘掛けに体重を乗せて口を閉じた。

 やり過ごしたことへの安堵だけして、二人でまたニヤリとする。


 壁と壁に阻まれたところを抜けると、列車は海沿いに出た。

「海です」

 笑いを含んだ声で彼が突然言った。

 目的地についての返答のつもりなのだが、決定的にタイミングがおかしい。

 おばさんはもう一度でかい溜め息をしたあと、

「そりゃそうでしょ」

 と言った。

 吹き出すのを堪えるのが大変だった。口の息を我慢すると目から涙が出てきて、それは彼の方も同じで、それを見たらもう破裂しそうだった。

 つらい時間を過ぎた。

 僕らはいつの間にか、車窓をゆっくりと流れる海岸を凝視していた。


 旅の狙いを思えば、おばさんの存在は邪魔でしかなかったが、景色に人格のある今の状況が目的の重さから解放してくれてもいた。

 そうしないと、黙り込むたび僕らは現実の幻に魘される。

 乗り間違えはありえないのに、そう感じて行動までしてしまうのはよく理解できた。でも彼には、乗り間違えたと言ってあたふたして欲しくなかった。


 腹が減ったと、カバンから出したサンドイッチを分け合って頬張った。

「コーヒーが飲みたいな」

 水は一本しかないので、回し飲みした。

 朝食とか昼食とか役割を持たない食べ物を食べる贅沢を楽しんだ。

 口の周りについたパン屑をお互い取り合って、僕らが大胆かつ単純な関係だとおばさんに見せしめる。まぁおばさんが思ってるような一般的な多様性の端の方にいるんだけどね。


 オマエに出逢えたことは奇跡なんだろうか。


 彼も同じことを思っているに違いない。

 僕らは同じ海を探している。

 そういうのってやがて出会うものだろう?

 運命とかドラマチックなやつじゃなくて、探していると自然と行き場所がかぶるんだ。

 彼とは足下の影が繋がってる。

 なにも恐れることはない。

 でももともと弱い僕らは、互いの連絡先を消すことができなかった。一緒の場所へいくってのに。


 目を覚ますとおばさんはいなくなっていた。

 ほんとうにうざい。

 だから関わりたくなかったのに。


 列車は闇の中を突き進んでいた。

 海は、車窓の灯りを星と見まごうだろうか。

 海を騙したいような気持ちがいつもあった。

 海より上位にいると思っていたかった。

 取り留めもないことを次々と考えることが素晴らしいと思いたい。

 だったら、もしそうだったら、海になぞ行く必要はないじゃないか。


 全然寒くないけど、彼に身を寄せた。彼は眠ったまま僕の肩を抱き込む。額から、彼の首の体温が伝わる。喉仏が弱く痙攣している。彼の腹に腕を回し、力を込めた。


 彼と知り合ってからしばらく経ったとき、海の話をした。

 彼はそれを淵と言った。

「淵っていうか、巨大な湖かな」

 湖っていうと、向こう岸があるんじゃないの?あるんだったらたどり着けちゃうじゃん。

「すごくでかいから岸は見えない。端も見えない。でも、ある気がする。行ける気は全くしないけどね」

 ふたつの個体がある限り、その間にはまったく同じことは存在しない。

 ほんとうに自分はひとりだ。

 あまりにも凄い事実に圧倒されたのを憶えている。


 この先は海しかない。

 もう終点についている。あとは降りる駅を決めればいいだけ。

 駅名は海とか淵とか、湖とか、人によって言い方が違う。たぶん見え方も違うだろう。

 僕らは同時に降りる動作をした。

 ホームに降り立つと電車は動き出し、走り去った。

 海は電車から見るときは純粋な青だったのに、近くで見ると青に唐突な薄桃色がさしている。

 こんな色は、太陽の沈みきった夕暮れを連想してしまう。けれど海にいる安心感からか、魘される心配はなさそうだ。

 ふと、自分が強くなったのではないかと思ったが、それは勘違いに他ならない。

 なぜならここが海だからだ。

 最後の時まで彼と通話を繋いでおくことを試そうとして、水没に耐えられなくて先に死んでいたスマホがおかしくて笑った。

 一緒に砂浜へ来たが、入水した途端彼を見失った。

 ひとつ思い出すことと言えば、彼が言った「岸」についてだ。あの見え方でなくて本当に良かったと思う。

 楽観的にみえて極度に繊細な彼の生来のかなしみ。やはり同等さを測るのは不可能で、できるのはぎりぎり同調だけなのだ。

 ああ思考が止まらない。

 いつもはそれが嫌で嫌でしかたなかった。

 今はドキドキしてる。この状態がいつ終わるか、迫られているように感じるからだ。きっとそれは突然のことだ。ぶった斬るか、延々と永遠に続くかのどちらか。

 早く今までのことを思い出さないと!

 もしかしたらスマホはまだ再起できるかも。過去を思い出しても疑問を思い浮かべたらダメだ。ここまできて解決できないことに脳メモリーを割きたくない。コーヒー!飲みたかった!でもなんでもいいわけじゃない。それは彼も承知だ。しかし彼は正直なところがある。まさか別便を疑うなんて。ありえない!直接言ったことはないけど彼は男として格好いいよね。たぶん女にモテたんじゃないか。もう少し長く現実に留まる選択をしていたら髪型を真似してたかもしれない。仕事先の電話に出ないで番号を削除したのは痛快だったな。なんせ辞めると言い出したのは昨日だからしかたない。でもすぐ消去しなかったのは痛恨のミスだった。あーやめろやめろやめろ。仕事とか電話とかおばさんとか。おばさんも降りていった。あの人は何駅に見えていたのかな。スーパー駅か。違うたぶんエデンだ。おでんじゃないエデンだ。すみませんおばさん。彼はどの辺を揺

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