未整備のインフラ

不思議乃九

未整備のインフラ

高井は今日も、首に嵌めたヨギボーのネックピローの感触を確かめるように、深く息を吐いた。

彼の首筋には、以前世話をした風俗嬢からもらった、安価で柔らかなマイクロビーズの温もりが、小さな赦しのように纏わりついている。


二年前の夏、学生時代の悪友である田中から誘われた風俗スカウトという業種。

高井は、自身がこの世界の住人になるとは夢にも思っていなかった。

コロナ禍。社会のメインストリームは、彼という規格外の存在を、静かに、だが無慈悲に拒絶した。

高井に残されたのは、薄っぺらい履歴書と、東京の一室、そして将来へのぼんやりとした不安だけだった。


彼の仕事は、国から**トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)**という、仰々しいレッテルを貼られている。

だが高井の認識は違う。

スカウトとは、悪質な風俗店と、金銭的な理由、あるいはそれ以上に複雑な理由で、自らの体を資本とせざるを得ない女性たちとの、緩衝材である。

劣悪な条件を提示する店を避け、少しでも安全な場所を提供すること。

それが、高井の唯一の矜持だった。


「必要悪、か」

彼はその言葉を、自身の内側で否定する。

未整備のインフラだ。

誰もが目を背け、誰もが声高に語らない、現代社会の歪みが凝縮された場所。

そこに、高井は、一本の水道管を引いている。

水が必要な者に、わずかながらも清浄な水を供給しようと。

この自負こそが、高井をこの薄暗い部屋に留まらせる、唯一の燃料だった。


今日の日課が始まる。


iPhoneの画面に、慣れ親しんだSNSのタイムラインが滑り出す。

彼の偽アカウントは、誰にでもいそうな、無害で、少しだけ羽振りの良さそうな男を演じる。

プロフィール画像は、フリー素材の風景写真。

名前は、ただの記号の羅列。

手口は原始的で、そして恐ろしいほどに地味だ。


「Amazonギフトポイント配りまーす!抽選で100名様に1000円分!」


安っぽい煽り文句と共に、わずかなポイントをばら撒く。

これは撒き餌。

この餌に食いつくアカウント。そのプロファイル周りを徹底的に観測する。

アイコンが自撮りか、動物か、アニメか。

投稿内容が刹那的な欲望か、現実的な金銭的困窮か。

過去の投稿頻度、フォロワーとのやり取りの質。


地味だ。本当に地味な作業だ。

一つ一つ、手作業で、人間の勘と直感で、「必要としてくれる」女性の像を炙り出す。


(100人に2人食い付けばいい)


高井は、心の中で呪文のように繰り返す。

仕事なんて、そういうものだ。

成果とは、積み重ねの果てに、確率の波を乗りこなした先にしか現れない。

この地道な作業を積み重ねることでしか、真に支援を必要としている女性たちには届かない。


iPhoneをスワイプする高井の首に、ヨギボーのネックピローは深く沈んでいる。

それは、卒業と共に世界を去った美大生が残していった、小さな感謝の結晶だった。

彼女は、高井を単なる「スカウト」ではなく、自分をこの闇の世界で守ってくれた存在として認識してくれていた。

その記憶が、彼の「未整備のインフラ」論を、単なる自己弁護ではないと確信させたのだ。


だが、SNSの世界は無情だ。

ターゲットを見定めれば、感情を排したビジネスの言葉を投げつける。


【DM例】


はじめまして。DM失礼します。突然ですが、お店は決まってますか?

お風呂、デリ、出稼ぎに興味はありませんか?


この簡潔で、どこか冷たい言葉が、高井が自身の感情と仕事との間に引いた、明確な境界線だ。

優しさで近づいてはならない。

優しさは、この世界では甘い毒となり、彼女たちをさらに深い搾取へと誘う。

必要なのは、情報と、機会と、そして「安全」という名の、硬質なインフラ整備なのだ。


返信の内容によって、高井は瞬時に何通りものペルソナを使い分ける。

「頼れる兄貴」「物分かりのいい同級生」「ちょっと危ないけど情に厚いオジサン」……。

だが、DMの文面そのものは変えない。

仕事の入り口は、常にこの、簡潔で直接的なビジネスの問いかけであるべきだ。


(ああ、またこのパターンか)


「生活費がやばくて…でも危ないことはしたくなくて…」


そんな返信には、高井は一つ一つ丁寧に、だが感情を込めずに、仕事の内容と条件、そして店の情報を提示していく。

自立心と羞恥心、そして金銭的困窮の狭間で揺れる層。

最も「世話を焼く」価値のある、インフラを必要とする層だ。


(…は?なんだこいつ)


「私、可愛いです。インスタ見てください。すぐに稼げますよね?」


即座にブロック。

安易な自信と浅はかな考えの持ち主は、システムを乱すノイズでしかない。

インフラ整備には、安定した運用が必要なのだ。


高井は、ふと窓の外を見た。

曇天。午後。

部屋の中は、iPhoneのバックライトと、デスクランプの光だけが世界を形作っている。


高井の肉体は、この部屋の四角い空間に閉じ込められているが、

彼の意識は、電波という見えない糸を伝って、無数の孤独な女性たちの部屋へと潜り込んでいる。


孤独だ。

高井自身も、孤独だった。


社会のメインストリームから弾き出され、

彼は「社会の裏側」という名の、広大で未開拓な水脈を見つけてしまった。


スカウトという仕事は、彼に特異な「観測者」としての視点を与えた。

彼は、この国が、いかに見かけの経済成長やGDPの裏側で、

静かに、そして着実に、生活に困窮する女性たちを増やしているかを知っている。


彼が手を差し伸べる行為は、善行ではない。

それは、システムの一部としての機能だ。

しかし、その機能が、一人の女性の人生を、少しだけマシな方向へと修正する。

その修正こそが、高井の、この孤独なデジタル労働を支える、唯一の報酬だった。


「……来た」


高井の指が止まる。

あるアカウントからの返信。簡潔で、感情が読み取りにくい文章。


「お話、聞いてもらえますか?正直に話します。

今、父親の借金の肩代わりをしていて。

風俗で働かないと、家族が路頭に迷います。でも、怖いんです。」


その文章の奥に、高井は、

強い意志と、切羽詰まった状況、

そして、まだ世界に対する信頼を失っていない、わずかな光を見た。


(この子だ)


高井は、ヨギボーのネックピローを深く首に沈め、ディスプレイに顔を近づけた。

首筋が温かい。

この温もりは、小さな「感謝」の熱量だ。


「わかりました。まずはお話を聞かせてください。

あなたの状況を、包み隠さずに。

私は、あなたの味方です。

悪質な店には、絶対に行かせません。約束します」


高井は、キーボードを叩き始めた。

彼の言葉は、もはやSNSの軽薄なやり取りではない。

それは、暗闇の中に差し伸べられた、細くても確かな、命綱だ。


未整備のインフラ。

彼は、今日もその配管工事を続ける。

誰かの人生の、ほんの小さな分岐点で、

少しだけ安全なレールを敷くために。


高井(27)の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。

彼の首元に嵌ったヨギボーが、静かに、その重さと使命を支えていた。


【終】

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