Trendy Treading Trangedy

伊阪 証

本編

作品の前にお知らせ


下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。

あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。

表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158

計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069


他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。

また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。

今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。


アスファルトは熱で歪み、乾いた空気は埃と排ガスの匂いを運んでいた。古いアパート群が密集する路地には、夜明け前の湿った空気がまだ残っている。電線が蜘蛛の巣のように上空を覆い、灰色のフィルター越しに今日という日が淡く滲んでいた。路地裏の屋台では、店主が朝の支度を始め、油の匂いが漂う。

その路地にある、どこかの部屋のテレビから、ニュース番組の音声だけが、生活の雑音に混じって漏れていた。

「・・・重い病を患った恋人のため、自らの寿命を提供した青年の物語です」

ナレーションが、まるで遠い異国の美談を語るように、静かに流れる。テレビ画面には、笑顔の遺影が映し出され、その隣で女性が涙ぐんでいる。遺影の隣の祭壇には、白い花が飾られていた。

「これこそ、現代における愛の究極の形と言えるでしょう」

アナウンサーの声が、感情を込めて語る。しかし、画面の下部には、解説の邪魔にならないよう、極小の文字で『なお、この医療行為は現在、現地の法律により違法とされています』と流れている。

テレビの音声と映像は、特定の場所ではなく、古いアパート群の窓から窓へと流れていき、人々の朝のBGMとして溶け込んでいった。誰も真剣には見ていない。ただ、「違法だが感動的」という矛盾した空気だけが、街の朝に充満していた。

安アパートの一室。壁紙が剥がれかかった薄い壁の向こうからは、隣人が共同の水道を使う音が微かに響いてくる。朝の光は、窓の桟に溜まった埃を白く浮き上がらせていた。

A男は、安っぽいプラスチックのテーブルに向かっていた。上には、財布の中身、先月の給料明細、光熱費の請求書が紙の束となって広げられていた。

指先が、請求書の数字を、計算機のキーを押すように一つ一つ辿っていく。三日後。彼女の誕生日。

彼は背筋を伸ばし、一度大きく息を吐いた。給料明細の額と請求額を見比べる。残った小銭を数え直し、手のひらに載せて振ってみたが、枚数は変わらなかった。彼は無意識に、ため息を殺して唇を噛んだ。

テーブルの隅には、A女が以前何気なく開いたページのスクリーンショットが印刷された紙が置いてある。小さな宝石をあしらったペンダント。それは、この数日間のA男にとって、最も美しく、そして最も苛立たしい存在だった。

彼はチラシを見ないようにと、意識的に視線を書類の束に戻す。だが、重力に引かれるように、彼の視線は何度もペンダントの画像に吸い寄せられた。

(安物の代替案ならどうだ)

A男は、鉛筆を手に取り、自分で作れる木製小物や、手書きのメッセージカードのコストを計算し始めた。しかし、どんなに切り詰めても、彼女が本当に喜んでくれる「愛が目に見える形」を整えることは、この手元の金では厳しかった。

背筋を伸ばしたが、やがて小さく丸まる。このままでは、彼女の「特別な日」を、彼の「貧しさ」が台無しにしてしまう。その恐怖が、A男の自尊心を削っていく。

その時、壁の向こうから漏れてくるテレビの美談が、再び耳に入ってきた。

「・・・愛の究極の形と言えるでしょう。そしてこの医療行為は、現地の法律では違法とされるにも関わらず――」

A男は、鉛筆を置いた。彼は、声のする方角へ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。彼はまだニュースの内容を理解してはいない。だが、その音の裏に隠された「違法だが、愛を証明する解決策」の存在だけは、彼の焦燥と絶望が充満した部屋に、微かな光のように差し込んできていた。

これらの提案を反映し、改行と書式ルールに沿ってテキストを再構成します。

公立病院の一室。設備は古く、混雑気味の廊下からは、絶え間なく患者や医療スタッフの足音が聞こえてくる。

B女は、細い腕から点滴を受けていた。病状はまだ命に猶予があるが、その治療は終わりが見えない長期戦となる。

B男は、ベッド脇の折りたたみ椅子に座り、テーブルに広げられた分厚い見積書の束を見つめていた。細かい数字が羅列されているが、その合計額には到底届かない絶望だけは、紙束の重みとして理解できた。担当医は、可能な治療法、保険適用範囲、そして「足りない部分」について、感情を一切込めず、淡々と説明を終えて部屋を出て行ったばかりだ。

B男の手元に残されたメモには、ペンで具体的な金額を書き込もうとして、途中で止められた雑な跡だけが残っている。

彼は、自分の腕を無意識にさすった。血の通った、まだ健康な筋肉。

(こんな身体でよければ、いくらでも差し出すのに)

彼は、無意識に「自分のことを安く見積もっている」。自分の命を他者の命よりも安価なものとして扱う、自罰的で英雄願望にも似た思考が、彼の内面で渦巻いていた。B女の痩せた髪に触れるB男の手は、微動だにしなかった。すでに、彼は覚悟を決めかけている。

彼は席を立ち、病室のドアを開けた。一歩廊下へ踏み出したB男のすぐ近くで、家族らしき人々が低い声で話していた。

「違法な治療に走るなんて、正気じゃないわ」

「でも、噂ではあそこで助かった人もいるらしいのよ」

断片的な会話。B男は一瞬だけ足を止めた。彼の頭の中では、まだ「寿命を売買する闇病院」という明確な認識にはなっていない。ただ、「正式な医療の外側にある、噂レベルの何か」が、この金銭的な限界を突破できる可能性がある、という情報だけが、そっと入り込んできた。

スラム近隣の安アパート。A男の部屋よりは生活感があるが、酒の瓶やジャンクフードの袋が散らかっている。部屋は雑然としているが、活気がある。

午後前。C男はベッドに寝転がり、スマホで動画を見ていた。テレビか配信サイトで流れているのは、先ほどの「寿命提供で恋人を救った話」の切り抜き動画だった。

「すげーな、こいつ」

C男は、コメント欄をスクロールしながら、笑い半分に読み上げた。その反応は、感心に近い。「今が楽しければいい」という彼の価値観からすれば、未来の命を削ってでも今を楽しむその行為は、最も合理的な「小遣い稼ぎ」に見えた。

C女は、散らかった部屋で、洗い物や洗濯などの片付けをしていた。彼女は画面をちらっと見て、すぐに視線を外した。

(もし彼が冗談でなくなるほど、命を軽く見たら?彼の軽薄さのせいで、自分たちの未来が突然終わってしまうのではないか?)

楽しそうなC男の表情と、ニュースの内容のギャップに、彼女の胸の奥で小さな違和感が芽生え始めていた。まだそれが「不安」だとは、彼女自身、言語化できていなかった。

C男はスマホを放り投げ、天井を見ながら、軽口を叩いた。

「寿命売れば一発で金入るんだったら、俺も何年かくらいなら削っていいけどな〜」

C女は、それを真正面から否定しきれず、「バカ言ってる」と軽く笑ってあしらった。彼女にとって、彼のジョークは、自分たちの退屈な日常から抜け出すための、「刺激的な冗談」の範囲内だった。

「今度、あそこ行ってみるか〜」

C男は、半分冗談、半分本気で言葉にした。C女は反射的に否定するほどの勇気はなかった。その曖昧な肯定が、後に二人が共犯感情で結ばれるための、小さな一歩となった。

D男とD女は、自分たちのアパートの小さなキッチンで向かい合っていた。食卓には、スーパーの安売りの惣菜と、炊きたての白いご飯。安価だが、栄養バランスは考えられている。

D男は箸を止めて、テーブルに置いたスマホ画面を指差した。「命を捧げた青年の特集」が、依然として感動的な音楽と共に流れていた。

「またこの手の話か」D男は、心底うんざりした顔をした。「命捧げて“尊い”とか言われて、残された側はどうすんだよ。生きるための重荷を押しつけられてるだけじゃねえか」

D女は食事を続けながら、タブレットで家計簿アプリと自分の健康診断の結果票を照合していた。彼女はニュースの音だけを聞き、「保険金殺人だって、ナレーションで飾れば泣く人いるよね」と、冷静なトーンで返した。

D男はご飯を一口運び、言う。「俺たちは絶対使わないぞ。あそこ(闇病院)は違法だし、何よりタイパが悪すぎる」

「知ってるよ」D女は顔を上げ、D男の目を見た。「もしあなたが病気になっても、寿命削ってまで延命はしないでほしい。私が隣にいない時間を、あなたが独りで生きていくなんて、そんな未来は嫌だ」

それは、二人の間ですでに合意済みの、合法的で健全な愛の価値観だった。派手さは無いが、その会話には、お互いの未来を尊重し合う信頼があった。

二人は、再び普通に食事を続けた。D女がスマホの音量を少し下げる。静かになった部屋に、食器の音と、ニュースからかすかに漏れてくる“感動BGM”が混ざり合った。D男とD女は、その矛盾した音を気にすることなく、安くて質の良い食事を噛み締めていた。

夜の帳が降りた街。

夜の工場から、A男が数人の同僚と連れ立って帰路を歩いていた。今日の給料の話になり、同僚の一人が愚痴をこぼす。

「どうにも足りねえな。このままじゃ次の家賃がやばい」

「知り合いが“寿命提供の病院”で一発逆転したらしいぜ。一年分削っただけで、借金全部消えたって」

A男は足を止め、同僚の話を半信半疑で聞いた。違法な話だと分かっていても、頭の中では恋人のプレゼント代と、給料明細の数字が循環している。

「・・・それ、どこにあるんだ」

A男は、具体的な地名や道順を、反射的に聞いてしまった。同僚はにやりと笑い、路地の奥にある無表札の建物について、噂話のように語り始めた。

公立病院の混雑した廊下。夜勤の看護師たちが、小声で雑談を交わしているのを、B男は遠くから聞いていた。

「違法だけど、あっち(闇病院)から来た薬で助かった患者もいるって」

「でも、その数年後に急に老けて倒れて、またここに運ばれてくるのよね。哀れだわ」

B男は、病室の窓に立ち、病院の外の遠くのビル群を眺めた。雑談の中にあった、「無表札の建物」。窓の灯りだけが、他のビルに紛れて光っている。B男の瞳には、それが「愛の偉業」を達成するための、唯一の道筋に見えた。

夜の屋台。C男とC女が、テーブルの隅で酒を飲んでいた。

隣の客が、新品の高級バイクの鍵を弄びながら、大声で自慢している。

「一年削って、このバイク買ったんだ。命の価値なんて、どうせ老いぼれて使えなくなるんだから、今使うのが一番賢い」

嘘か本当か分からない自慢話だが、C男の興奮度は一気に上がった。彼は、寿命取引を「成功者の証明」と受け取った。

「やっぱ行こうぜ!」C男はC女の腕を掴んだ。

C女は横で笑って聞いているが、その笑いには、わずかな硬さが混じっていた。「バカ言ってる」とあしらうことはできない。もしこれを拒否したら、彼の軽薄な愛が突然冷めてしまうのではないか?その不安が、彼女に曖昧な肯定を強いていた。

早朝。まだ薄暗いアパートの部屋で、A男は財布の中身と、昨夜書き留めたメモを再度確認した。手のひらには、必要最低限の交通費だけが残っている。彼は静かに家を出る。A女は、すでに仕事に出ているか、まだ寝息を立てている。

A男は、ドアに鍵をかける手が止まる。テーブルの上には、赤いペンで日付が丸く囲まれたカレンダー。誕生日の日付。彼は躊躇を振り払うように鍵を回し、小さく音を立ててドアを閉めた。彼の背中には、「少しだけ」と自分を納得させた小さな罪の意識が張り付いていた。

B男は、いつもの時間に病院行きのバスに乗ったが、停留所で降りた。彼の行くべき方向は、病院ではない。

手には、医師から渡された費用見積書の束。度重なる検討と、一晩の葛藤で、紙はくしゃくしゃに折れ曲がっている。B男はそれをポケットに深く押し込んだ。彼の足は、迷いなく、闇病院方面の細い路地へと向かう。彼の内には、「愛の偉業」を成し遂げようとする、静かで強固な決意が燃え上がっていた。

C男とC女は、連れ立って街を歩いていた。彼らは、まるでテーマパークへ向かうような、半分冗談・半分本気の浮ついたテンションだ。

「どんなとこなんだろうな〜。超儲かるらしいぜ?」C男は軽口を叩き、道行く人を面白そうに見ている。

C女は笑いつつも、時々遠くを見ている。彼女の心には、わずかな高揚と、言い知れない不安が混在していた。二人の歩き方は軽やかだ。彼らはまだ、自分たちの命の重さを、金銭的なしがらみから解放された「資産」としてしか掴んでいなかった。

Dカップルの部屋は、いつも通りの朝の慌ただしさで満ちていた。

D女は、手際よく二つの弁当箱にご飯と惣菜を詰めている。D男はネクタイを締めながら、壁に貼られた健康診断の予約票を見た。よし、と頷いた。

テレビでは、また「命を捧げた恋人」の続報が流れている。「ネット上では賛否の声が〜」というナレーションが流れた瞬間、D男はリモコンを操作し、チャンネルを変えた。

D女は弁当をD男に手渡す。「行ってらっしゃい。無事に帰ってきて。それで私にとっては十分だから」

D男は笑い、その額にキスをした。「行ってくる。今日も一日タイパ良く稼いでくるぜ」

D女は、D男が満員バスの波に消えていくのを、窓から見送った。それは、何の変哲もない、ごく当たり前の日常の挨拶だった。

闇病院のある通りの手前で、A男が立ち止まった。彼は懐のメモを強く握りしめている。

別方向から、B男が同じ通りに静かに近づいてきた。彼の顔には、微かな高揚感が浮かんでいた。

遠くから、C男とC女が騒ぎながら歩いてくる。彼らの笑い声は、この違法な通りの重い空気には似合わない、軽薄な音だった。

同じ頃、D男を乗せた満員のバスは、彼らが向かう通りとは別の方向へと走り出していた。車窓の外には、闇病院のある通りの一部が、ビルの間に小さく映り込んでいる。D男は、それに気付かずに、今日の仕事の段取りを頭の中で考えていた。その一瞬のすれ違いが、四組の愛の運命を決定づけた。

三つのレーンが、同じスタートラインへと集結する。

一つのレーンは、日常の道を走り続ける。

昼間。

そのクリニックは、ビルの角にある他の医療機関と見分けがつかない、「普通のクリニック風」の入り口をしていた。看板に書かれた曖昧な医療名は、治療内容をあえてぼかしていた。

待合室は、公立病院のような喧騒がなく、ひどく静まり返っていた。壁の貼り紙は簡素で、患者は誰もが番号札を握りしめ、目を伏せて座っている。正面の受付には、番号札の機械と、分厚い「同意書ファイル」が積み重なっていた。

A男は、渡された番号札を握りしめていた。彼の手のひらが汗ばんで、紙の端が少しふやけている。

彼の番が呼ばれた。白衣の医師は、事務的に血圧、採血、簡単な心電図を取る。すべてが淡々と進められた。モニタには、A男の年齢にしては少し高すぎる「予測寿命」のグラフが表示されていたが、医師はその詳細をA男に開示しなかった。

医師は、手元の紙を指で叩きながら説明した。

「この範囲の減命なら、理論上、日常生活に大きな支障は出にくい。ただし、これは統計上の話で、将来的なリスクは個人の体質によって大きく異なります」

それは、保証のない、責任を回避した説明だった。医師は、淡々とした声でリスクを読み上げる。A男は、その理屈を理解できたかどうか定かでないまま、ペンを持った。震えていないのは、サインする指先だけだった。

点滴室。薄いカーテンで仕切られた簡素なベッドに、A男は横たわった。

「少し眠くなるかもしれませんよ」という看護師の抑揚のない声が聞こえる。腕の針から、無色透明の液体が、ゆっくりと血管に入っていく。A男の視界では、天井の蛍光灯の光が、滲むように広がっていった。

処置が終わったあと、A男は軽い寒気と倦怠感を覚えたが、すぐに自分で立ち上がれた。

出口で渡されたのは、無地の封筒。中には、高価なプレゼントに換金できるバウチャーが入っていた。彼の減じた寿命が、一枚の紙切れへと換算された証拠だ。

時間が飛ぶ。

恋人の誕生日の夜。彼らの狭い部屋には、小さなケーキが置かれていた。テーブルの隅には、丁寧に包み紙に包まれた箱。

A女が包みを開ける。欲しがっていた、小さな宝石をあしらったペンダントが、箱の中で控えめに光った。A女は、その高価なプレゼントに、一瞬言葉を失い、目を見開いた。

「A、これ・・・」

A男は、少しふらつきながらも、それを隠して笑った。「大したことない」

その笑いは、愛を証明できたことへの満足感に満ちていた。ここではまだ、その笑顔が“嘘”として読めるレベルではない。A女は本気で幸せそうに笑い、「こんなに大切に思ってくれてたんだね」と、A男に抱きついた。

A男の目には、その満面の笑顔だけが映っていた。その瞬間、彼の身体の倦怠感は、愛を証明できた高揚感によって完全に打ち消された。

二人はケーキを食べ始めた。ケーキの蝋燭が、一本、また一本と、静かに消されていく。火が消えるたび、A男の顔に落ちる影が少しだけ濃くなるが、まだ誰も、それが不吉なものの影だとは気づいていなかった。

公立病院の裏手にある、昼でも薄暗い路地裏。

B男は、誰にも見られないよう壁に背を預けた。小さな保冷ケースを持った男が近づいてくる。男は汚れた白衣のような服を着ていた。医療卸のふりをした、闇のブローカーだった。

受け渡しは簡潔だった。B男が用意した現金の封筒と引き換えに、「例の薬」が小さな保冷ケースごと手渡される。B男の腕には、先日闇病院で受けた処置の名残の、ごく小さな傷跡が残っていた。

彼は急いで病院に戻った。

数日が経った。

B女のベッドサイドには、形式上、「新しい点滴と投薬プランが導入された」という説明だけが掲示されている。しかし、その効果は劇的だった。

B女は、起き上がれる時間が目に見えて延びた。食欲が戻り、病室の中で笑う頻度が増えた。以前は光を嫌って閉めていた病室のカーテンは、終日開けられる時間が長くなる。B女はもう時間ばかり見ていない。窓の外の景色を、何かを探すように眺めるようになった。

B男とB女は、病院の中庭に出られるようになった。少し強い風が吹く日だった。

「ねえ、退院したらさ」B男は、太陽の光を浴びるB女を見て、弾むように話し始めた。「まず海に行こう。それから、働けるようになったら、二人で小さなカフェをやってみないか? 店の名前は――」

B女は目を伏せ、首を横に振った。「そんな先まで、想像してもいいのかな」

戸惑いと、かすかな罪悪感が彼女の声に混じる。だが、B男はそれを聞かずに、次々と未来の計画を提案した。B女は、そのひとつひとつに「うん」と答えていった。B男の殉教的な献身が、B女に「生きる希望」という最大のご褒美を与えていた。

二人が、病棟に戻るために階段を上っていた。

B女は前を歩いていた。その背中に見とれていたB男は、突然胸に手を当てて、階段の途中で一瞬だけ立ち止まった。軽い息切れ、そして胸の奥に走った、チクリとした鋭い痛み。

B女は気づかない位置にいた。B男はすぐに平然とした顔を取り戻し、何事もなかったかのように再び歩き出す。

彼はトイレに入り、鏡を見た。顔色は、以前よりもわずかに青白く見える。彼は、疲労のせいだと自分に言い聞かせた。

(これくらいなら、全然いい)

彼は、鏡の中の自分に、さも当然のように、その身体の変化を受け入れている気配を滲ませた。

夜。病室のベッドでB女が穏やかに眠りについたあと、B男は折りたたみ椅子にもたれかかって、静かに目を閉じた。

テーブルの上には、B女の未来の夢を叶えるために取り寄せた、将来の旅行パンフレットのコピーが一枚だけ。何度も読み返された折り目だらけのパンフレットは、消灯された照明の下で、白く光っていた。

昼間。

前のアパートより少し広くて新しい一室。壁は白く、真新しいエアコンが控えめに唸っている。

C男は、段ボールを運びながら、終始ハイテンションで部屋中を走り回っていた。

「やべえ! やっぱエアコンは最強だ! 人間、これがないと始まんねえわ!」

C女は嬉しそうに笑って、キッチンを触っていた。彼女もこの生活レベルの向上を望んでいたはずだ。だが、心のどこかで「この生活は持続可能か?」と、持続可能性の計算を始めていた。

新しいソファ、薄型のテレビ、オーディオ機器、そして山積みにされた服と靴の箱。

C男は新しいスニーカーのタグを、躊躇なく引きちぎった。パリッとした新品の匂いが部屋に充満する。

C男の腕には、小さな絆創膏の跡が貼られていた。C女がそれをチラッと見たが、C男は「ああ、これ? 転んだだけだって」と適当な理由で、いつものように大声で笑い飛ばした。

夕食は、高級なレストランで取った。料理は見た目も華やかで、店内は客の話し声で賑わっている。

C男はスマホを取り出し、料理やC女を夢中で撮りまくった。

「見てみろよ、これ! この一年で一番“リア充”してるわ〜。俺たちの投稿、絶対バズるって!」

C女もカメラに向かって笑い、最高のポーズを取る。しかし、カメラ越しではない一瞬、彼女は窓の外の暗い街をふと見ていた。あの闇病院の周辺の、静かで冷たい路地を思い出した。

夜が更け、新しいベッドに二人で寝転んだ。マットレスは分厚く、身体が沈み込む。

C男は、勢いで喋り続けている。「この金で、あと二回くらいは旅行行けるぞ。また行こうな」「次はもっといい店行こう。もっと“いいね”がつく写真撮るんだ」

C女は「うん」と答えつつ、天井を見つめていた。

(次は、何を、どれだけ削ったら、この生活を維持できるんだろう)

心のどこかで、彼女はすでに不吉な「割り算」を始めていた。この快感を持続させるには、命という名の資産を、計画的に消費し続けなければならない。彼女の瞳には、消費の向こう側にある、後が怖いという冷たい真実が、微かに映っていた。

真っ暗な部屋の中で、窓の外の街の光だけが、ぼんやりと差し込んでいる。C男の寝息は早いが、C女はまだ目を開けていた。その視線だけが、小さな不安を残して静かに夜に溶けていった。

休日の朝。D男は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

枕元には、健康診断の結果票が挟まれたファイルが置いてある。彼の健康への気遣いは、貧しい生活の中で得た、未来への唯一の貯金だった。

小さなキッチンからは、D女がコーヒーを淹れる、ゴトゴトという生活の音が聞こえてくる。パンと、安売りのソーセージと卵を焼く匂いが、すぐに部屋を満たした。テレビからはニュースではなく、生活情報番組が流れており、画面の中でレポーターが特売情報を熱弁している。

朝食を終えた二人は、メモを片手に安売りスーパーへ向かった。

スーパーの店内。二人は、熟練したハンターのように特売品を追いかける。

「今日の『特売』は、キャベツはまあまあだが、鶏肉のグラム単価がイマイチね」

D女は真剣な顔で値段と量を比べ、ポイントカードを鳴らして割引の恩恵を逃さない。D男は、カゴを持ちながらD女に耳打ちする。「そこは量より質だ。あっちの豆の方が腹は膨れるぞ」

彼らの会話には、時折、街の噂が混ざる。

「最近、周りで闇病院の噂また増えてない? 職場の奴もまた一人、急に豪遊し始めたぞ」D男が言った。

D女は、特売のポップを見ながら眉をひそめる。「命をポイント還元みたいに扱うの、なんかムカつくわ。あんな美談に釣られるなんて、本当にバカバカしい」

昼。買ってきた食材で、二人で簡単な料理をした。昨日の残りのカレーに、奮発して買った少し良いチーズを乗せる。たいしたものではないが、いつもより少し豪華な休日のご馳走だった。

テレビで映画配信を流しながら、二人はソファに並んで、皿を膝に置いて食べる。

D男は、スプーンでカレーを掬いながら、冗談っぽく言った。

「なあ、こういうダラダラした時間のために、ちゃんと長生きしてもらわんと困るんだ。俺の老後の世話係なんだからな」

D女は笑いながら、彼の腕を軽く叩いた。

「そっちこそ。寿命削って“尊い彼氏”にならないでね。私は、ダラダラ文句言いながら、一緒に年をとってくれる、そっちの方が私好みだから」

夜。歯を磨き、D男がベッドサイドでスマホのカレンダーを開く。来月、次の健康診断の日付に、D女が付けた小さな丸が付いていた。明日の天気と、仕事の開始時間を確認して、二人は電気を消した。

特にドラマチックなことは起こらない。彼らの愛は、何の波乱もなく、「明日も起きて、また同じように飯を食べて文句を言う」という前提で、静かに眠りについた。

真っ暗な部屋で、壁時計の秒針が、カチ、カチ、と音を刻んでいる。

その音は、誰かのために一気に燃やされた命の音ではない。誰かの人生から「ごっそり削られた時間」の音でもない。それは、誰もが持っている、“普通の時間”が、ただ等しく流れているだけの、静かな音だった。

出勤前の朝。古いアパートの部屋に、朝日が差し込んでいた。

A男は、布団から起き上がるのに時間がかかった。頭が重く、視界がわずかに揺れている。ようやく立ち上がったと思ったら、足元がもつれ、思わずテーブルの角に手をついた。

「大丈夫?」

湯気の立つマグカップを持ったA女が、キッチンから振り返る。彼女は最初、何気ない気遣いの言葉を言おうとした。だが、A男の顔色の悪さに気づき、言葉が喉につかえる。

A男はマグカップを掴み、無理やり笑って見せた。「ああ、ちょっと寝ぼけてただけ」

アパートの階段を下りる場面。

これまで何でもなかった段数だ。だが、A男は途中で手すりを掴んで立ち止まった。軽い息切れが、彼の胸を締め付けた。

A女は隣で、ゆっくりと歩幅を合わせようと気を遣っている。その気遣いが、A男には重荷だった。

「昨日ちょっと寝不足でさ」A男は、再び軽々しく笑って済ませた。このときすでに、彼は不調を隠すための嘘を、反射的に口にするようになっていた。

建設現場。作業中、A男は軽いめまいで、手に持っていた工具を足元に落とした。

「おい、顔色悪いぞ、大丈夫か」上司が、鋭い視線を向けながら声をかける。

「夏バテです」A男は、また笑って流す。だが、落とした道具を拾おうと手を伸ばしたとき、彼の手の震えが止まらないことに、彼は気づいていた。

休憩室の片隅で、彼はポケットからプラスチックのカードを取り出した。闇病院で渡された、簡素な診察券。名前はどこにも書いていない。彼は、その冷たいプラスチックの感触を、指でなぞった。

帰宅後の夜。夕食のテーブルで、A女は真面目な顔をしていた。

「ねえ、最近ずっと具合悪そうだけど、ちゃんと休めてる?」A女は、意を決して切り出しかけた。

その瞬間、A男の視線が、ほんの少しだけ逃げた。その逃避をA女は捉え、言葉が喉につかえて続かない。A男は、逆に言葉を継いでしまった。

「ああ、ちょっと忙しかっただけだからさ。大丈夫、大したことないよ」

彼は、A女の優しさや心配の言葉を受けると、「愛する彼女に心配をかける」ことと、「嘘をついている」ことへの二重の恐怖で押し潰されそうになる。彼は本当は、「怖い」と恋人の前でさえ、まだ打ち明けられなかった。

食後、A女が洗い物をしている背中を、A男はソファからぼんやりと見ていた。

テレビでは、健康情報番組が流れている。「仕事帰りの手軽な健康法」「一日の運動のススメ」。画面の明るい映像は、A男が自分で手放した“健全な未来”の象徴のように見えた。

A男はその画面を見なかった。彼は、自分の手の甲の血管の浮き具合だけを、じっと見つめていた。その血管の裏で、「少しだけ」の軽さが、すでに彼の日常と愛を、音を立てずに壊し始めているのだった。

病院の廊下。

B男は、いつものようにB女を車椅子で連れて、検査室へ向かっていた。B女の容体は奇跡的に改善し、彼女自身が「検査結果が楽しみだ」と、明るく話している。

しかし、廊下の中ほどで、B男の足が突然もつれる。彼は、片膝をつくようにその場に倒れ込む。車椅子のブレーキがうまくかからず、B女はわずかに前へ滑る。

「Bさん!」

近くにいた看護師が慌てて駆け寄る。B女は、倒れたB男の顔を見て、一瞬呼吸を忘れた。彼の顔色は、ここ数日で見たことがないほど青白かった。

B男は、検査室のベッドで横になっていた。

心電図モニタに付けられているのは、B男の胸。点滴を受けているのもB男の腕。B女は、ベッド脇の椅子に座り、その光景を呆然と見つめていた。

(この検査風景は、いつも私が受けていたものだ)

見慣れた検査器具。見慣れたベッドの硬さ。しかし、それが自分ではない愛する相手に施されているという事実は、彼女の心を容赦なく締め付けた。

「最近なにか特殊な治療を受けましたか? 急に心臓に負担がかかっているようですね」

医師や看護師が、B男に尋ねる。B男は一瞬だけ口をつぐみ、曖昧な笑みを浮かべた。

「いえ、持病とかじゃないと思います。ちょっと疲れただけです」

検査後、二人きりの時間。

B女は、窓際の椅子に座り、B男が横たわるベッドを見据えた。彼女の顔には、安堵ではなく、恐怖と嫌悪が混ざり始めている。

「ねえ、正直に答えて」B女は、震える声で切り出した。それは、怖くて聞きたくなかったことを、聞かざるを得ないという切羽詰まった声だった。

「私のために、何かした?」

B男は、それを責められているとは思わなかった。むしろ、愛が認められたのだと解釈した。

「やっと言ってくれたね」

彼は嬉しそうに笑った。その笑いが、B女の胸に刃のように突き刺さる。

B男は静かに語る。

「君の治療に必要な物をもらえる場所があってね。俺の寿命がちょっと減るだけで、君が生きられるなら、当然でしょ。俺にとっては、これこそが愛の完成だ」

B女は、途中で「やめて」と言いかけて、自分の手で口を押さえた。彼の顔には、誇りと満足感が満ちている。だが、B女の瞳には、その自己満足的な献身に対する、深い絶望と嫌悪が混ざり始めていた。

B女は再びベッドに戻され、B男はベッド脇の椅子に座る。

二人とも口を開かず、ただ天井を見上げていた。同じ方向を見ているのに、B男は愛の完成という美談を、B女は愛という名の重すぎる呪いを、まったく違うものを見ている状態で、時間だけが静かに流れていった。

朝。C男は、新しいアパートの洗面台の前で歯を磨いていた。

鏡に映った自分を見て、彼はふと二度見した。こめかみのあたりに、昨日はなかったはずの、はっきりした白髪が数本見えた。そして、口の端から顎にかけて、前より深くなったほうれい線。

彼は最初、「寝不足かな」と笑い飛ばそうとしたが、その笑いは鏡の中でぎこちなく歪んだ。自分の顔が、まるで別の誰かの顔に見えた。

休日、彼は久しぶりに旧友数人とカフェで会っていた。

同年代の友人たちは、仕事の愚痴や、週末の予定を話し、普通の顔つきで笑っている。だが、C男だけが明らかに違っていた。目の下の影が濃く、話すたびに首の皮膚のたるみが、わずかに目立つ。

「お前、急に老けたな」「ブラック企業にでも入ったのか?」

冗談半分に言われ、C男は「ちょっと遊びすぎただけだよ」と笑って返した。

グラスを持つ手が、テーブルに戻るまで間があった。その間の沈黙と手の重さが、彼自身の内側に、小さな警告音のように響いていた。

新しいアパートの階段。

スーパーの袋を提げて上がっている最中、急に心臓の鼓動が、ドクン、ドクンと異常な速さで早まった。膝が笑い、一段で足が止まる。呼吸がうまくできない。

上の階から、C女の不安そうな声が響いた。「大丈夫? どうしたの?」

C男は手すりを掴み、必死に息を整えながら、「ちょっと飲みすぎただけだ」と言い訳をした。だが、息の整い方が、いつもの彼の回復とは違っていた。肺の奥まで空気が届かないもどかしさ。

夜。C女が先に新しいベッドで眠りについたあと、C男は天井を見ながら、暗闇の中で自分の手を握りしめた。

その手の甲の冷たさに、彼はびびった。肌の弾力が、まるで失われているように感じた。

「別に長生きなんてしたくねえし……」

C男は、思わず口に出しかけて、「いや、嘘だ」という言葉にぶつかって、身体が硬直した。

これまで軽口で否定し続けてきた「生きたい」という本能が、肉体の急激な変化に直面して、制御不能な力で押し出されてきたのだ。

心の中でだけ、「この人ともっと一緒にいたい」という、これまでの彼の価値観とは全く異なる、「命の重さ」を感じる言葉が形になってしまい、彼は自分で驚いていた。

隣で眠るC女の横顔に、窓の街灯の光が差し込む。

C男は、彼女に触れそうで触れない距離に手を置いたまま、目を閉じられずにいる。彼が求めた豪華な生活は、今、彼自身の「未来」と引き換えに手に入れた代償として存在している。その代償を、彼は初めて、本能的に理解し始めていた。

夕方。D女が職場の休憩室でスマホをチェックしていると、友人グループチャットに通知が届いた。

共通の知り合いが倒れて、緊急搬送されたという。すぐに詳細を確認すると、その知り合いは、以前職場で「寿命売買の噂をしていた側の人間」だったと分かった。

D女の顔色が変わった。彼女の指先が、チャットの文字をなぞる。ニュースや噂話として処理していた「殉教ロマンの結末」が、身近な現実として迫ってきた。

D女は、倒れた知り合いの容態を確認するため、D男の帰宅を待たずに病院へ向かった。

待合室。ぐったりした顔で座っている、知り合いの家族や恋人らしき人々がいた。D女は、その光景を遠くから見つめることしかできない。

その場にいた友人の肩を撫でる間、医師の説明の断片がD女の耳に飛び込んできた。

「年齢に比べて、内臓の状態が著しく老化している」「何か特別な治療歴はありますか?」

D女は何も言えなかった。ただ、質問の裏にある真実と、目の前の人々の絶望だけが、彼女の心に重くのしかかった。

夜。病院からの帰り道。街灯が少ない歩道を、二人で並んで歩く。車の音だけが遠くでしている。

D女は、急に立ち止まった。

「ねえ」D女の声は、普段の軽口トーンとは全く違い、硬く、重かった。「もしさ、あんたが重い病気になったら」

D男は、立ち止まったまま、彼女の次の言葉を待った。

「私、多分、今日見たあの人みたいに、あそこに行きたくなると思う」

それは、「寿命を売買しない」という二人の合意を、極限状態で一度裏切るかもしれないという、D女の正直な自己告白だった。

D男はすぐには答えず、しばらく無言で歩いた。コンビニの灯りが視界に入り、彼は立ち止まる。

D男は、乱暴な口調で言った。

「そん時はそん時で、全力で止めるわ」

彼は、コンビニの灯りに照らされた彼女の顔を見た。

「でもさ、“いつかそうなるかも”ってビビって、今の寿命前借りするのは、マジで馬鹿らしいと思ってる」

彼の言葉は、説教ではない。あくまで、「最も健全で幸福に近い」という彼らの哲学の、再度の表明だった。

「怖くなるのは、別にいい」D男は続けた。「怖いって言うのも、たぶん一緒にやる。俺たち、チームだろ?」

「でも、寿命を一気に燃やすのは、どう考えてもコスパ悪い」

D女は、少しだけ力が抜けたように笑った。

二人はコンビニで買った、安いアイスを片手に、また並んで歩き出す。道端の水たまりに、街灯と二人の足だけが映る。その水たまりを通り過ぎたあと、水面はすぐに元通りの静けさに戻った。

Dカップルの愛は、身近な破滅を目の前にして揺らいだ。しかし、彼らは「怖さ」を認め合いながらも、「使わない」という約束を、より強固な愛の形で再確認した。

簡素な病室。シーツは白く、消毒液の匂いが鼻につく。

A男はベッドに横たわり、点滴を受けていた。身体に走る鋭い痛みはない。ただ、鉛のような重さの、慢性的な消耗が彼の身体を支配している。

「年齢に合わない消耗が見られますね」

担当医は、カルテを見ながら淡々と告げた。「明確な原因は不明ですが、しばらくは激しい労働は控えてください」

医師は、闇医療には一切触れない。触れる必要もない。A男の身体が、「不当な取引」の結果を示していた。

見舞いに来たA女は、ベッド脇の椅子に座り、膝の上で両手を組んだまま、しばらく口を開かなかった。病室に、重い沈黙が流れる。

先に口を開いたのは、A男だった。彼の声は、自責の念で震えていた。

「誕生日の時、ほんとはもうちょいしんどかった。あの時、薬を打ったばかりでさ」

彼は、A女の目をまっすぐ見つめ、告白した。「でも、お前が喜んでる顔見たら、なんか言えなかった」

A女は、静かに頷いた。

「あれ、嬉しかったよ」

彼女は、A男の予想とは異なる言葉から切り出した。「生まれてきてよかったって、本気で思った。でも、それとこれとは別」

A女は、A男の疲弊した手を取った。「あなたが倒れるのは、私は嫌だ。そんなプレゼントはいらない。あなたがここにいることが、私にとっては一番のプレゼントなんだよ」

A男は、「もうあそこには行かない」と約束した。

その言葉は、単なる口約束ではなかった。それは、今後の生活そのものを変えていく前提での、重い誓いだった。

彼は、具体案として、仕事を少し軽い作業の部署へ移る決意を伝えた。給料は下がる。だが、身体の消耗を防ぐことが優先だ。副業やバイトで無理して稼ぐ方向はやめる。欲しがっていた高価なものは、「一気に」手に入れるのではなく、「少しずつ貯めて買う」ことにした。

A女も、その決意に応える。「私も我慢する側になる。あなたが寿命削ってまで用意してくれる物は、もういらない」

彼女は続けた。「その代わり、時間かかってもいいから、一緒に貯めたい。その貯める時間が、私たちの命になるから」

季節が変わった頃。

二人は、前より慎ましめな暮らしを再スタートさせていた。A男は以前より軽い作業の仕事に移り、給料は下がったが、その代わりに顔色は良くなっている。

A女のカバンには、「次の誕生日プレゼント貯金」と書かれた小さな封筒が、大切に挟まっていた。目標額は、以前A男が手に入れたプレゼントの半額以下だ。

休日の夕方。二人は、小さな公園のベンチで並んで座っていた。A女の手元には、まだ封も開いてない安いお菓子。A男がそれを二つに割り、半分こにする。

A女は、去年のプレゼントの話をしながら、最後に笑った。

「来年は、一緒に積み立てたやつにしよ。二人で目標額達成するの、なんか楽しいよね!」

“もう二度と命を削らない”という決意が、静かな日常の形で固まっていた。A男の身体に残った後遺症は、ロマンの痛い傷跡として残ったが、二人の関係は、その傷跡の上で、「ふつうの愛」をやり直すために努力し続けていた。

病院の特別室。

部屋には、薬と消毒液、そして薄い死の匂いが充満していた。

意識は途切れ途切れ。病室のベッドの上で眠るB男の呼吸は、すでに荒い。彼の内臓の状態は、年齢に比べ著しく老化しており、医師は遠回しな言葉で、手の施しようがないことを伝えたばかりだ。

B女は、B男の痩せた手を握っている。彼の指先は氷のように冷たい。

B女は、その手を握りしめながら、言葉を持たなかった。彼の耳元で「ありがとう」と言うことは、彼の自己犠牲を肯定することになる。かといって「許さない」と言えば、彼が命を懸けて証明した愛を、最後の瞬間に否定することになる。

彼女は、どちらの言葉も選べず、ただ、無言のまま彼の最期を見届けた。

小さな葬儀場。遺影の中のB男は、まだ二十代の若さで、穏やかに笑っている。

「彼は本当に君のために生きて、君のために死んだんだね」

親族や友人が、祭壇の前で、口々に美談を語る。彼らの言葉に、悪気は一切ない。純粋に、「崇高な愛の結末」を目撃したことへの感動があるだけだ。

B女は曖昧に笑い、頭を下げ、感謝を示すしかなかった。内心では、「私はそんなこと望んでいなかった」「私が欲しかったのは、あなたの隣にいる時間だけだった」と、言葉にならない叫びを繰り返していた。彼の死が、彼女にとって「救い」ではなく「重荷」であることを、誰にも打ち明けられない。

数ヶ月が経った。

B女は、一人暮らしを再開した部屋のソファで、ぼんやりとテレビをつけていた。画面には、「寿命を差し出して恋人を救った青年」の特集が、再び再編集されて流れている。モザイクがかかっているものの、イニシャルや病院のシーンの断片から、それがB男の話だとすぐに分かった。

ナレーションは、感傷的な音楽に乗せて、平然と語る。

「彼の愛は、今も彼女の心の中で生き続けています。彼が彼女に与えたのは、生きる時間と、永遠の愛の証明でした」

B女はリモコンを握り締めたまま、テレビを消すかどうか迷う。彼女の心の中で、「永遠の愛の証明」とは、「永遠の罪悪感」を意味していた。

結局、彼女は途中で電源を落とした。画面は真っ暗になり、部屋の静けさが戻る。

空のカップを、B女は両手で包み込んだ。テーブルに肘をつき、背中を丸めた。

彼女の胸の中を巡っているのは、たった一つの、言葉にならない思いだった。

(あなたは後悔していないのかもしれない。でも私は、ずっと後悔してる)

窓の外には、普通に暮らす人々の、穏やかな生活の灯り。キッチンの光、テレビの光、スマホの光。B女は、その光景を背中に受けたまま、顔を上げない。

数年が経った。

C男は、三十代前半の年齢ながら、中年を通り越して初老に近づいていた。彼はすでに杖が必要で、歩くときには、地面を踏みしめるように慎重に運ぶ。

隣を歩くC女は、彼と同年代の見た目のまま。二人で並んで歩くと、親子か、年の差のあるカップルに見える。

病院での検査結果は、数年前から変わらない。

「年齢に比べて、老化の進行が早すぎる」医師は、モニターのグラフを指差しながら、淡々と告げた。「治療というより、現状維持の方向で考えましょう」

C男は静かに頷いた。彼の顔には、驚きはない。ただ、「やっぱりな」という諦めに近い穏やかさがあった。かつて「退屈」を恐れた彼の顔には、焦燥感は消え失せていた。

病院の帰り道。二人は、川沿いの遊歩道のベンチに腰掛けた。午後の日差しが、C男の白髪を照らしている。

「前はさ、“どうせ長生きしねぇし”とか言って、へらへらしてたよな、俺」C男は、乾いた声で言った。

彼は、自分の膝に置いた、シワの増えた手をじっと見た。「今の俺がそれ聞いたら、ぶん殴るわ。本当に馬鹿だったと思う」

C女は笑ったが、瞳がわずかに潤んでいた。彼女は、かつての派手な生活を思い出している。

「あの時、本当に止めたかった。止めきれなかった自分も同罪だと思ってる」C女が、小さな本音を吐き出した。

二人は、虚栄心と消費によって歪んだ関係だったが、この残された時間の中で、初めて本音を少しずつ吐き出し合っていた。

C男は、遠くの対岸を見つめた。

「もう長生きはできねぇだろうけどさ」

彼は、杖を軽く握りしめた。「残りの寿命、前みたいな無茶な使い方はしたくない。せっかくだから、ちゃんと“暇”も味わいたい」

「いいじゃん」C女は、彼の肩に頭を寄せた。

「老夫婦ごっこ、前倒しでやろうよ。私が先に皺だらけになる予定だったのに、順番が狂ったわ」

彼女は冗談めかして彼の肩を叩いた。その手に込められた力は、優しく、そして諦めに満ちていた。

ベンチに座って、二人はコンビニコーヒーを分け合う。遠くで子どもたちが遊んでいる声が聞こえた。

C男の顔には、早すぎる老いという命を削った代償が刻まれている。だが、この瞬間、彼の目には、焦りも虚栄心もなかった。彼はコーヒーをゆっくりと味わい、遠くで遊ぶ子どもの姿を見つめている。

「今この瞬間だけは、ちゃんと生きてる」

二人の間の静けさが、彼らが選んだ「短い余生」の、静かで諦めに満ちた美しさを完成させていた。

十年以上が経過した。

D男は、髪に白髪が混じり、背中もわずかに丸くなる。D女も、目尻や手の甲には、生活の歴史を物語る皺がある。彼らが削ったのは、寿命ではなく、安売りの惣菜の脂身だけだった。

二人はクリニックの待合室で、健康診断の結果を待っていた。

壁には高血圧、糖尿病、骨粗鬆症といった、老いと戦うためのポスターが貼られている。D男は、「お互いの結果について軽口を飛ばせそうな」雰囲気で、椅子に寄りかかっていた。

待合室のテレビでは、相変わらずニュースが流れている。

「違法な医療行為で寿命を削り、恋人を支えた男性の物語」

かつてのB男のケースなのか、別の誰かなのかは不明だ。ナレーションは、変わらず、「その愛は、今も語り継がれて〜」と美化している。

D男は、その美談を見て、ため息に近い笑いをこぼした。

「まだやってんのか、この手の美談は」

彼は、椅子に深く沈み込み、愚痴をこぼした。「命賭ける愛とかさ。こっちは血圧と腰痛と戦いながら、毎日一緒に飯食ってんだよって感じだな」

D女も笑って、D男の腕を軽く叩いた。

「ね。保険金殺人のドラマに『感動した』って言ってるのと、大して変わらないわよね」

彼女は、ふと真面目な声になった。

「でもさ」D女は、D男の白髪交じりの顔を見た。「長生きしてくれてるだけで、私は十分だよ。一緒に病院来て、一緒に薬飲んで、文句言いながら寝てくれる方が、千倍ありがたい」

それは、二人が長年かけて築き上げた、最も地味で、最も強い愛の結論だった。

診察が終わり、薬局の袋をぶら下げて、二人はゆっくりとした足取りで帰り道を歩く。

途中のスーパーに寄り、D女は安売りのシールが貼られた総菜を迷わずカゴに入れた。D男は「塩分控えめとか書いてあるけど、この色、絶対嘘だ」といつものようにぼやく。

「じゃあ明日は散歩増やしましょうね」D女は、そう言って笑う。

横断歩道を渡るとき、D女は自然にD男の腕を掴んだ。D男は「まだ転ばねぇよ」とぶつぶつ言いながらも、彼女の歩幅に合わせる。

信号が青から赤に変わる直前、二人は横断歩道を歩き切った。

道の向こう側で、二人の背中は、ゆっくりと小さくなっていく。彼らの歩みは、ABCの燃えるような愛に比べれば、あまりにも遅い。しかし、彼らの人生は、着実に、確実に、前に進んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Trendy Treading Trangedy 伊阪 証 @isakaakasimk14

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る