桃先生のハートフルカルテ

第1話 変わらない看板、変わった背中

朝七時半。

須之内デンタルクリニックの前を、

通学途中の子どもたちが駆け抜けていく。


その様子を、

桃は診療室の窓からぼんやりと眺めていた。


「……大きくなったなあ」


白衣の袖を直しながら、

ふっと笑みがこぼれる。


今までと同じ場所。

同じ看板。

同じ木のドア。


でも、ガラスに映る自分の姿は、

確かにあの頃とは違っていた。


カルテの名前欄には、

須之内 桃 と印字されている。


結婚して苗字が変わったとき、

何度もこの文字に目が止まった。


「医院名、変えた方がいいかな……」


そう言った桃に、

夫の貴大は少し考えてから首を振った。


「ここは“須之内”でいいんだよ。

 梅さんの時代からの人にとって、

 この名前は“安心の印”だからさ」


その言葉に、

桃は胸の奥がじんわりと温かくなった。


(……この場所は、私だけのものじゃない)


開院と同時に入ってきたのは、

白髪混じりの男性だった。


「桃ちゃん……いや、

 桃先生、おはよう」


佐久間正雄(78)。

祖母・梅の代から通っている患者だ。


「おはようございます、佐久間さん」


佐久間は診療椅子に座りながら、

しみじみと看板を見上げた。


「いやぁ……

 名前変えなくて正解だったなぁ。

 この看板見ると、今でも梅先生の声が聞こえる」


桃は、

胸の奥で祖母の笑顔がふっと浮かぶのを感じた。


「“歯は一生の相棒だからね”って、

 よく言ってましたよね」


「ああ。

 怒られるのが怖くてなぁ」


二人は、声を合わせて笑った。


午前中の終わり、

診療室に入ってきたのは

若い父親と男の子。


「先生……覚えてます?

 僕、小学生の頃

 ここでよく泣いてたんです」


名前を聞いて、桃は目を見開いた。


「……え?

 もしかして、杉原陸くん?」


「はい!

 今は、陸“くん”じゃなくて、

 父親ですけどね」


横でそわそわしている男の子を、

陸は優しく抱き寄せた。


「この子、歯医者が怖くて……」


桃は、十五年前の夏祭りを思い出し、

そっと微笑んだ。


「大丈夫。

 ここはね、“泣いてもいい歯医者”だから」


その言葉に、

男の子の肩が少しだけ下がった。


昼休み。

桃はスマホを取り出し、

一枚の写真を見つめる。


そこには、

娘・菊が描いたクレヨン画。


「ママのしごと」

と書かれたその絵には、

白衣を着た桃が、

たくさんの人に囲まれて描かれていた。


(……この子にとって、

 私はどんな背中に見えてるんだろう)


そのとき、

貴大から短いメッセージが届く。


「菊、今日は給食おかわりしたって。

夜は一緒にご飯食べよう」


桃は、小さく息を吐いて笑った。


「……よし、午後もがんばろ」


夕方。

診療室の灯りが、

ゆっくりとオレンジ色に染まっていく。


最後の患者を見送りながら、

桃は看板を見上げた。


「須之内デンタルクリニック」


そこには、

祖母・梅の時間、

母・桜の祈り、

そして今の自分の人生が、

重なり合って存在している。


「……ただいま、って感じだね」


誰に言うでもなく、

桃はそう呟いた。


そして白衣を整え、

また明日のカルテを用意する。


ここは、

変わらない看板の下で、

人の人生が静かに続いていく場所。


桃先生の“ハートフルカルテ”は、

今日、また一枚増えた。

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桃先生のハートフルカルテ @nobuasahi7

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