第4話 触れない愛のイデア

彼は2013年の秋を最後にライブ活動を停止した。

そして、彼のブログは、ある日、跡形もなく消えていた。


しばらくして、沙羅は別の場所で、よく似た文体を見つけた。名前は少しだけ違っていて、偶然だと言い切るには、あまりにも似すぎていた。

そこに並んでいたのは、明らかに病んだ文章だった。孤独や後悔を、整理しきれないまま並べたような言葉たち。


沙羅は名乗らなかった。驚いたけれど、手を差し伸べたいとは思わなかった。ただ、読むだけの日々が続いた。


彼が新しい作品を公開した日、沙羅は短いコメントを残した。匿名で、作品そのものを褒める言葉だけを書いた。

返事はなかった。

それで十分だと思った。

彼がまだ書いていることは、確かめられたから。



*****


2016年。


オフィスの昼休み。沙羅は気晴らしに外へ出た。

地下通路で、携帯が鳴った。非通知設定。胸騒ぎがして、即座に出た。

芯がありよく通る、あの切実な声。電話の主は、彼の姓を名乗った。

沙羅はその場に崩れ落ち、しゃがみ込んだ。

「え、どうしてたの? どこにいたの?」

口をついて出たのは、責める言葉ではなく、安否を気遣う言葉だった。

「やだ、なんだか家出息子に言ってるみたいね、私」

彼は少し黙った後、「どうして非通知なのに出るの?」と呆れたように言った。

「大切な用事かもしれないと思ったから」


彼は静かに近況を語り始めた。

彼の母親が亡くなったことも。


それは、もうどこかで読んだ内容だった。

沙羅は、初めて聞いたようにも、

すでに知っているようにも、

どちらとも取れる返事をした。

彼はそれ以上、何も確かめなかった。


「また会いましょう」

短い会話の後、そう言って、彼は電話を切った。


初めての電話だった。沙羅は彼のブログへのメッセージしか連絡手段がなく、それは既に絶っていた。けれど、ライブに通い始めた頃沙羅が彼に渡していた電話番号を、彼はまだ持っていてくれたのだ。


沙羅はしばらく放心してうずくまっていた。


どのくらい時間が経ったのか、平静を取り直して立ち上がり歩き出すと、とたんに涙が溢れてきた。

ふふ。なんだかおかしいね。私、完全に彼の母親だった。

あの残酷な拒絶も、彼の孤独の裏返しだったのかもしれない。

いいよ、いつでも戻ってきて。

それまで私は、私の人生を生きているから。



*****


2019年。


沙羅は日常の合間に、彼のブログを覗くことが習慣になっていた。

あれから彼はライブ活動から離れて暮らしながら、時々思い出したように詩を作っているようだ。


ある日、彼が新しい自作の詩をブログに投稿していた。

それは、やっと巡り会えた運命の人への遅すぎる告白と題されたものだった。その人を前にして、うつむいてうまく話せなかった様子が綴られていた。

沙羅の脳裏に、あのライブハウスの光景がよみがえる。まともに彼の顔を見られず、ただうつむいて、その声だけに聴き入っていた自分の姿。


ああ、そうか。

彼もまた、私と同じ気持ちだったのかもしれない。臆病さゆえに、私と同じ場所でうつむくしかなかった。

言葉にはできなかったけれど、私たちは確かに同じ輪郭を抱えていた。

沙羅は静かに微笑んで、そっとブログを閉じた。


*****


終始、この関係には現実感がなかった。

一度も彼に触れていない。手をつないだことさえ、一度もない。

なのに、こんなにも深く愛している。

それはまるで、概念と恋愛しているようだった。

彼もきっと、同じだっただろう。

肉体や、性別や、生活という現実の壁に阻まれながら、私たちは魂の波長だけで結びついていた。

どうしてこんなことになってしまったのか。

なぜか波長が合ってしまった、そんな自分が不思議でたまらない。

でも、もう迷いは消えた。

私たちは、いつかまたどこかで、必ず会える。

そう信じている。

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