第3話 拒絶

あれから、彼からの返信は来ない。


何か誤解があったのかもしれない。あの沙羅の「ごめんね」のメッセージが、何か気に障ったのだろうか。

タイミング的にはそれしか考えられない。

沙羅は誤解を解きたくて、そして何より彼の歌声への渇望を抑えきれず、その後も何度もライブに通った。

小さなライブハウスで、いつも彼は公に見せる顔を崩さず、沙羅にも完璧な微笑みで短く会話した。


沙羅は、彼の声を聞くたびに涙を堪えることができなかった。瑞々しく、甘く、懐かしい声。

ライブハウスの隅の席で、うつむき加減に、彼の発する微かな息遣いひとつ聞き逃さないようにたた音だけに集中した。彼の歌の未熟な部分までもが彼の生きている切実さを映し出していて、彼の声が届くたびに、沙羅の魂の空虚な部分が満たされていくのを感じた。


彼からの返信がないことが気がかりなのと同時に、沙羅には彼のブログを見た当初から感じていた違和感があった。

ライブ告知の合間にアップされる、鍛え上げた筋肉を誇示する自撮り写真。そして、そこに並ぶ男性たちからの親愛に満ちたコメント。

それは、幼い頃に知っていた彼の様子とはあまりにもかけ離れた、彼が選んだ新しい居場所の形だった。


沙羅と彼は子供の頃に出会った。長女で世話好きな沙羅にとって、母子家庭で育ち人懐っこいけれどどこか繊細な彼は、放っておけない小さくて尊い光だった。

お互いの淡い好意を確認し合い、ほどなく、沙羅の転居で二人は離れ離れになり、それ以降21年間一度も会うことはなかった。でも、離れ離れになってからも、沙羅の人生の選択はいつも彼がいるはずの東京という座標軸に縛られていた。それでも、2人は別々の道を歩んだ。


沙羅は、自分が彼の恋愛対象ではないことをようやく悟った。いや、再会当初から薄々気づいていたのだ。彼が見せる強すぎる鎧と、ふとした瞬間の拒絶の色に。

それでも、彼のことが、彼の声が、頭から離れなかった。



ある秋の日のライブで、彼が歌った自作の曲の歌詞を聞いて、沙羅は耳を疑った。

「もう謝らなくてもいいよ」

それは、あの日沙羅が彼に送った「ごめんね」という言葉への、静かなアンサーだった。

彼からは何の返信もないまま、沙羅とのやり取りが歌詞に昇華されていたのだ。

沙羅は悟った。

私の放った「ごめんね」は、やはり彼にとって決定的な言葉だったのだ。彼は、私の言葉を「別れの予感」と深読みし、私のために身を引く決意を固めたのかもしれない。あるいは、私を、彼の複雑な現実から遠ざけるために。その歌は、沈黙を貫く彼からの、自己犠牲的な受容の表明だった。


その後も、沙羅は彼のライブに通った。

徐々に彼は沙羅への拒絶の態度を隠そうともしなくなり、言葉を交わすこともなくなった。再会から1年半の月日が流れていた。


このままでは終われない。きちんと真実を確認しないと、私はこの先に進めない。沙羅は渾身の勇気を振り絞り、メッセージを送った。

「何か誤解があるかもしれない。一度、きちんと説明させてほしい。次の土曜日、あなたの地元の駅で待ってるから、何時でもいいから、会いにきて」


沙羅はその日、一日中、改札前で待った。

ひんやりした空気、がらんとした駅の改札、通行人はまばら。春の日差しは明るく、風は強く、沙羅は髪を抑えながら、彼が現れるであろう方角を気にしながら一日を過ごした。

しかし、彼は来なかった。


もう、十分だよね、やることはやった。もう彼のことは諦めよう。沙羅がそう決意した矢先、彼のブログが更新された。

「しつこくメッセージを送ってくる人がいて迷惑している」

「ストーカーじみていて気味が悪い」

「友人とメッセージを見て笑っている」

その言葉を見た瞬間、沙羅の目の前が真っ暗になった。彼に笑いものにされていたなんて。沙羅の心は完全に砕け散った。


そのあと、ある日静かに彼のブログは消えていた。

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