禁域のコスモス

ウムラウト

禁域のコスモス

【第二章 山神社縁起】(『●●地方郷土誌 第三巻 神社仏閣編』昭和9年刊行)より抜粋


 当村の鎮守たる山神社は、村の東方三里余りの霊峰・星哭ほしなき山の頂に鎮座する。その創建は古く、社伝によれば平安末期に遡るとされる(中略)

 延久年間(1069〜1074年)の頃、この地方一帯に原因不明の疫病が流行し、老若男女を問わず次々と倒れた。病に罹りし者は激しく嘔吐し、下し、髪は抜け落ち、皮膚には紫の斑が現れ、やがて息絶えた。薬師も祈祷師も為す術なく、村々は死者で溢れ、葬る者さえ足りぬ有様であったという。

人々は「禍津神(まがつかみ)の祟りなり」と恐れ、都へ使いを送った。

 時の陰陽頭・安倍季房は占いの結果、「天より降りし疫神が星哭山に宿りて、その毒気を撒き散らしている」と告げた。朝廷は勅命により、大内裏神祇官に仕える神官・藤原清継を当地に遣わした。

 清継は村人を率いて星哭山に登り、山頂にて七日七晩の大祓と鎮魂の神事を執り行った。最終日の暁、清継の奏上する祝詞が終わると同時に、天より神鳴りのような轟音が響き、光り輝く何物かが地に堕ち、やがて地中深く沈んでいったという。清継は「神は封じられた。しかし永劫に眠らせるためには、この地に社を建て、代々祈りを絶やしてはならぬ」と言い残し、都へ帰っていった。

 村人たちは山頂に社殿を建立し、清継の教えに従い毎年祭礼を欠かさなかった。また、神を慰めるため、社殿の周囲には秋桜草(コスモス)を植えた。この花は明治の頃に西洋より渡来したものであるが、言い伝えでは既に平安の昔から境内に咲いていたとされる。おそらくは何らかの野草を指していたものが、後世コスモスに置き換えられたのであろう。

 以来、この地に疫病が流行することはなかった。


 村人は代々「山の神を怒らせてはならぬ」と言い伝え、山頂への入山を厳しく制限してきた。特に社殿の周囲に咲く秋桜草の花は「神の庭」として神聖視され、これを踏むことさえ禁忌とされた。

 現在の神職は志水家が世襲しており、先代志水龍山翁によれば「神とは畏れ敬うべきもの。決して怒らせてはならぬ。さもなくば再び禍いが降りかかるであろう」との言葉を残している。

 なお、山神社本殿は昭和54年1月に倒壊し、現在は山麓の拝殿のみが残る。




   * * *




 秋晴れの空の下、桐島慎吾は高速道路を西へと走らせていた。

 助手席には取材用のカメラバッグとボイスレコーダー、そして分厚い資料の束が無造作に置かれている。バックミラー越しに見える東京の高層ビル群は、もうすっかり小さくなっている。窓を少し開けると、都心とは明らかに違う、冷たく澄んだ空気が流れ込んできた。十月も半ばを過ぎれば、山間部はもう冬の気配を帯び始める。桐島の吐く息は白くはないが、肌を刺すような冷たさが、季節の変わり目を告げている。


 桐島慎吾、35歳。オカルト専門誌『深淵』の記者として、これまで数々の心霊スポットや都市伝説を取材してきた。大学時代は文化人類学を専攻し、民俗学にも傾倒していた。卒業後は大手出版社への就職も決まっていたが、土壇場で蹴って今の編集プロダクションに飛び込んだ。

 理由は単純だった。本物の不思議に触れたかったのだ。安定した給与と社会的地位よりも、未知なるものへの探求心が勝った。両親は反対したが、桐島の決意は変わらなかった。


 もっとも、十年以上この仕事を続けてきて、本当に説明のつかない現象に出会ったことは、正直なところ数えるほどしかない。大半は勘違いか、作り話か、あるいは精神的に不安定な人々の妄想だった。

 それでも桐島はこの仕事が好きだった。人々が恐怖し、畏れ、信じようとするものの中に、人間の本質が見えるような気がしたからだ。迷信や伝説は、時に科学や論理よりも雄弁に、人間の心の深層を語ってくれる。

 今回の取材対象は、昭和五十年代に某県の山間で起きた連続変死事件だ。


 きっかけは三ヶ月前、古書店で偶然手に入れた一冊の本だった。神保町の路地裏にある、埃っぽい古書店。店主は無愛想な老人で、客が来ても挨拶もしない。

 だが、その店には時折、他では見つからない珍しい本が紛れ込んでいる。『昭和の未解決事件』というタイトルの、自費出版らしき粗末な装丁の本。著者は元地方紙記者だという。

 その中に、わずか数ページだけ割かれていた記事があった。


「星哭村連続変死事件」


 昭和54年から55年にかけて、人口200人ほどの小さな村で、30名以上が原因不明の症状で死亡した。症状は激しい嘔吐、下痢、全身の脱力、脱毛、そして皮膚に現れる紫色の斑点。

 病院に運ばれた者もいたが、医師たちは病名を特定できなかった。血液検査も、尿検査も、あらゆる検査を行ったが、既知の病気には当てはまらない。ある医師は「急性の何らかの中毒症状」と診断したが、何の毒物かは分からなかった。


 奇妙なのは、患者たちの多くが口を揃えて「山の祟り」を訴えたことだ。村の守り神を祀る神社の本殿が、昭和54年の冬に突然崩壊したのだという。村人たちはそれを不吉な前兆と受け止め、恐怖した。そしてその恐怖は現実のものになった。春から夏にかけて、次々と人が倒れていったのだ。

 保健所も警察も調査に入った。だが、結局原因は特定されないまま、事件は忘れ去られていった。当時の新聞記事を調べても、わずかな記述しか見つからない。「某県山間部で原因不明の病気流行」という短い記事が、地方紙に小さく載っているだけだった。テレビのニュースでも取り上げられた形跡はない。まるで、誰かが意図的に報道を抑えたかのように……。


 今や村人の大半は村を離れ、星哭村は事実上の廃村となったという。


「山の祟り、か」


 桐島はハンドルを握りながら、小さく呟いた。自分の声だけが、車内に響く。

 もちろん、祟りなど信じていない。何らかの合理的な説明があるはずだ。集団ヒステリー、あるいは本当に何かの毒物による中毒か。それとも、当時の医学では診断できなかった感染症か。ウイルスや細菌の中には、発見が遅れたものも多い。今でこそ有名なエイズだって、最初は原因不明の免疫不全症候群として扱われていた。


 だが、それでも疑問は残る。30人以上が死ぬような事態が、なぜこれほど簡単に忘れ去られたのか。メディアもほとんど報じていない。国会でも取り上げられた形跡がない。まるで誰かが意図的に蓋をしたかのように、この事件は歴史の闇に葬られている。

 その不自然さが、桐島の好奇心を刺激した。何かが隠されている。そして、隠されているものこそ、取材する価値があるのだと。


 高速道路を降り、一般道へ。カーナビの指示に従って山道に入ると、周囲の景色は一変した。両側から迫る杉林、くねくねと続く狭い舗装道路。対向車とすれ違うのも神経を使う。

 携帯電話の電波も次第に弱くなり、やがて圏外の表示に変わった。文明から切り離されていく感覚。都会の喧騒が、遠い世界の出来事のように思えてくる。


 途中、小さな集落をいくつか通り過ぎた。どこも人の気配が薄い。商店のシャッターは閉まり、田畑は荒れ放題。家屋の多くは空き家のようで、窓ガラスが割れたまま放置されている。

 いわゆる限界集落だ。若者は都会に出て行き、残されたのは高齢者ばかり。そんな集落が、日本中の山間部に無数に存在している。星哭村もそうした村の一つだったのだろう。ただ、そこで起きたことは、あまりに異常だったが……。


 道路脇に、錆びた案内標識が立っていた。「星哭村 3km」。矢印は、さらに奥へと続く細い道を指している。星哭ほしなきという奇妙な村名は、古い伝説に由来するらしい。

 かつてこの地に星が落ち、それを見た他の星々が泣いたという言い伝えがあるらしい。この星というのが、どうも神様とかそういう類のものらしい。


 桐島は車の速度を落とした。


 道はさらに狭くなり、舗装も所々剥がれている。ガードレールもない場所が増え、道の端から覗き込めば、谷底まで真っ逆さまだ。ハンドルを握る手に、自然と力が入る。一瞬のミスが、命取りになる。


 そして突如、道の両脇にそれは現れた。




 コスモスの花だった。




 淡いピンク、白、そして薄紫。秋風に揺れる可憐な花々が、道路脇の斜面一面に咲いている。人の手が入っているようには見えない。野生化したものだろうか。それとも、かつてこの道を通る人々のために、誰かが植えたものだろうか。

 今となっては、誰も世話をする者はいない。それでも花は咲き続けている。


 桐島は思わず車を停め、窓を全開にした。


 甘い香りが漂ってくる。コスモスの香りだ。花々は風に身を任せ、まるで桐島を歓迎するかのように揺れている。青空に映えるその色彩は、どこまでも平和で、優しい。こんな山奥に、これほどの花が咲いているとは。まるで楽園のようだ。


「きれいだな」


 桐島はカメラを取り出し、何枚か写真を撮った。ファインダー越しに見るコスモスは、さらに美しく見えた。

 光の加減、風の動き、すべてが完璧だ。この写真は、記事の冒頭を飾るのにふさわしい。

 だが、桐島の胸に、妙な違和感が引っかかった。


 これから向かうのは、30人以上が死んだ村だ。「死の村」と呼ばれ、人々に見捨てられた場所。なのに、道中にはこれほど美しい花が咲いている。その対比が、どこか不自然に思えた。生と死、美と恐怖。それらが、この花を美しく際立たせているのか。


 桐島は首を振って、考えを打ち消した。考えすぎだ。自分は芸術家ではない。取材前から神経質になっている自分を、桐島は少し笑った。

 オカルト記者としては失格だ。冷静に、客観的に。それが、良い記事を書く秘訣だ。


 車に戻り、再び走り出す。コスモスの花は、まだしばらく続いていた。



   * * *



 星哭村の入口には、朽ちかけた木製の看板が立っていた。「星哭村」という文字は半分消えかかり、「ようこそ」の文字に至っては、もはや判読不能だ。その下に、村の人口を示す数字があったはずだが、完全に消えている。おそらく、最後に更新されたのは何十年も前なのだろう。


 その看板の向こうに、村が見えた。


 いや、村と呼べるかどうかも怪しい。視界に入る家屋は二十軒ほど。そのほとんどが廃屋だった。屋根は崩れ、窓ガラスは割れ、蔦が壁を這い上がっている。庭は雑草に覆われ、かつて田んぼだったであろう場所は、葦が生い茂る湿地と化していた。家々の間には、細い道が迷路のように走っている。舗装されていない土の道だ。


 村の中央を、小さな川か用水路が流れている。透明な水が、石の間を軽やかに流れていく音が聞こえる。その音だけが、この場所に残された唯一の生命の証のようだった。水面にはトンボが飛び交い、川岸には名も知らぬ草花が咲いている。人間は去っても、自然は営みを続けている。


 桐島は車をゆっくりと進めた。


 人の気配はない。犬の鳴き声も、鳥のさえずりさえも聞こえない。ただ風が、廃屋の隙間を通り抜ける音だけが、低く響いている。その音は、まるで村全体が呼吸をしているかのようだった。吸って、吐いて。長い眠りについた巨大な生き物の、かすかな息遣いが感じられるようだ。


 かつて、ここには200人の人々が暮らしていた。子供たちの笑い声があり、祭りの太鼓の音があり、日常の営みがあったはずだ。それが今では、廃墟と化している。わずか30年ほど前まで、ここは生きた村だったのに。時間の流れは残酷だ。人間の営みは、こうも簡単に消え去ってしまうのか。


 桐島は車を停め、外に出た。


 秋の日差しは暖かいが、村の空気は冷たかった。まるで、この場所だけが取り残されているような、時間が止まっているような感覚。足元に目をやると、舗装されていない道は土がむき出しで、そこにもやはり雑草が生えている。踏みしめると、柔らかく沈む。長年、誰も歩いていないだろう道。


 村を見渡すと、一軒だけ、明らかに人が住んでいる家があった。

 村の奥、小高い場所に建つ古い日本家屋。他の家とは違い、屋根はきちんと維持され、庭も手入れされている。玄関先には、洗濯物が干してあった。白いシャツと、紺色の作業着。風に揺れているそれを見て、桐島は少しほっとすると同時に驚いた。まだ住んでいる人間がいるとは……。


 だが、人がいるなら話を聞ける。この静寂の中で、生きている人間の存在は何よりも心強い。

 家に近づこうとした時、桐島の背後で声がした。


「どちら様かな」


 桐島は驚きとともに振り返った。


 そこに立っていたのは、一人の老人だった。

腰が曲がり、杖をついている。白髪は薄く、深く刻まれた皺が、長い人生を物語っている。

 だが、その目は驚くほど澄んでいた。濁りのない、鋭い眼光。桐島を値踏みするように、じっと見つめている。老人の手は節くれ立っていて、長年の労働の痕が刻まれている。だが、その手は、杖を握る力強さを失っていない。

 その老人は墨染めの作務衣を着ていた。神職の装束ではないが、どこか宗教者の雰囲気を漂わせている。背筋は曲がっているが、立ち姿には威厳があった。


「あの、初めまして。私、桐島と申します」


 桐島は名刺を取り出した。『深淵』の名刺だ。オカルト専門誌と書いてあるそれを、老人はじっと見つめた。

 その目は、文字を追っているというより、名刺の向こう側にいる桐島という人間を見透かそうとしているようだった。


「……取材か」


 老人の声は、予想以上にしっかりしていた。年齢を感じさせない、落ち着いた低音。だが、その声には、わずかな疲労と諦念が混じっていた。


「はい。昭和五十年代に、この村で起きた変死事件について調べています。お話を伺えればと思いまして」


 老人は黙って桐島を見つめ続けた。その視線には、拒絶も歓迎もない。ただ、測るような冷静さがあった。まるで、桐島がどこまで本気なのか、どこまで理解しているのかを、見極めようとしているかのような……。

 やがて、老人は小さく頷いた。


「わしは志水玄道じゃ。この村に残った、最後の者よ」

「志水……さん」


 桐島は資料を思い出した。星哭村の神社、山神社の神職は、代々志水家が務めていたという記述があった。ということは、この老人が。


「もしかして、山神社の……」

「元神職じゃ。今は神社もない。本殿は崩れ、わしも職を失った。ただの老いぼれよ」


 志水は自嘲するように笑った。だが、その笑顔には諦念だけでなく、どこか頑なな誇りのようなものも感じられた。

 たとえ神社が失われても、たとえ村が滅んでも、自分は神職であり続ける。そんな矜持のようなものが、老人の背筋を支えているのだろう。


「それでも、わしにはまだ務めがある。山の神を鎮める務めがな」

「山の神を、鎮める?」

「そうじゃ。あの山の頂に眠る、恐ろしい神をな」


 志水は杖で山の方角を指した。


 桐島が視線を向けると、村の背後に、緑に覆われた山が聳えていた。それほど高くはない。千メートルもないだろう。だが、その山容には、どこか威圧感があった。

 山頂付近まで木々に覆われ、そこに何があるのか見えない。山肌は深い緑に染まっているが、その緑は、生命の息吹というより、何かを覆い隠す幕のように見える。


「あそこに、神社があったんですか?」

「あった、か……今もある。廃墟となった本殿がな」


 志水は桐島の方を向いた。


「それで、あんたは何を知りたい?」

「この村で起きた変死事件について。そして、その原因について」

「原因?」


 志水の目が、わずかに細められた。


「祟りじゃよ。山の神の祟りじゃ。それ以外に何がある」


 桐島は慎重に言葉を選んだ。初対面の相手に、いきなり「祟りなど信じません」とは言えない。相手の信念を尊重しながら、事実を聞き出す。それが、記者としての基本だ。


「その……祟りとは、具体的にどのような?」


 志水は深くため息をついた。そして、ゆっくりと語り始めた。


「……あれは、昭和54年1月のことじゃった。あの日は、わしも忘れられん。朝、いつものように山麓の拝殿で祈りを捧げておった。冬の朝は寒くてな。だが、祈りを捧げるのは神職の務めじゃ。寒かろうが、雪が降ろうが、毎日欠かさず拝殿に足を運んでおった」


 志水の声が、わずかに震えた。記憶の中に戻っていくような、遠い目をしている。


「その後、本殿に向かおうとすると突然、山が震えた。地面が揺れたわけではない。山そのものが、内側から震えたような感覚じゃった。そして、雷鳴のような轟音が山から響いた。空は晴れておったのに、じゃ。雲一つない冬の青空だったのに、雷のような音がした。わしは驚いて山を見上げた。すると、山頂から煙が上がっておった。黒い煙じゃ。まるで何かが燃えているような」


 桐島は黙って聞いていた。ボイスレコーダーのスイッチを入れたいと思ったが、まだ時期尚早だと判断した。老人の話を遮らない。信頼関係を築いてから、記録を始めるべきだ。


「わしは慌てて山に登った。本殿を確認せねばと思うてな。冬の山道は険しい。雪も残っておった。だが、走るように登った。息が切れて、足が痺れても、登り続けた。そして、頂上に着いた時、目にしたものは……」


 志水は言葉を詰まらせた。その目には、あの日見た光景が、今も鮮明に焼き付いているのだろう。


「本殿は、跡形もなく吹き飛んでおった。柱も屋根も、粉々に砕けておった。まるで巨大な槌で、上から叩き潰されたかのようにな。木材は黒く焦げ、石は砕け、何もかもが破壊されておった。その光景を見た時、わしは膝から崩れ落ちた。代々守ってきた本殿が、一夜にして消えてしもうた」


 志水の声には、確信があった。そして、深い悲しみがあった。


「神が目覚めたのじゃ。封じられていた神が、ついに目覚めてしまったのじゃ」

「それは……」

「わ、わしは恐ろしくなって、すぐに村に戻った。そして村人たちに告げた。『神が目覚めた。これから禍いが起こる』とな。だが、誰もわしの言葉を信じなかった。『神職の戯言』と笑われた。『地震で倒れたんだろう』『雷でも落ちたんじゃないか』そう言われた」


 志水は、苦い表情を浮かべた。


「だが、わしの警告は正しかった。その年の春から、村人が倒れ始めた。最初は老人ばかりじゃった。だから、誰も気にしなかった。年寄りが死ぬのは自然なことじゃからな。だが、やがて若い者も倒れ始めた。働き盛りの男たちが、突然吐血して倒れた。そして、子供達までもが。五歳の女の子が、母親の腕の中で息を引き取った。その時、村人たちはようやく恐怖した」


 桐島は息を呑んだ。老人の語る光景が、目の前に浮かぶようだった。


「皆、同じような症状じゃった。激しく吐き、下し、髪が抜け、肌に紫の痣ができる。そして、数日から数週間で死んでいく。病院に運ばれた者もおったが、医者にも分からなかった。『原因不明』と言われるだけじゃった。血液検査をしても、レントゲンを撮っても、何も分からん。ただ、身体が内側から壊れていくだけじゃった」

「それで、村人たちは」

「ようやく恐怖した。『これは祟りだ』と。山の神の怒りに触れたのだと。そして、次々と村を離れていった。家も田畑も捨てて、命からがら逃げ出した。残る者は減り、死ぬ者は増え……やがて、わしだけが残った」

「志水さんは、なぜ残られたんですか」


 志水は、遠い目をした。


「わしには務めがある。神職の、最後の務めがな」

「務めとは?」

「神を鎮めることじゃ」


 志水は桐島を真っ直ぐ見つめた。その目には、揺るぎない決意があった。


「今もわしは、毎日山麓の拝殿で祈りを捧げておる。神よ、どうか怒りを鎮めたまえ、とな。それがわしの生きる理由じゃ。わしが祈りを止めれば、再び災いが起こるかもしれん。だから、わしはここを離れられん。最後の一人になっても、祈り続ける」


 桐島は、老人の目を見つめた。


 そこには狂信も、妄想もなかった。ただ、深い信念と、決意があった。この老人は本気で信じている。神の存在を、祟りの存在を。そして、自分の祈りが村を守っていると。


「あの……失礼ですが、志水さんご自身の体調は大丈夫なんですか」


 志水は、小さく笑った。


「わしか? わしももう長くない。この身体を見れば分かるじゃろう」


 言われて見れば、志水の手は異様に痩せ細っていた。シャツの袖から覗く腕も、骨と皮だけのようだ。顔色も悪い。目の下には深い隈があり、頬はこけている。


「髪も、ほとんど抜けてしもうた。肌にも、な」


 志水は袖を少しまくった。そこには、紫色の斑点があった。大小様々な斑点が、腕全体に広がっている。

 桐島は息を呑んだ。それは、変死した村人たちと同じ症状ではないか。


「志水さん、病院に行った方が……」

「もう遅い。それに、行く気もない。わしはここで死ぬ。神に仕える者として、最後までこの地に留まる」


 志水は静かに、だが強い意志を込めて言った。


「あんたに言っておく。絶対に山には近づくな」

「え?」

「特に本殿跡には、決して近づいてはならん。あそこは禁域じゃ。神の眠る場所じゃ。あんたのような若い者が、無闇に入れば……」


 志水は言葉を切った。


「祟られる。わしのようにな」


 桐島は、返す言葉を失った。


 志水は杖をつきながら、ゆっくりと自分の家の方へ歩き出した。


「今日はもう遅い。泊まるところもなかろう。わしの家に泊まるがいい」

「え、でも……」

「構わん。久しぶりの客じゃ。わしも話し相手が欲しい」


 志水は振り返らずに言った。


「だが、絶対に山には行くな。そして、明日できるだけ早く、この村を離れろ」


 老人の背中が、夕陽に長い影を落としていた。その影は、まるで老人自身よりも大きく、地面を這うように伸びている。

 桐島は、その影を見つめながら、胸の奥に奇妙な予感を感じていた。


 恐怖とも、期待とも違う。何か、取り返しのつかないものに、近づいているような。そんな予感だった。



   * * *



 志水の家は、思いのほか清潔に保たれていた。

玄関で靴を脱ぎ上がらせてもらうと、畳の部屋が続いている。古い家屋特有の軋む音が、足を踏み出すたびに響く。

 だが、埃っぽさはなく、むしろ丁寧に掃除されている様子が窺えた。畳の目は揃っていて、障子の桟も拭き清められている。一人暮らしの老人の家とは思えないほど、きちんと整えられている。


 床の間には、色褪せた掛け軸がかかっている。達筆で何か書かれているが、桐島には読めない。おそらく、代々この家に伝わる家訓のようなものだろう。墨の色は褪せているが、それでも力強い筆致が、書いた者の気概を伝えている。その下には、小さな香炉が置かれていて、微かに線香の香りがする。


「粗末な家じゃが、我慢してくれ」


 志水はそう言いながら、奥の部屋へと案内した。六畳ほどの和室。窓からは、村を見下ろすことができる。夕暮れ時の村は、廃墟であることを差し引いても、どこか幻想的な美しさがあった。

 オレンジ色の光が、朽ちた家々の屋根を照らしている。かつてここに住んでいた人々の営みを想像すると、今の静けさが一層際立って感じられる。子供たちの笑い声、夕餉ゆうげの支度をする音、犬の鳴き声。そうした日常の音が、すべて失われてしまった村。


「ここに荷物を置いてくれ。夕餉の支度をするから、少し待っておれ」


 志水はそう言い残して、台所へと向かった。一人にされた桐島は、部屋を見回した。


 壁には古い写真が何枚か飾られている。白黒の集合写真。おそらく村の祭りか何かの記念写真だろう。50人以上の人々が、笑顔でカメラを見つめている。子供たちは着物を着て、大人たちは晴れやかな表情だ。前列には、法被を着た若者たちが太鼓を抱えている。祭りの日の写真に違いない。

 その中に、若い頃の志水の姿も見える。まだ髪も黒々としていて、背筋も伸びている。


 この写真の中の人々は、今どこにいるのだろう。村を離れて、どこか別の場所で暮らしているのか。それとも、あの変死事件で命を落としたのか。桐島は、その考えを振り払うように首を振った。

 もう一枚の写真は、神社の前で撮られたものだった。立派な社殿が写っている。おそらく、本殿が崩壊する前の姿だろう。屋根は見事な檜皮葺ひわだぶきで、朱色に塗られた柱が鮮やかだ。

 その前に、神職の装束を着た志水が立っている。凛とした表情で、カメラを見つめている。神に仕える者としての誇りと、責任の重さが、その姿から感じられる。この神社が、今は廃墟になっている。その事実が、どれほど老人の心を痛めているか。


 桐島は視線を写真から外し、窓の外に目をやった。

 村の向こうに、星哭山が見える。夕陽を背にしたその山は、黒いシルエットとなって聳え立っている。頂上付近は木々に覆われ、詳細は見えない。だが、その暗い輪郭には、どこか威圧的な存在感があった。まるで、巨大な生き物が横たわっているかのような。そんな錯覚さえ覚える。


 あの山の頂上に、崩壊した神社がある。そして、志水が言う「神」が眠っている。

 桐島は、取材バッグからノートとペンを取り出した。今日聞いた話を、記憶が新しいうちに書き留めておく必要がある。記者として、できるだけ正確に、できるだけ詳細に記録する。それが、良い記事を書く秘訣だ。


・昭和54年1月——本殿崩壊。轟音と煙。志水の証言では、地震ではなく、何か別の力による破壊。

・同年春から——村人が次々と発症。嘔吐、脱毛、紫色の斑点。医師も原因を特定できず。

・数ヶ月で──30名以上が死亡。若者も、子供も含まれる。

・村人の大半が避難——現在の居住者は志水のみ。最後の神職として、山の神を鎮めるために残る。


 書き出してみると、あらためてその異常さが浮き彫りになる。30人以上が死ぬような事態が、なぜこれほど報道されていないのか。保健所も警察も調査したはずなのに、公式な記録がほとんど残っていない。新聞のアーカイブを調べても、わずかな記事しか見つからなかった。

 しかも、その記事も「原因不明の病気が流行」という曖昧な表現に留まっている。まるで、誰かが意図的に情報を制限したかのように……。いや、それは考えすぎだろうか。陰謀論が得意な後輩に影響されたのだろうか。

 考えるに、単に山奥の小さな村の出来事だから、メディアの注目を集めなかっただけなのだろう。


 だが、桐島の記者としての本能が、何かがおかしいと囁いている。

 しかし、その「何か」が具体的に何なのか、まだ掴めていない。明日、山に登れば、何か分かるかもしれない。止められてはいるが、ここまで来て行かない訳にはいかないだろう。


 台所から、包丁で何かを切る音が聞こえてくる。トントントンという、リズミカルな音。志水は、あの身体で料理をしているのだろう。手伝いを申し出るべきか。だが、老人には老人のペースがあるだろうし、自分のテリトリーに他人が入ってくることを好まない人もいる。下手に手を出すのも失礼かもしれない。


 桐島は立ち上がり、窓際に寄った。


 村はすっかり夕闇に沈みかけている。廃屋の窓は、まるで無数の空虚な目のように、こちらを見つめているようだった。

 風が吹くたび、どこかの家の戸がきしむ音がする。金属が擦れ合うような、甲高い音。人がいないはずの家から、物音が聞こえるのは、妙に不気味だった。まるで、見えない誰かがそこに住んでいて、日常の営みを続けているかのような……。


 ふとその時、桐島の目が村の外れの一軒の家に留まった。


 他の家と同じく廃屋だが、玄関の戸が半開きになっている。そして、その暗い入口の奥に、何か白いものが見えた。洗濯物だろうか、それとも布団だろうか。

 桐島は目を凝らした。白い布のようなもの。いや、違う。それは動いている。ゆっくりと、揺れるように。まるで呼吸をしているかのように、膨らんだり縮んだりしているように見える。


 風で揺れているだけだ、と桐島は自分に言い聞かせた。残された洗濯物か何かが、風に揺れているだけだ。それ以外に説明のしようがない。

 だが、不思議と視線を外せなかった。白いものは、じっとこちらを向いているように見えた。距離があるので細部は見えないが、その佇まいには、どこか人間的なものがあった。誰かがそこに立って、こちらを見ているような。そんな感覚。

 桐島の背筋に、冷たいものが走った。


 その時、背後で声がした。


「何を見ておる」


 桐島は飛び上がりそうになった。心臓が激しく跳ねる。振り返ると、志水が盆を持って立っていた。桐島の反応を見て、志水はわずかに目を細めた。


「驚かせてすまんな。何を見ておったのじゃ」

「あ、いえ、その……あそこの家に、何か白いものが見えて」


 桐島が指差した方向を、志水は静かに見つめた。その目には、何の驚きもない。まるで、予想していたことのように、淡々とした表情だった。


「ああ、あれか」

「あれ、って……」

「村を離れる時、慌てて出て行った者も多くてな。置いていかれた荷物や、干しっぱなしの布団なんかが、まだ残っておる。風で揺れて、まるで幽霊のように見えるじゃろう」


 志水は淡々と説明した。その声には、感情の起伏がない。まるで、よくあることを説明しているかのような、日常的な口調だった。


「最初の頃は、わしも驚いたもんじゃ。夜、ふと窓の外を見ると、白いものが揺れておる。幽霊かと思うて、身構えたこともあった。だが、よく見れば、ただの布じゃ。人がおらん村では、そういうものが放置されたままになっておる」


 志水は、盆を座卓に置いた。


「さあ、食べてくれ。大したものは出せんが」


 盆の上には、質素な夕食が並んでいた。ご飯、味噌汁、漬物、そして焼き魚。魚は川魚。おそらく村を流れる川で獲れたものだろう。イワナか、ヤマメか。その身は引き締まっていて、丁寧に塩が振られている。


「いただきます」


 二人は向かい合って座り、食事を始めた。

 志水の作った料理は、意外にも美味だった。味噌汁は出汁がよく効いていて、焼き魚も塩加減が絶妙だ。漬物も、自家製らしい素朴な味わいがある。長年一人で暮らしてきた男の、生活の知恵が詰まっている。

 この老人は、ただ生き延びているのではなく、きちんと生活しているのだ。そのことに、桐島は何か感銘を受けた。


 しばらく黙って食べていたが、やがて桐島は口を開いた。


「志水さん、もう少し詳しくお聞きしたいのですが」

「何をじゃ」

「山の神について。その神は、いったい何者なんでしょうか」


 志水は箸を止め、桐島を見つめた。その目には、どう説明すべきか迷っているような色が浮かんでいた。やがて、志水は深く息をついた。


「それを話すには、この村の歴史から話さねばならん」

「お願いします」


 志水は、茶碗を置いた。そして、遠い過去を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。


「この村には、古い言い伝えがある。平安の昔、この地に疫病が流行したという話じゃ」

「ええ、郷土誌で読みました」

「ならば知っておろう。当時都から神官が遣わされ、七日七晩の祈祷の末、疫病をもたらす神を山に封じたという話を」

「はい」

「その神は、天から降ってきたと言われておる」


 桐島は箸を止めた。


「天から?」

「そうじゃ。ある日突然、空から光とともに降ってきたという。轟音を立てて、地に堕ちた。そして、その神が触れた土地には、死が訪れる。作物は枯れ、家畜は死に、人もまた病で倒れる。それは、まるで見えない毒のようなものじゃったと、言い伝えにはある」


 志水の声は、静かだが重かった。まるで、自分が実際に見てきたかのような、リアリティがある。


「神官はその神を、山の頂に封じた。どうやって封じたのかは、詳しくは伝わっておらん。だが、七日七晩の祈祷の末、ついに神は地中深くに沈んだという。そして社を建て、代々神職がその封印を守ってきた。それがわしの一族、志水家じゃ」

「平安時代から……」

「そうじゃ。代々、この務めを受け継いできた。父から子へ、子から孫へ。途切れることなく、守り続けてきた」


 志水は、自分の手を見つめた。痩せ細り、皺だらけのその手を。


「わしもまた、父からこの務めを受け継いだ。幼い頃から、神社のことを叩き込まれた。祝詞の唱え方、神事の作法、そして神を恐れること、敬うこと。それがわしの人生じゃった。他に何も知らん。神社と、この村と、山の神。それがすべてじゃった」


 志水の声には、誇りと同時に、深い疲労のようなものが滲んでいた。


「わしには務めがある。最後まで、この地で神を鎮めること。それがわしの役目じゃ。父から受け継ぎ、代々守ってきた役目を、わしの代で終わらせるわけにはいかん」

「でも、志水さん」


 桐島は慎重に言葉を選んだ。


「その神というのは、本当に……存在するんでしょうか。何か、科学的な説明が……」


 志水は、桐島の言葉を遮った。


「あんたは信じておらんのじゃな。神を」

「その……」

「構わん。信じる必要はない。だが、あんたもあの山に登れば分かる」


 志水は真剣な眼差しで桐島を見つめた。


「あの場所には、何かがある。目には見えん、だが確かに存在する何かが。それに触れれば、あんたも分かる。科学で説明できるか、できないか。そんなことは、どうでもよくなる。ただ、恐ろしいものがそこにあるということだけが、真実として迫ってくる」


 志水の言葉には、絶対的な確信があった。この老人は、心の底から信じている。神の存在を。そして、その恐ろしさを。


「だが、触れてはならん。禁域に入れば、神の怒りを買う。そして」


 志水は、自分の腕を見せた。そこには、紫色の斑点が浮かんでいた。桐島は、息を呑んだ。


「わしもまた、神の怒りに触れた一人じゃ。何度も山に登り、何度も神に祈りを捧げてきた。その度に、少しずつ、この身体が蝕まれていく。それでも、わしは祈り続ける。それが、わしの務めじゃからな」


 志水の腕の斑点は、桐島が想像していたより遥かに多かった。紫と黒が混じり合ったような色の斑点が、まだらに広がっている。それは、明らかに健康な肌ではない。何か、深刻な異常が身体の中で起きている証だ。


「志水さん、やはり病院に行った方が」

「もう遅い。それに、行く気もない」


 志水は、淡々と答えた。


「どうせ医者に行ったところで、何も分からん。村人たちも、病院に運ばれた者が大勢おった。だが、医者は首を傾げるばかりじゃった。『原因不明』『見たことのない症状』。そう言われるだけで、何の治療もできなんだ。ただ、苦しみながら死んでいくのを、見守るしかなかった」


 志水は、再び茶碗を手に取った。


「わしはここで死ぬ。神に仕える者として、最後までこの地に留まる。それが、わしの選んだ道じゃ」


 桐島は、返す言葉を失った。この老人の覚悟は、並大抵のものではない。自分の命が尽きようとしていることを知りながら、それでもこの村に残り、神を鎮めるために祈り続ける。その姿に、桐島は畏敬の念さえ覚えた。


「あんたにもう一度言っておく。山には近づくな」


 志水の声が、急に厳しくなった。


「特に本殿跡には、決して近づいてはならん。あそこは禁域じゃ。神の眠る場所じゃ。あんたのような若い者が、無闇に入れば────」


 志水は言葉を切った。その目には、深い憂いが浮かんでいる。


「わしと同じ運命を辿ることになるぞ」



   * * *



 夜が更けてから、桐島は客間に一人残された。志水は「明日に備えて、早く休め」と言い残して、自分の部屋に引き上げた。

 桐島は布団に横になったが、眠れなかった。頭の中で、今日一日に起きたことが、何度も何度も再生される。廃村の光景、志水の話、そして山に登るかどうか、という選択。


 志水は強く警告した。「近づくな」と。だが取材のためには、現場を見なければならない。崩壊した神社、そしてその周囲の状況。それを見ずして、この事件の記事は書けない。

 読者は、具体的な描写を求めている。抽象的な説明だけでは、誰も納得しない。記事には写真も必要だ。現場の写真こそが、記事に説得力を与える。


 桐島は決めていた。やはり明日、山に登る。


 その決意は、夜が明けても変わらなかった。

 翌朝、簡単な朝食を済ませた後、桐島は志水に告げた。


「山に登らせてください」


 志水の顔が、曇った。


「昨夜、あれだけ言うたのに」

「はい。でも、僕は記者です。現場を見なければ、記事が書けません」


 桐島の声には、決意があった。志水は、しばらく黙って桐島を見つめていた。その目には、怒りではなく、深い悲しみが浮かんでいた。


「若者というのは、いつの時代も同じじゃな。止めても聞かん」


 志水は、深くため息をついた。


「分かった。行くがよい。だが、わしは責任を持てんぞ」

「はい。自己責任です」

「それと」


 志水は、奥の部屋に行き、何かを持ってきた。白い紙に包まれた、小さな包み。開けると、中には塩と、御札が入っていた。


「塩は、身を清めるために使え。山に登る前に、身体に振りかけるのじゃ。御札は、肌身離さず持っておれ。それがあれば、多少は神の怒りから守られる……かもしれん」

「あ、ありがとうございます」


 桐島は、御札を受け取った。古びた紙に、墨で何か書かれている。呪文のようなものだろうか。文字は達筆すぎて、桐島には読めない。

 だがその筆致には、何か力強いものを感じる。一字一字に、祈りが込められているようなそんな感じだ。


「それと、これも」


 志水は、小さな鈴を差し出した。真鍮製の、手のひらに収まるほどの鈴。


「山で、もし何かに追われたら、この鈴を鳴らせ。音が、奴らを遠ざける……こともある」

「奴ら……とは?」

「神の眷属じゃ。山には、様々なものがおる。人ならざるものが。それらに出会ったら、この鈴を鳴らせ。清らかな音は、邪なるものを退ける力がある」


 桐島は鈴を受け取った。手のひらの中で、鈴が小さな音を立てる。清らかな、澄んだ音。この音が、本当に何かを遠ざける力があるのだろうか。そもそも、神の眷属とは一体何なのだ。

 そう思いながらも、桐島はそれをポケットに入れた。


「今の時期、本殿跡にはコスモスの花が咲いておる。美しい花じゃ。だが、その花には近づくな。ましてや、踏んではならん。あれは神の庭じゃ。荒らせば、必ず報いがあるぞ」

「分かりました」


 桐島は答えたが、心の中では決めていた。必ず、その花の写真を撮る。記事には、視覚的なインパクトが必要だ。崩壊した神社と、そこに咲くコスモスの花。その対比こそが、読者の心を掴むはずだ。


 準備を整え、桐島は出発した。リュックには、カメラ、ボイスレコーダー、ノート、水筒、そして志水からもらった御札と鈴。それらを詰め込み、背負う。志水は玄関先まで見送りに来た。


「無事に帰って来い」


 その言葉には、祈りにも似た切実さがあった。桐島は深く頭を下げ、家を後にした。



   * * *



 朝の村は、夕暮れ時とはまた違った表情を見せていた。日の光の下では、廃屋の荒廃がより際立って見える。崩れかけた壁、錆びたトタン屋根、割れた窓ガラス。

 それでも、かつてここに暮らしていた人々の痕跡は、至る所に残っている。庭先に植えられた柿の木は、今も実をつけている。誰も収穫する者がいないまま、熟れすぎた実が地面に落ちて腐っている。

 家の軒先には、色褪せた暖簾が風に揺れている。何かの店だったのだろうか。文字はもう読めないが、かつてここで商いが行われていたことを物語っている。


 桐島は村を抜け、山道へと向かった。登山道の入口には、朽ちかけた鳥居が立っていた。赤い塗装はほとんど剥がれ、木材も朽ちかけている。その鳥居の前で、桐島は立ち止まった。

 志水の言葉を思い出し、リュックから塩を取り出す。白い塩を手に取り、自分の肩、頭、胸に振りかける。塩の粒が、服に落ちて白い点を作る。これで、身が清められるのだろうか? 半信半疑ながらも、桐島は作法に従った。ここまで来て、縁起を担がないわけにはいかない。


 鳥居をくぐる。その瞬間、空気が変わったような気がした。ひんやりとした、湿った空気。まるで、別世界に足を踏み入れたかのような感覚。桐島は、一瞬立ち止まった。だが、すぐに歩き出す。後戻りはできない。


 山道は、予想以上に険しかった。整備されていないため、足場が悪い。落ち葉が厚く積もっていて、その下に石や木の根が隠れている。何度も足を取られそうになりながら、桐島は登り続けた。周囲は杉林だ。高く伸びた杉の木々が、空を覆い隠している。木漏れ日がわずかに差し込むだけで、道は薄暗い。その薄暗さが、どこか不安を煽る。まるで、光の届かない場所に向かっているかのような。


 そして、静かだ。異様なほど静かだ。鳥の声が、しない。

 山の中なのに、鳥のさえずりが全く聞こえない。虫の音もない。秋の山なら、まだ虫の声が聞こえてもいいはずなのに、何も聞こえない。風で木々が揺れる音だけが、低く、不気味に響いている。まるで、森全体が息を潜めているかのような。何かを恐れているかのような。そんな静けさ。


 桐島は立ち止まり、周囲を見回した。生き物の気配がない。本当に、何もいないのだろうか。


 いや、いる。

 何かが、いる。

 見えないが、確かにいる。


 桐島の背筋を、冷たいものが走った。誰かが、こちらを見ている。木々の影から、じっと見つめている。その視線を、肌で感じる。

 だが、姿は見えない。どこにいるのかも分からない。ただ、見られているという感覚だけが、強烈にある。

 桐島は、ポケットの中の御札を確かめた。まだある。これが、本当に自分を守ってくれるのだろうか。そんな疑念を抱きながらも、御札があることが、わずかな安心感を与えてくれた。


 再び歩き出す。足音だけが、森に響く。自分の足音のはずだ。だが時々、自分の足音ではない音が混じる。カサカサという音。何かが、落ち葉の上を這うような音。桐島が立ち止まると、音も止まる。歩き出すと音も始まる。


 ……誰かが、後をついてきている。


 いや。誰か、ではないかもしれない。


 何かが。


 桐島は何度も振り返ったが、その度に誰もいない。木々が立ち並んでいるだけ。

 だが、気配は消えない。むしろ強く、増えていった。気配は今や一つではない。いくつもの何かが、桐島の周りを取り囲むように、移動している。


 何者かに観察されている恐怖が、じわじわと心を侵食していく。このまま登り続けて、本当に大丈夫なのか。引き返すべきではないのか。そんな考えが頭をよぎる。

 だが、桐島は足を止めなかった。記者としての使命感が、恐怖に勝った。ここまで来て、引き返すわけにはいかない。


 やがて、道が急になってきた。頂上が近い。木々の間から、わずかに空が見える。もう少しだ。あと少しで、本殿跡に着く。

 その時、桐島の目に、奇妙なものが飛び込んできた。


 道の脇、木の根元に、何かがいる。


 ……蛇だ。


 だが、普通の蛇ではない。


 桐島は、思わず足を止めた。その蛇には、頭が二つあった。一つの胴体から、二つの頭が生えている。それぞれの頭は、別々の方向を向いていて、舌を出し入れしている。体長は五十センチほど。模様からして、アオダイショウだろうか。だが、こんな奇形は見たことがない。


 蛇は、桐島を見つめている。四つの目が、じっとこちらを見ている。

 桐島は、カメラを取り出そうとした。だが、手が震えて、うまく動かない。これは、記録しなければ。こんな生き物が実在するなんて。


 だが、蛇は素早く草むらの中に消えていった。二つの頭が、それぞれ別々の方向を向いたまま、ぎこちなく這っていく。その動きは、どこか痛々しかった。


 桐島は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 今のは、何だったんだ。奇形か? それとも、突然変異か?


 だが、なぜこの山に……。

 その時、桐島は志水の言葉を思い出した。


(この山には、様々なものがおる。人ならざるものが)


 あれが、神の眷属なのか?


 桐島は頭を振って、歩き出した。考えすぎだ。ただの奇形の蛇じゃないか。珍しいが、自然界には時々、こうした異常が起きる。それだけのことだ。

 だが、心のどこかで、別の声が囁いている。


 あれは、普通ではない。この山は、普通ではない……と。



   * * *



 さらに登っていくと、今度は別のものを見つけた。


 木の幹に、カエルがいた。だが、そのカエルには足が六本あった。

 通常、カエルの足は四本だ。だが、このカエルは、胴体の両側から、三本ずつ足が生えている。それぞれの足は、ばらばらの方向に動いていて、まともに這うことができない。

 そのカエルは、木の幹にしがみついたまま、身動きが取れないでいる。


 桐島は、思わず近づいた。


 カエルの体は、普通のアマガエルより大きい。だが、その体は歪んでいる。背中が膨らみ、腹が凹んでいる。まるで、内臓が正しい位置にないかのような。

 カエルは、桐島を見た。その目には、苦しみがあるように見えた。いや、カエルが苦しみを感じるかどうかは分からない。だが、その姿は、どう見ても正常ではない。生きているのが不思議なほど、歪んでいる。


 桐島は、カメラを構えた。今度は、ちゃんと撮る。これは、記録しなければ。


 シャッターを切る。一枚、二枚。


 カエルは、動かない。ただ、じっとこちらを見ている。


 桐島は、カメラを下ろした。


(この山で、一体何が起きているんだ)


 二つの頭を持つ蛇。六本の足を持つカエル。

 これは偶然なのか、それとも……。


 桐島は、再び歩き出した。もう、頂上は近い木々の間から、開けた場所の気配を感じる。


 だが、その時。


 木の陰から、何かが現れた。


 桐島は、思わず立ち止まった。


 それは、猿だった。……いや、猿のようなものだった。

 体は、確かに猿のものだ。茶色い毛に覆われ、四足で歩いている。


 だが、その顔。


 桐島は、息を呑んだ。


 その顔は、人間のものだった。

 老人の顔。皺だらけの、苦悶に歪んだ顔。目は人間の目で、鼻は人間の鼻で、口は人間の口だ。だが、それが猿の頭についている。まるで、人間の顔を無理やり猿の頭に貼り付けたかのような、グロテスクな姿……。


 その生き物は、桐島を見た。

 人間の目で。そして、口を開いた。白く並んだ歯が見える。


 桐島は、後ずさった。


(これは、何だ!? 夢か? 幻覚か?)


 だが、それは確かにそこにいる。

 生き物は、ゆっくりと桐島に近づいてくる。ぎこちない動きで、まるで身体の動かし方を忘れてしまったかのような感じで。


 桐島は、ポケットから鈴を取り出した。志水がくれた、真鍮の鈴。

 それを激しく振る。



 清らかな音が、森に響く。


 その瞬間。生き物が、立ち止まった。

 そして、こちらを見つめつつゆっくりと後退し始めた。まるで、音を恐れているかのように。そうしている内に、それは木々の陰へと消えていく。


 桐島は、荒い息をついた。心臓が、激しく打っている。


「今のは、何だったんだ?」


 志水が言っていた、神の眷属……あれが、そうなのか? 人面猿というのか? だが、あんなものが実在するなんて……。


 桐島は、しばらくその場に立ち尽くしていた。だが、やがて決意を固めて前に進んだ。もう、引き返せない。ここまで来たのだから、最後まで行く。

 木々の間から、光が見えてきた。開けた場所が近い。頂上だ。


 桐島は歩調を速めた。


 そして、視界が開けた。



   * * *



 桐島は、思わず立ち止まった。

 目の前に広がる光景に、言葉を失った。


 本殿跡は、確かに破壊されていた。礎石だけが残り、その上には何もない。柱も、屋根も、全て跡形もなく消えている。志水が言ったとおり、まるで巨大な力で叩き潰されたかのような破壊の痕だった。

 礎石の周囲には、黒く焦げた木材の破片が散乱している。その破片は、ただ壊れたというより、焼かれたような、いや、溶けたような形状をしている。木材が、こんな風に変形するだろうか。まるで、極度の熱にさらされたかのような。



 だが、それ以上に桐島の目を奪ったのは、コスモスの花畑だった。

 本殿跡を中心に、半径数十メートルにわたって、コスモスの花が咲き乱れている。ちょうどその花畑に空から光が差しており、その光景はまさに圧巻だった。だが、その花の美しさはある種異様だった。


 花は通常のコスモスより遥かに大きい。直径が十センチ以上、いや、中には十五センチを超えるものもある。そして、その色……。

 血のように濃い赤。まるで、地面から血が噴き出し、それが花の形をとったかのような、生々しい赤。濃密で、粘性さえ感じさせるような赤。ピンクや白の花も混じっているが、それらもまた通常より遥かに鮮やかすぎる色をしている。

 まるで、何か異常なものに育てられたかのような、不自然な生命力に満ちている。


 そして周囲の木々は、対照的に死んでいた。葉は完全に落ち、幹は灰色に変色し、樹皮は剥がれ落ちている。枝は折れ、根元は腐っている。明らかに、何年も前から死んでいる。

 コスモスだけが、その死の中で狂ったように咲き誇っている。まるで、木々の死を養分にして、より一層鮮やかに、より一層大きく育ったかのように……。


 風はない。


 それなのに、花は揺れている。


 ゆらゆらと、規則的なリズムで揺れている。まるで、自らの意志で動いているかのように。


 桐島は、足が竦むのを感じた。


 美しい。確かに美しい。だが、その美しさは、生理的な嫌悪感を呼び起こす種類のものだった。人間が本能的に避けるべきものを感じ取る。そういう種類の美しさ。

 毒を持つ生物が、鮮やかな色彩で警告を発するように、この花もまた、何か危険なものの存在を示しているかのような、そんな感じ。


 それでも、桐島はカメラを取り出した。


 手が震える。シャッターを押す指が、言うことを聞かない。深呼吸をして、落ち着こうとする。だが、心臓の鼓動は速いままだ。

 桐島はファインダーを覗き、シャッターを切った。


 一枚、二枚、三枚……。


 カメラのシャッター音が、静かな頂上に響く。その音が、妙に大きく聞こえる。まるで、静寂を破る冒涜行為のような。


 撮影を続けるうち、桐島は突如として奇妙な感覚に襲われた。


 めまい。軽い吐き気。そして、頭痛。


 桐島は立ち止まり、額を押さえた。


(これは……!?)


 志水が言っていた症状、資料で見た症状と同じ。

 いや、まだ大丈夫だ。ただの気分の悪さに違いない。きっと山に登って、疲れているだけだ。


 桐島は深呼吸をした。


 だが、空気が、重い。


 まるで、水の中にいるかのような、圧迫感。呼吸が苦しい。


 それでも、桐島は前に進んだ。礎石の前まで行かなければ……。本殿跡の中心を撮影しなければ……。


 桐島はコスモスの花畑の中へと足を踏み入れた。花を踏まないよう、慎重に、慎重に足を進める。

 志水の警告が頭をよぎる。「花を踏むな」と。だが、花は密集して咲いている。踏まずに進むのは不可能だ。


 桐島は、できるだけ花の少ない場所を選んで歩いた。だが、どうしても避けられない場所がある。そこでは、やむを得ず花を踏んだ。足が花の茎を踏みつける。ポキリと茎を折る感触が、足裏から伝わってくる。


 そして礎石に近づくにつれ、体調の悪化は激しくなった。めまいがひどくなり、吐き気が強くなる。頭痛も、より鋭くなる。


 桐島は、膝をついた。もう、立っていられない。


(これは、何なんだ? 本当に、祟りなのか。それとも……)


 桐島の視界が、ぼやけてくる。コスモスの花々が、霞んで見える。

 そして背後から、何かが近づいてくる気配。姿は見えない。だが、確かに近づいてくる。


 地面を這うような音。いや、地面の下からだろうか?


 桐島は、鈴を取り出した。志水がくれた、真鍮の鈴。それを激しく振る。


 鈴の音が、辺りに鳴り響く。その瞬間、追ってくる気配が止まった。


 桐島は立ち上がり、来た道を戻り始めた。もう、限界だ。これ以上ここにいたら、本当に危ない。

 警告を無視して、花を踏み荒らしながら必死に走り、コスモスの花畑を抜けて木々の中に入る。


 薄暗い登山道。


 だが、今はその薄暗さがかえって安心感を与えてくれる。あの花畑から離れることができる。

 桐島は、振り返ることなく、山を下り始めた。

膝が笑っており、何度もつまずく。木の根に引っかかり、転びそうになる。それでも、走り続けた。


 背後から、再び何かが追ってくる気配。


 姿は見えない。


 聞こえない。


 だが、確かにナニかがそこにいる。


 桐島は再び鈴を激しく振った。鈴の音が森に響くと、気配が遠のく。だが、完全には消えない。


 桐島は走り続けた。どれくらい走っただろうか。やがて、鳥居が見えてきた。あの、朽ちかけた鳥居。村の入口。


 桐島は迷わず鳥居をくぐった。その瞬間、追ってくる気配が、完全に消えた。まるで、鳥居が結界のように、あちら側とこちら側を分けているかのように……。


 桐島は、鳥居の先で力尽きて、地面に倒れ込んだ。荒い呼吸。激しい動悸。全身が汗でびっしょりだ。

 そして、止まらない吐き気。


 桐島は道端で、吐いた。もう胃の中には何もないのに、それでも身体が吐こうとする。胃液さえ出なくなり、ただ空嘔吐を繰り返す。

 やがて、それも収まり、桐島はその場に座り込んだ。


 手が震えている。いや、全身が震えている。


 恐怖からではない。いや、恐怖もあるがそれだけではない。

 何か、もっと根源的な……生理的な反応。まるで、身体が拒絶しているかのような。あの場所を。あの花を。あの、何かを……。


 桐島は、ポケットから御札を取り出した。紙は、汗でしっとりと湿っている。だが、確かにここにある。志水の言ったとおり、これが守ってくれたのだろうか? もしこれがなかったら……桐島は、その先を考えたくなかった。


 しばらくその場に座っていたが、やがて桐島は立ち上がった。村に戻らなければ。志水に、報告しなければ。いや、報告というより、助けを求めなければ。

 桐島は、ふらふらと志水の家に向かった。足が、まともに動かない。何度も立ち止まり、深呼吸をする。だが、呼吸が苦しい。空気が、うまく肺に入っていかない。

 志水の家が見えてきた。玄関の戸を、震える手で叩く。


「し、志水さん…」


 戸が開き、志水が顔を出した。桐島の様子を見て、志水の顔が険しくなった。


「やはり、こうなったか」

「すみません……体調が……」

「入れ。すぐに休め」


 志水は桐島を家の中に入れ、客間に案内した。布団はすでに敷かれていた。まるで、桐島がこうなることを予期していたかのように。

 桐島は、そのまま倒れ込むように布団に横になった。


「み、水……」


 志水は台所に行き、水を持ってきてくれた。桐島は、それを一気に飲み干した。だが、喉の渇きは癒えない。もう一杯、また一杯と、桐島は水を飲み続けた。


「少し、休め。話は後じゃ」


 志水はそう言って、部屋を出ていった。


 桐島は、天井を見つめた。


 あれは、何だったんだ。あの異様な花。

 あの、得体の知れない生き物たち。


 双頭の蛇。六本足のカエル。そして、人間の顔をした猿。

 あれらは、本当に実在したのか?

 そうだ、カメラに写っているはずだ。あれが幻覚だったかハッキリする。


 桐島は、リュックからカメラを取り出そうとした。だが、手に力が入らない。身体が、言うことを聞かない。

 桐島の意識は、そのまま次第に遠のいていった。疲労と、恐怖と、そして、何か、もっと深いものに飲み込まれるように、暗闇の中に沈んでいった。



   * * *



 目が覚めたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 桐島は布団の中で身を起こした。頭が重い。まるで二日酔いのような、鈍い痛みが頭蓋骨の内側に張り付いている。

 口の中は乾ききっていて、舌が上顎にくっつくような不快感があった。唾を飲み込もうとしても喉がカラカラで、かえって痛みを感じる。


 枕元に置かれた水差しから、コップに水を注いで飲む。冷たい水が喉を通り、胃に落ちていく。少しだけ、意識がはっきりしてきた。

 だが、身体の倦怠感は消えない。まるで、全身の力が抜けてしまったかのような、深い疲労。


 時計を見ると、午後七時を回っている。山から戻ったのが昼過ぎだったから、五時間近く眠っていたことになる。信じられないほど深い眠りだった。夢は見なかった。いや、見たかもしれないが、まったく覚えていない。ただ、暗い淵に沈んでいくような感覚だけが、おぼろげに記憶に残っている。

 桐島は布団から出て、部屋の電気をつけた。蛍光灯の白い光が、部屋を照らし出す。その明るさが、どこか安心感を与えてくれた。山の頂上での出来事が、遠い昔のことのように感じられる。


 本当にあったことなのだろうか。


 あの異様な光景。血のように赤いコスモスの花。双頭の蛇。六本足のカエル。人間の顔をした猿。


「そうだ!」


 桐島はリュックを引き寄せ、カメラを取り出した。液晶画面を確認する。撮影した写真が残っているはずだ。もし写真がなければ、すべては幻覚だったということになる。だが、もし写真があれば……。


 画面に表示された写真を見て、桐島は息を呑んだ。


 コスモスは、確かに写っていた。それも、記憶以上に鮮明に。

 画面の中の花は、不気味なほど美しかった。鮮やかな赤、ピンク、白。その色彩は、現実のものとは思えないほど強烈だった。まるで、色を塗り重ねた絵画のような、人工的なまでの鮮やかさ。だが、それは確かに実在する花だった。カメラは、嘘をつかない。

 桐島は写真を次々と確認していった。どれも同じだ。美しくも不気味な、異様な花の記録。色彩の鮮やかさ、花の大きさ、そして周囲の崩れた本殿と枯れた木々との対比。すべてが、この場所の異常性を物語っている。


 だが、あの生き物たちの写真はなかった。

 双頭の蛇も、六本足のカエルも、人間の顔をした猿も……。


 いや、蛇が現れた時はカメラを取り出す前に逃げられた。カエルは撮影したはずだが、画面にはカエルの写真がない。猿に至っては、撮影する余裕もなかった。


 桐島は、自分の記憶を疑い始めた。本当に、あれらは実在したのか。それとも、ただの幻覚だったのか。

 体調が悪くなって、何か見えないものを見てしまったのではないか。桐島はカメラを閉じた。


 だが、これは使える。記者としての本能が、そう告げていた。

 このコスモスの写真があれば、記事は完成する。読者は、この異様な美しさに引き込まれるだろう。そして、この村で起きた悲劇を、リアルに感じ取るだろう。


 部屋を出ると、廊下から居間の方に灯りが漏れていた。志水がいるのだろう。

 桐島は居間に向かった。足が、まだ完全には回復していない。ふらつく。壁に手をつきながら、慎重に歩く。

 志水は、座卓の前に座って、何かを書いていた。古びた和紙に、筆で丁寧に文字を記している。その姿は、まるで中世の写経僧のような厳かさがあった。蝋燭の光が、志水の横顔を照らしている。皺の刻まれた顔、白い髪。その姿には、ある種の神々しさすら感じられる。


「起きたか」


 志水は顔を上げずに言った。筆を動かし続けながら、桐島の気配を感じ取ったのだろう。


「はい……すみません、長く眠ってしまって」

「構わん。身体が必要としていたのじゃろう」


 志水は筆を置き、桐島を見た。その目は、桐島の顔を、全身を、じっと観察している。医者が患者を診るような、そんな視線。


「体調はどうじゃ」

「少し、頭が重いですが……それよりも、なんというか、身体全体が重くて」


 桐島は正直に答えた。実際、体調は優れなかった。吐き気は治まったが、身体全体に倦怠感があった。まるで、重い風邪を引いたときのような、だるさ。関節も痛むような気がする。特に、膝と肘。曲げると、じんわりとした痛みがある。

 志水は深刻な表情で頷いた。


「やはり、か」

「やはり……とは?」

「あんたは、神の怒りに触れてしもうた。禁域に入り、神の庭を踏み荒らした。それはその報いじゃ」


 志水の言葉には、非難の色はなかった。ただ、深い悲しみがあった。まるで、予想していたことが現実になってしまった。そんな悲しみ。


「このまま放っておけば、あんたも村人たちと同じ道を辿ることになる」


 桐島の背筋に、冷たいものが走った。


「同じ道……」

「死じゃ」


 志水は静かに、だがはっきりと言った。その言葉には、いささかの躊躇もない。事実を、そのまま告げる。それが、この老人の流儀なのだろう。


「神の怒りに触れた者は、皆そうなった。最初は軽い体調不良から始まる。頭痛、吐き気、下痢、倦怠感。あんたが今感じておるものじゃ。だが、それらは日を追うごとに悪化していく。やがて髪が抜け始め、肌に紫の斑点が浮かび、内臓が蝕まれていく。食べ物が喉を通らなくなり、水さえも吐き出すようになる。そして────」


 志水は言葉を切った。その沈黙が、かえって恐ろしさを増幅させる。

 桐島は、喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。自分が、死に向かっている。そんなことが、信じられない。だが、志水の目は、嘘をついていない。この老人は、本当にそう信じている。いや、信じているというより、知っている。何十人もの村人が、同じ道を辿るのを、目の当たりにしてきたのだから。


「た、助かる方法は……」

「ある」


 志水の答えに、桐島は希望を感じた。まだ、助かる道がある。まだ、手遅れではない。


「ほ、本当ですか?」

「だが、簡単なことではない」


 志水は立ち上がり、台所に向かった。しばらくして、二つの湯呑みを持って戻ってきた。温かいお茶の香りが、鼻をくすぐる。緑茶。

 だが、普通の緑茶とは少し違う香りがする。何か、薬草のようなものが混ざっているのだろうか。


「座れ」


 桐島は座卓の前に座った。志水は向かいに座り、湯呑みを差し出した。桐島は両手でそれを受け取る。温かさが、手のひらから伝わってくる。その温もりが、わずかに安心感を与えてくれた。


「聞け。わしがこれから話すことを、よく聞け」


 志水の声には、かつてないほどの真剣さがあった。その目は、桐島を真っ直ぐ見つめている。


「神の怒りを鎮める方法は、一つしかない。禁域に赴き、神に直接詫びることじゃ」

「禁域に……また、山に登るということですか」


 桐島の声が、わずかに震えた。もう一度、あの場所に行くのか。あの異様な花畑に。あの、得体の知れない何かがいる場所に……。


「そうじゃ。だが、今度は正しい作法で行う」


 志水は、奥の部屋に行き、白い布に包まれた包みを持って戻ってきた。それを座卓の上に置き、丁寧に布を開く。中には、白い着物、塩、蝋燭などが入っていた。


「明日の夕方、山に登る。そして、日が沈んでから日が昇るまで、一晩、本殿跡で神に許しを乞うのじゃ」

「一晩中……ですか」


 桐島の声が、さらに震えた。あの場所に、一晩中いるということか。あの異様な花に囲まれて。夜の闇の中で。


「恐ろしいか?」


 志水の問いに、桐島は正直に答えた。


「はい……正直、恐ろしいです」

「当然じゃろう。だが、これしか方法はない」


 志水は、白い着物を手に取った。


「これを着て、山に登る。そして、本殿跡の中心に、この蝋燭を灯す。四方に塩を撒き、結界を作る。その中で、夜通し神に許しを乞い続けるのじゃ。声に出さなくてもいい。心の中で、ただひたすら謝り続ける。『どうか許してください』『二度と立ち入りません』と」


 志水は桐島を真っ直ぐ見つめた。


「夜明けまで、決してその場を離れてはならん。どんなことが起きても、じっとそこにいるのじゃ。恐ろしいものが見えるかもしれん。聞こえるかもしれん。だが、動いてはならん。逃げてはならん。それができれば、神は許してくださる」

「それで……本当に助かるんですか?」

「そうじゃ。現にわしは、そうして何人かを救ってきた」


 志水は、遠い目をした。


「村人の中にも、軽い症状が出た者が何人かおって、同じことをした。そして、助かった。だが……」


 志水は首を横に振った。


「全員が助かったわけではない。症状が進みすぎた者や、怖れて儀式を拒んだ者は……助からなかった。あるいは、途中で恐怖に負けて逃げ出した者もおった。そうした者は、皆────」


 志水は言葉を切った。だが、その先は言わなくても分かる。

 桐島は、自分の手を見た。まだ、紫の斑点は出ていない。髪も抜けていない。ということは、まだ初期段階なのだろう。今なら、間に合うかもしれない。だが、一晩、あの場所で過ごすということは……。


「志水さんは……一緒には来てくださらないんですか」

「わしは、もう身体が持たん。あの場所に一晩いれば、わしの命が尽きてしまう」


 志水は、自分の腕を見せた。紫の斑点は、さらに増えているように見える。


「あんたは、一人で行かねばならん。だが、案ずるな。わしが教えた通りにすれば、必ず神は許してくださる。わしを信じろ」


 桐島は、言葉を失った。


 一人で、あの場所に。しかも一晩中……。


 だが、他に選択肢はない。このまま放っておけば、死ぬ。それは、志水の言葉を信じる限り、確実だ。ならば、儀式に賭けるしかない。


「分かりました、やります。志水さん、よろしくお願いします」


 桐島は、深く頭を下げた。


「では、明日は準備の日じゃ。身を清め、心を整える。そして夕方、山に登る」


 志水は、白い着物を桐島に渡した。


「明日、これを着て、山に登れ。そして、夜通し神に許しを乞え」



   * * *



 翌日は、長い一日だった。


 朝、志水が桐島を起こしに来た。桐島は、一晩中考え続けていた。本当に、これで助かるのだろうか。祝詞を唱え、供え物を捧げるだけで、この体調不良が治るのだろうか。

 科学的に考えれば、馬鹿げている。だが、科学では説明できないことが、この村では起きている。それは、桐島自身が体験した。


 朝食は質素なものだったが、桐島は喉を通らなかった。味噌汁を一口飲み、ご飯を数口食べただけで、箸を置いてしまった。食欲がない。いや、食べようとすると、吐き気がするし、全く味を感じない。


「無理に食べなくていい。だが、水だけは飲んでおけ。今夜は長い夜になる。身体が水を欲するじゃろうから」


 志水の言葉に従い、桐島は水を飲んだ。不思議なことに、水だけはいくらでも飲めた。喉が、常に渇いているような感覚があった。一杯、また一杯と、桐島は水を飲み続けた。


 午前中、志水は桐島を裏手にある小さな小屋に案内した。そこには、薪で沸かす五右衛門風呂があった。現代でこんなものが残っているとは、と桐島は驚いたが、志水にとっては日常の一部なのだろう。すでに薪が焚かれていて、湯気が立ち上っていた。志水は、朝早くから準備をしていたのだろう。


「身を清めるのじゃ。髪も、身体も、すべて丁寧に洗え。そして、この塩を使え」


 志水は、白い布に包まれた塩の塊を渡した。粗塩だった。昔ながらの製法で作られたものなのだろう、結晶が大きく、手に取るとざらりとした感触がある。海の香りが、わずかにする。


「全身にこの塩を擦り込んでから、湯に浸かれ。穢れを落とすためじゃ。そして、湯から上がったら、この白い着物を着ろ」


 志水が差し出したのは、真っ白な浴衣のような着物だった。木綿で作られていて、洗いざらしの素朴な風合いがある。

 おそらく、かつて神事の際に使われていたものだろう。何度も洗われ、何度も着られてきた。その歴史が、布の風合いから伝わってくる。


 桐島は一人、風呂場に残された。服を脱ぎ、小さな鏡に映る自分の姿を見た。顔色が悪い。目の下の隈は、昨日よりさらに濃くなっている。頬もこけて見える。わずか二日で、こんなにも変わってしまったのか。

 塩を手に取り、全身に擦り込んでいく。肩、胸、腹、背中、腕、脚。身体のすべての部分に、丁寧に塩を擦り込んだ。塩の粒が肌に食い込み、わずかな痛みを感じる。だが、その痛みが、どこか心地よくもあった。まるで、身体の表面に張り付いた何か見えないものを、削ぎ落としているかのような感覚。

 湯船に浸かると、熱い湯が身体を包んだ。最初は熱すぎると感じたが、次第に慣れてきた。湯気が立ち上り、視界を白く染める。その中で、桐島は目を閉じた。心を落ち着けようとした。だが、頭の中には、昨日見た光景が次々と浮かんでくる。

 血のように赤いコスモスの花。双頭の蛇。六本足のカエル。人間の顔をした猿……。


 それらすべてが、今夜、再び自分を待っている。

 だが、今度は逃げない。夜明けまで、あの場所にいるのだ。


 桐島は、その覚悟を胸に刻んだ。



   * * *



 どれくらい湯に浸かっていただろうか。やがて、身体の芯まで温まったのを感じて、桐島は湯船から上がった。身体を拭き、志水が用意してくれた白い着物を着る。

 鏡を見ると、白い着物を着た自分が、まるで別人のように見えた。いや、別人というより、まるで、これから何か神聖な儀式に臨む者のような、そんな姿に見えた。日常から切り離された、特別な存在。


 家に戻ると、志水が座卓の前で待っていた。


「よし。では、出発の準備をする」


 志水は、昨夜見せてもらった包みを取り出した。塩、蝋燭、古びたマッチ。それらを、古い竹籠に詰めていく。


「これを持って、山に登れ。そして、本殿跡の中心に蝋燭を灯す。四方に塩を撒き、結界を作る。その中で、夜通し神に許しを乞うのじゃ」


 桐島は頷いた。


「途中で、蝋燭が消えるかもしれん。だが、慌てるな。また灯せばいい。風で消えることもあるし、雨が降ることもある。だが、諦めずに灯し続けろ。それが、あんたの誠意を示すことになる」

「分かりました」

「それと、これも持っていけ」


 志水は、昨日渡した鈴を取り出した。


「何かが近づいてきても、恐れるな。ただ、この鈴を鳴らせ。そして、心の中で謝り続けろ。それだけじゃ」


 桐島は、鈴を受け取った。


「そろそろ、時間じゃ」


 外を見ると、太陽が西に傾き始めていた。山の端に、オレンジ色の光が差している。もうすぐ日が暮れる。


「では、行くがよい。そして、必ず生きて帰って来い」


 志水の言葉に、桐島は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、帰ってきます」


 桐島は、竹籠を背負い、家を出た。志水は、玄関先で見送ってくれた。その姿が、夕陽に照らされている。

 桐島は、振り返ることなく、山へと向かった。



   * * *



 夕暮れの山道を、桐島は一人で登っていた。白い着物が、風に揺れる。竹籠を背負った姿は、まるで巡礼者のようだった。昨日と同じ道。だが、今日は一人だ。志水はいない。助けてくれる者は、誰もいない。

 鳥居をくぐる。その瞬間、またあの感覚。空気が変わる。冷たく、重い。だが、今日は昨日ほど恐怖を感じない。覚悟が、恐怖を上回っている。

 登山道を登る。薄暗くなってきた森の中。木々の影が、長く伸びている。だが、桐島は立ち止まらない。ただ、前に進む。足を踏み出すたびに、落ち葉が音を立てる。その音だけが、静寂の森に響いている。


 やがて、視界が開けた。本殿跡。コスモスの花々が、夕陽に照らされて赤く輝いている。その美しさは、昨日と変わらない。だが、今日は、その美しさを恐れない。これから、ここで一晩を過ごす。その覚悟が、桐島を支えている。

 夕陽は、山の端に沈もうとしていた。空は、オレンジから紫へ、そして深い藍色へと変わりつつある。時間がない。日が沈む前に、準備を整えなければ。


 桐島は、本殿跡の中心へと歩いた。コスモスの花を踏まないように、慎重に足を進める。だが、昨日のような激しい体調不良は起きない。ただ、わずかなめまいと、軽い吐き気。それだけだ。

 身体は、すでにこの場所に慣れ始めているのか。それとも、症状が進行しているのか。桐島には分からない。ただ、前に進むだけだ。


 礎石の前に着いた桐島は、竹籠を下ろし、中から蝋燭を取り出した。太い白蝋燭が、三本。それを礎石の上に立て、火を灯す。マッチを擦ると、小さな炎が生まれる。その炎を蝋燭に移すと、オレンジ色の光が、静かに揺れ始めた。

 一本、二本、三本。三つの炎が、闇に抗うように燃えている。次に、塩を取り出した。白い塩を手に掴み、自分の周囲に撒いていく。東西南北、四方に。円を描くように。結界を作る。

 志水が教えてくれた通りに。塩の粒が、地面に落ちて白い線を作る。その線が、自分を守ってくれる。そう信じるしかない。線香にも火を灯した。香りが、立ち上る。その香りが、どこか心を落ち着かせてくれる。煙が、ゆっくりと空へ昇っていく。


 準備はできた。桐島は、塩で作った円の中に座った。正座をする。背筋を伸ばす。手を膝の上に置く。そして、目を閉じた。心の中で、謝り始める。どうか、許してください。二度と、立ち入りません。どうか、怒りを鎮めてください。同じ言葉を、何度も、何度も繰り返す。声には出さない。ただ、心の中で唱え続ける。それが、志水の教えだった。


 太陽が沈んでいく。空がオレンジから紫に、そして藍色に変わっていく。やがて、闇が訪れた。月はない。新月に近いのだろう。星の光だけが、わずかに空を照らしている。蝋燭の炎が、唯一の光源だった。その小さな光が、桐島の周囲をかろうじて照らしている。その先は、深い闇。

 コスモスの花々は、闇の中で見えない。だが、そこにあることは分かる。無数の花が、自分を囲んでいる。風に揺れる音が、かすかに聞こえる。

 だが、風は感じない。花だけが、動いているかのようだ。


 桐島は、謝り続けた。どうか、許してくださいと。

 次第に時間の感覚がなくなっていく。どれくらい経っただろうか。一時間か、二時間か。分からない。ただ、謝り続ける。

 足は、とっくに痺れている。最初はわずかな痺れだったが、次第に激しくなり、今では感覚がない。腰も痛い。背中も痛い。だが、動かない。動いてはいけない。志水は言った。どんなことが起きても、その場を離れるな、と。

 その時、蝋燭の一本が消えた。風もないのに。桐島は目を開けた。暗闇が一層濃くなった。残る蝋燭は二本。その光は、さらに弱々しく見える。

 だが、志水は言った。消えても、また灯せばいい、と。桐島は、マッチを取り出し、消えた蝋燭に火を灯した。マッチを擦る。一度目は失敗。二度目で火がつく。その小さな炎を、蝋燭の芯に近づける。芯が火を受け取り、再び燃え始める。炎が、再び揺れる。桐島は、再び目を閉じた。謝り続ける。


 再び時間が過ぎていく。そして、また蝋燭が消えた。しかも今度は二本同時に。闇が、桐島を包んだ。残る蝋燭は一本だけ。その光は、あまりにも小さい。まるで、闇に飲み込まれそうなほどだ。

 

 桐島は、再びマッチを取り出した。


 だが、手が震える。マッチを擦っても、火がつかない。風もないのに、すぐに消えてしまう。何度も、何度も試す。マッチが、一本、また一本と無駄になっていく。ようやく、一本に火がついた。

 だが、もう一本の蝋燭になかなかつかない。


 マッチが、残り少なくなってきた。桐島は、焦りを感じた。

 深呼吸をする。


(落ち着け。慌てるな)


 そして、ようやく、二本目にも火がついた。三本の蝋燭が、再び揺れる。


 桐島は、再び目を閉じた。謝り続ける。だが周囲の気配が変わってきた。何かが、近づいてくる。それも複数の気配。

 桐島は、目を開けなかった。見てはいけない。志水は言わなかったが、桐島は直感的に理解していた。見れば、恐怖に負ける。そして、逃げ出してしまうだろう。

 気配は、さらに近づいてくる。塩の円の外、すぐそこに。地面を這う音がする。いや、地面の下から何かが這い上がってくるような音。


 桐島は、ポケットから鈴を取り出し、それを振る。清らかな音が、闇に響く。気配が、わずかに遠のく。だが、完全には消えない。まるで、様子を窺っているかのように。

 桐島は、鈴を鳴らし続けた。そして、心の中で謝り続けた。どうか、許してくださいと。



   * * *



 時間が過ぎていく。蝋燭は、何度も消えた。その度に、桐島は灯し直した。だが、マッチはとうとう尽きた。最後の一本を使い切ってしまった。

 桐島は、一瞬、絶望を感じた。蝋燭が消えたら、もう灯せない。完全な闇の中で、夜明けまで過ごさなければならない。


 だが、その時桐島は気づいた。最後の蝋燭から、他の蝋燭に火を移すことができる。桐島は、慎重に、燃えている蝋燭を傾けた。溶けた蝋が、垂れる。そして、その炎を、消えた蝋燭の芯に近づける。芯が、火を受け取る。一本、また一本。三本すべてが、再び燃え始めた。


 そして、夜は続いた。長い、長い夜。桐島は、ただ座り続けた。正座をしたまま。足は、とうに感覚を失っていた。腰も、背中も、痛い。だが、動かない。動いてはいけない。謝り続ける。気配は、何度も近づいてきた。その度に、鈴を鳴らした。その度に気配は遠のいた。

 だが、完全には消えない。まるで、桐島が諦めるのを待っているかのように。蝋燭は、短くなっていく。あとどれくらい持つだろうか。夜明けまで、持つだろうか。

 桐島は、不安を感じた。だが、信じるしかない。志水を。神を。そして、自分自身を。


 そして、ついに。東の空が、わずかに明るくなってきた。夜明けが近い。気配は、いつの間にか消えていた。コスモスの花々が、朝の光の中で、再び姿を現し始めた。その美しさは、変わらない。

 だが、桐島には、もう恐ろしく見えなかった。ただ、美しい花。それだけだ。太陽が、山の端から昇ってくる。その光が、本殿跡を照らす。コスモスの花々が、朝露に濡れて輝いている。



 桐島は、ゆっくりと目を開けた。夜が、明けた。一晩、過ごすことができた。志水が言った通り、最後までその場を離れなかった。そして今、自分は生きている。蝋燭は、まだ燃えている。この分だと、もうすぐ尽きるだろう。

 桐島は、蝋燭を吹き消した。朝日は昇り、儀式は終わったのだ。


 桐島は、立ち上がろうとした。だが、足に力が入らない。感覚がない。

 桐島は、手で足を揉んだ。血が、戻ってくる。痺れが、じんじんと痛む。少しずつ、感覚が戻ってくる。

 そんなこんなで、ようやく立ち上がることができたがふらつく。なんとか竹籠を背負い、塩の円から出る。


 不思議なことに、体調が良くなっているのを感じた。頭痛が消えている。吐き気もない。倦怠感も、まるで嘘のように消えている。儀式が効いたのだろうか? 神が、許してくれたのだろうか?

 桐島は、礎石に向かって深く頭を下げた。


 その後、桐島は山を下り始めた。朝日に照らされた登山道は、昨夜とはまったく違って見えた。明るく、穏やかで、普通の山道。恐ろしさは、どこにもない。

 鳥のさえずりも聞こえてくる。昨日までは聞こえなかった、生き物の声。森が、生き返ったかのようだ。



   * * *



 桐島は村に戻ると、志水の家で少し休んだ。志水は、桐島が無事に戻ってきたことを喜んでくれた。


「よくやった。これで、あんたは救われた」


 志水の声には、深い安堵があった。桐島は、朝食を用意してもらった。昨日とは違い、驚くほど食欲があった。ご飯を何杯もおかわりし、味噌汁も飲み干した。身体が、栄養を求めている。昨日まで、何も食べられなかったのに。今は、何でも美味しく感じる。


「もう、大丈夫じゃ。すぐに東京に戻れ。そして、二度とこの村には来るな」


 志水の言葉に、桐島は深く頭を下げた。


「本当に、何から何までありがとうございました!」

「礼には及ばん。これが、わしの務めじゃ」


 志水は、玄関まで見送ってくれた。


「……あんたは、記事を書くのじゃろう。だが、一つだけ頼みがある」

「何でしょうか」

「この村に、これ以上人を呼ばんでくれ。ここは、人が来るべき場所ではない。あんたは運が良かった。だが、次に来る者が同じように救われるとは限らん」


 桐島は、その言葉の重みを感じた。それはつまり、志水がもう長くないという事だからだ。


「……分かりました。考慮します」


 だが、桐島の心の中では、すでに記事の構成ができ上がっており、手帳にも大まかな内容は書き込んである。

 この体験は、余すことなく書く。読者に、この恐怖を伝える。それが、記者としての使命だ。カメラに収めた、あの異様なコスモスの花。それを、世に出す。


 車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに、志水の姿が映る。老人は、じっと手を振ることもなく、ただ立っている。その姿が、次第に小さくなっていく。

 桐島は、村を後にした。



   * * *



 高速道路を、桐島は東京に向けて車を走らせていた。

 体調は良好だった。頭もすっきりしている。昨日までの倦怠感も嘘のように消えている。本当に、儀式が効いたのだろうか。

 科学的には説明できないが、事実として、自分は回復している。足の痺れも、もう完全に取れた。腰の痛みも、背中の痛みもない。憑き物が落ちたように、まるで何事もなかったかのようだった。


 カーラジオからは、ニュースが流れている。政治の話、経済の話、芸能の話。日常のニュース。それが、どこか新鮮に感じられる。

 自分は、日常に戻ってきたのだ。あの異様な村から、あの恐ろしい山から、逃れてきたのだ。もう、二度と戻ることはない。志水との約束は、守らないかもしれない。だが、自分自身のために、あの村には二度と近づかないだろう。


 高速道路の両脇には、秋の景色が広がっている。紅葉し始めた木々、刈り取られた田んぼ。そして────




 路肩に、コスモスの花。




 淡いピンク、白。普通のコスモス。どこにでもある、ありふれた花。村に向かう時にも見た、あの花。

 その花を見た瞬間、桐島をめまいが襲った。激しい、突然のめまい。世界が、ぐらりと傾く。


 桐島は、ハンドルを握る手に力を込めた。だが、力が入らない。視界がぼやける。それに吐き気。激しい吐き気が、胃の底から込み上げてくる。


「な、何で……治ったはずなのに……!」


 桐島の声が、震える。車は、ふらふらと蛇行し始めた。他の車が、クラクションを鳴らす。桐島は、路肩に寄せようとする。だが、身体が言うことを聞かない。

 視界が、どんどん暗くなっていく。


 コスモス。


 路肩に咲くコスモスが、視界いっぱいに広がっていく。増えていく。無数に。









 その直後、桐島の車は中央分離帯に激突した。





   * * *



 出版社『深淵』の編集部。デスクに座る田村は、桐島の葬儀から戻ったばかりだった。急性白血病による意識喪失による事故死。それが医師の診断だった。

 だが、あまりにも急激な死だった。つい一週間前まで元気に取材に出かけていた男が、突然倒れ、数日で亡くなる。そんな物語のような事が身近に起きるとは……。


 田村は、桐島のデスクを見つめた。遺品整理された机の上には、取材用のノート、手帳、カメラ、そして一枚の写真が残されていた。写真には、コスモスの花が写っていた。異様なほど鮮やかな赤い花。その美しさと不気味さに、田村は目を奪われた。


 これは、どこで撮ったものだろうか。桐島の最後の取材。どこかの廃村。そこで撮影したものに違いない。


「編集長、いいですか?」

「どうした沢木?」

「この記事どうでしょうか」


 部下の記者、沢木が、原稿を持ってきた。


「海外のオカルト情報をまとめたんですが」

「どれどれ」


 田村は、沢木の原稿に目を通した。UFO目撃情報、超常現象、そして一つの記述が、田村の目に留まった。


[冷戦時代、ソ連は多数の偵察衛星を打ち上げていた。その中には、コスモス型と呼ばれる原子力衛星も含まれていた。これらの衛星は原子炉を動力源としており、制御を失った場合、放射性物質を地上に撒き散らす危険性があったが、それは現実のものとなる。1978年1月、コスモス954号がカナダに墜落し、広範囲が放射能汚染された事件は有名だが、実はそれ以外にも、行方不明になったコスモス型衛星が複数存在するという。近年、アメリカ合衆国の情報公開法に基づき機密解除された文書によれば、1978年前後、日本付近の山岳地帯にも、未確認の衛星破片が落下した可能性があるという。当時のソ連政府も日本政府も公式には否定しているが、一部の研究者は、その落下地点が日本の山間部ではないかと推測している]


「どうですか?」

「またお得意の陰謀論か? 確かに新規読者の食いつきは良いが、桐島もそういうのは控えた方が良いって言ってただろ?」

「は、はい」

「それに、陰謀論ばっかだと定期の読者も離れかねない。記事は面白いけどな」

「今回これを出そうと思ったんですけど」

「う〜ん……この記事、今回の特集にはふさわしくないな。もっと桐島みたいな怪談寄りの内容にしてくれるか?」

「わかりました」


 田村は、原稿を沢木に返した。


「そういえば、桐島さんの記事どうするんですか?」

「ああ……あいつの遺作だ。次号の巻頭特集で行こう」


 田村は、桐島が残した手帳を開いた。そこには、廃村での体験が詳細に記されていた。志水という老人との会話、山での出来事、そして異様なコスモスの花。

 しかもマメな桐島らしく、大まかな構成や内容まで書いてある。このまま記事に使えそうだ。


「『禁域のコスモス〜ある山村を襲った祟りの記録』というタイトルでどうだ?」

「いいですね。このコスモスの写真も使いましょう。不気味だけど、不思議と引き込まれる美しさがあります。さすが桐島先輩です」

「お前も桐島を見習えよ? 本当、いい記者を亡くしたな……」


 窓の外、出版社の前の小さな花壇に、コスモスが風に揺れていた。田村はふとそれに目をやったが、すぐに仕事に戻った。



   * * *



 数週間後、『深淵』最新号が発売された。表紙を飾るのは、桐島が撮った血のように赤いコスモスの花。その記事は、読者の間で大きな反響を呼んだ。


「本物の祟りだ」

「写真から呪いを感じる」

「あの村に行ってみたい」

「記者が命を落としたって本当かよ」


 様々な声が、編集部に届いた。

 編集部では、最新号の発売日に桐島を偲ぶ為の黙祷が行われた。桐島の最後の記事は、読者の大盛況をもって幕を閉じた。





   * * *



 夕暮れの山頂に、志水玄道は一人座っていた。コスモスの花々に囲まれて、本殿跡の中心で、老人は祈りを捧げている。声はかすれ、途切れがちだった。だが、それでも祈り続ける。何十年も、何百回も唱えてきた祈りの言葉を。

 志水の身体は、もはや限界を超えていた。抜け落ちた髪は、ほとんど残っていない。皮膚には、紫と黒の斑点が全身に広がっている。手も、足も、痩せ細って骨と皮だけのようになっている。呼吸をするたびに、胸が痛む。喉の奥からは、血の味がする。

 だが、死期を悟った志水は祈り続けた。これが、最後の務めだ。


 桐島は、あの後無事に東京に帰ったはずだ。あの若者は、儀式によって救われた。神は、彼の真摯な祈りを受け入れてくださった。志水は、そう信じていた。

 実際、桐島が村を出る時、彼の顔色は良くなっていた。食欲も戻り、元気に見えた。きっと今頃、東京で記事を書いているだろう。あの体験を、世に伝えているだろう。


 志水は、それで良いと思っていた。自分が救えなかった村人たちの無念。その全てを、背負うことはできない。だが、せめて一人。せめて桐島だけでも、救うことができた。それが、志水にとっての、わずかな慰めだった。

 コスモスの花々が、夕風に揺れている。秋も深まり、花の季節は終わりに近づいている。だが、この場所の花だけは、まだ咲き続けている。異様なほど鮮やかに、異様なほど生命力に満ちて。


 志水は、その花々を見つめた。美しい花だ。だが、その下に、何が眠っているのか。神なのか。それとも、何か別のものなのか。

 志水はふと、この数十年間の疑問を思い出した。村を襲った祟り、あれは本当に神の仕業なのだろうか。


 平安の昔から語り継がれてきた、天から降ってきた疫病の神。それは、本当に神なのだろうか。志水は、神職として、それを疑ってはならなかった。代々受け継がれてきた教えを、信じなければならなかった。

 だが、心の奥底では、常に疑問があった。もし、神ではなかったら。もし、何か別のものだったら。


 だが、その答えを知ることは、もうできない。


 志水の時間は、尽きようとしていた。祈りの声が、途切れた。もう、続けることができない。志水は、ゆっくりと前に倒れ込んだ。コスモスの花々に、顔を埋めるように。その瞬間、不思議な平安が、志水の心を満たした。

 長い、長い務めが、ようやく終わった。夕陽が、山頂を赤く染めている。志水玄道は、その光の中で、静かに息を引き取った。







 秋の風が吹き抜け、コスモスの花弁が舞い散っていく。志水の遺体は、花々に囲まれて横たわっている。その顔は、穏やかだった。苦しみも、恐怖もない。ただ、安らぎだけがあった。夕陽が沈み、山頂は薄暗くなっていく。




 その薄明の中で、コスモスの群生の中心、志水の遺体のすぐ傍らに、はあった。




 円筒形の、金属製の物体。長さは一メートルほど。直径は五十センチほど。表面は焼け焦げ、歪んでいる。明らかに、極度の熱にさらされた痕跡がある。金属は、所々溶けて変形し、亀裂が入っている。そして、その表面には、文字が刻まれている。

 キリル文字。風化して判読しづらくなっているが、ロシアなどの東欧諸国で用いられているその文字の下には何かの番号らしきものが見える。だが、それらは焼け焦げて完全には読めない。



 その物体は、半ば土に埋もれていた。長年、この場所にあったのだろう。コスモスの根が、その周囲に絡みついている。

 まるで、花々がこの物体を守っているかのように。あるいは、封じ込めているかのように。


 月が昇り、その青白い光が金属の表面を照らす。鈍く、不気味に光るその物体。

 それは、かつて衛星の原子炉だった。数十年前に制御を失って大気圏に突入し、この山に墜落したソビエト連邦製の偵察衛星、その心臓部。原子炉を格納していたカプセルだ。

 それが、ここに何十年も眠り続けていた。放射性物質を内包したまま、見えない死を撒き散らしながら。


 志水が「神」と呼んだもの。村人たちを死に追いやった祟り。それらは人間が作り出した、科学の産物だった。だが、それを知る者はもういない。







1962.3.16

 ソビエト連邦、最初のコスモス衛星:コスモス1号打ち上げ。軌道到達に成功。



1967.12.27

 ソビエト連邦、ウラン235を動力とする原子炉搭載衛星:US-A海洋偵察衛星(RORSAT)の運用を開始。



1973.4.25

 ソビエト連邦、コスモス555号(ゼニット6M)の打上げに失敗。原子炉が日本北方の太平洋に落下し。放射線がアメリカ合衆国のエアサンプリング航空機によって探知。



1978.1.24

 コスモス954号、トラブルにより原子炉部分の高軌道投入に失敗。大気圏に再突入後、放射性物質を含んだ残骸がカナダ北西部に落下。

 同日からアメリカ、カナダ合同による除染作業「オペレーション・モーニングライト」開始。



1978.10.15

 「オペレーション・モーニングライト」フェーズ2終了。なお、回収できた核燃料は全体の1%程度。多くの破片は、現在も行方不明。



1983.1.23

 コスモス1402号、ミッション終了後の原子炉心の切り離しに失敗。インド洋のディエゴガルシア島の南方数百マイル地点に落下。




※本作品はフィクションです。登場する人物、団体、事件のはすべて架空のものです。なお、コスモス型衛星は実在する衛星群であり、原子炉を搭載した衛星も実在するものです。

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