『優しいでしょう?わたし』

志乃原七海

第1話# 短編エピソード:奥飛騨、雨音とスコップの音



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### 第1章:雨中の共犯者


激しい雨が、奥飛騨の険しい山々を叩きつけていた。稲妻が遠くの空を裂き、雷鳴が大地を揺るがす。そんな荒れ狂う自然のなか、土砂にまみれ、汗と雨でびしょ濡れになった男女がいた。建人と夏美だ。


彼らの顔には、疲労と、それ以上に、切羽詰まった焦燥感が滲んでいた。


「くそっ、雨が止まねぇ…!」


建人が、短く刈り込んだ髪に雨粒を光らせ、懸命にスコップを地面に突き立てた。その腕は力強く、しかしどこか震えている。隣で、夏美も、細い手で懸命に土を掘り起こしていた。彼女の着ている服は泥で汚れ、顔に張り付いた髪を乱暴に払いのける仕草は、もはや悲痛とも言える。


二人が掘り進める穴は、次第に深くなっていく。その穴は、人間が横たわるには十分な広さと深さがあった。そして、その穴に沈められるべき「何か」が、二人の心に重くのしかかっていた。


数時間前、東京の片隅で、激情の渦中、建人の浮気相手、ありさが、命を落とした。夏美は、建人を奪われかけた怒りと悲しみ、そして絶望から、衝動的に手を下してしまったのだ。


「…ごめん…夏美…俺が…」


建人が、穴の縁に座り込み、顔を覆った。雨粒に紛れて、彼の頬を濡らすものが何なのか、それは涙か、あるいはただの雨か、定かではなかった。


「…謝らないで。」


夏美は、冷静な声で答えた。しかし、その声の震えは隠しきれない。


「…これは、私たちが…二人で、背負うものだから。」


彼女は、泥にまみれた手で、夫の腕をそっと握った。その手は、温かいというよりは、冷たいというべきだろうか。


やがて、穴は完成した。建人は無言で立ち上がり、少し離れた場所に停めた車の後部座席に向かう。ブルーシートに包まれた、人間だったもののシルエット。彼はそれを、まるで荷物のように担ぎ上げた。想像を絶する重さが、彼の腕と、そして心に食い込む。


穴の縁まで運び、乱暴に転がし落とす。ごすっ、と鈍い音が、雨音にかき消された。その瞬間、稲妻が走り、一瞬だけ穴の底が白く照らし出される。シートの隙間から覗く、ありさの虚ろな瞳と、建人が見間違えるはずのないネックレス。彼がプレゼントしたものだった。


建人は衝動的に穴に滑り込み、そのネックレスを力任せに引きちぎった。冷たい肌の感触に吐き気を催しながら、彼はそれを固く握りしめ、ズボンのポケットにねじ込む。夏美が何か言いたげに彼を見ていたが、雷鳴がその場の全てを飲み込んだ。


土を戻す作業は、掘る時よりもずっと早かった。二人はまるで何かに憑かれたように、無心で土をかけ続けた。やがて、そこにはただの濡れた地面だけが残された。


全ての作業を終え、二人は車に戻った。エンジンをかけると、暖房の生温かい風が、凍えた体を気怠く撫でる。ワイパーが懸命に雨を拭うが、窓の外の闇は晴れない。


沈黙を破ったのは、夏美だった。


「これで、ずっと二人一緒ね」


彼女は建人の肩に頭を預け、囁いた。その声は安堵しているようにも、あるいは呪いをかけているようにも聞こえた。建人は何も答えられず、ただ強くアクセルを踏み込んだ。バックミラーに映る森の闇が、彼らの秘密を静かに飲み込んでいく。


### 第2章:偽りの日常と亀裂の音


東京のアパートに戻ったのは、夜が白み始める頃だった。二人は一言も交わさず、泥だらけの服と靴をゴミ袋に詰め、シャワーを浴びた。鏡に映る互いの顔は、憔悴しきった見知らぬ他人のようだった。


翌朝、嘘のような快晴だった。夏美はいつも通りに朝食の準備をしている。トーストの焼ける匂い、コーヒーの香り。あまりにも完璧な日常の風景が、建人には歪んだ舞台装置のように思えた。


テレビのニュースが、奥飛騨地方を襲った記録的な大雨と、それに伴う土砂災害の危険性を報じている。夏美がコーヒーカップを置くカチャン、という音が、やけに大きく響いた。二人の視線が一瞬だけ交差し、そしてすぐに逸らされる。


会社に行っても、建人の心はここにあらなかった。同僚の「週末、山登りに行ったんだ」という何気ない一言に、心臓が凍りつく。パソコンの画面に浮かぶ文字は意味をなさず、ただ雨音と土の匂いが脳内で繰り返される。


その夜、建人は悪夢にうなされた。暗い穴の底で、ありさが彼を呼んでいる。「どうして助けてくれなかったの」と。彼は叫びながら飛び起きた。隣を見ると、夏美が暗闇の中で静かに目を開けて、彼をじっと見ていた。


「…大丈夫?」


その声には何の感情もなかった。


数日後、夏美が建人のズボンを洗濯しようとした時だった。ポケットの中から、何か硬いものが指に触れた。取り出すと、それは泥に汚れたネックレスだった。ありさがいつも身につけていた、あのネックレス。


夏美はそれを声に出さず、ただ静かに見つめた。なぜ、彼はこれを持ち帰ったのか。感傷か、未練か、それとも…。彼女はネックレスをティッシュに包むと、自分の化粧ポーチの奥深くに、そっとしまい込んだ。そして、何も見つけなかったかのように、洗濯機のスイッチを入れた。


その日から、家の中の空気が変わった。


「今日、帰り遅かったのね」

「ああ、ちょっと残業で…」


ありふれた会話の一つ一つが、尋問と弁明の応酬になった。夏美は建人の行動を細かく探るようになり、建人は夏美の沈黙を恐れるようになった。彼女が黙っている時、彼女が何を考えているのか、建人には分からなかった。あのネックレスのことを知っているのか。それとも、自分が警察に自首するのではないかと疑っているのか。


ある雨の夜、警察から電話がかかってきた。失踪したありさの交友関係を調べている、という事務的な内容だった。建人は心臓を鷲掴みにされるような衝撃を受けながらも、平静を装って「最近は会っていません」と答えた。


電話を切ると、背後に夏美が立っていた。


「うまく、答えられた?」


彼女の目は笑っていなかった。それは夫を気遣う言葉ではなく、共犯者としての能力を値踏みするような、冷たい響きを持っていた。


「当たり前だろ」


建人は吐き捨てるように言った。


「俺たちは、二人で背負うって決めたんだからな」


その言葉は、夏美に向けたものであると同時に、崩れ落ちそうになる自分自身に言い聞かせるための、悲痛な呪文だった。奥飛騨の土に埋めたのは、一つの命だけではなかった。それは、かつて夫婦だった二人の心も、一緒に埋めてしまったのだということを、彼らはまだ、本当の意味では理解していなかった。

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