選ばれた線
済美 凛
選ばれた線
量産体制のなろう系アニメ制作の現場で、原画を描き続ける一人のアニメーターがいる。
彼は企画にも原作選定にも関わっていない。会議室で決まった企画が現場に降りてきて、割り振られたカットを、決められた予算と締切の中で仕上げる。それが彼の仕事だ。
モニターに映るのは、何度も見てきた構図。
異世界に転生した主人公。最初から高い能力値。苦戦しない戦闘。説明のために用意された敵と、予定調和の勝利。
コンテを見るだけで、どこで止め絵にし、どこを省略すれば無難に終わるかが分かってしまう。
作品が放送される前から、どんな評価をされるかも想像がつく。
「また量産なろう」
「テンプレすぎる」
「作画が力尽きている」
SNSに流れるであろう言葉が、まだ放送されていないはずの作品に、すでに影を落としている。
彼は何度も自分に言い聞かせてきた。
これは自分が選んだ原作ではない。
企画を通したのは自分ではない。
選んだのは編集で、決めたのは委員会だ。
自分は、呼ばれたから描いているだけだと。
それでも、作品が「つまらない」と言われるたび、胸に残るのは確かな痛みだった。
線を引いたのは自分の手だ。
動かしたのも、自分たちだ。
責任は分散されていても、画面に残るのは現場の仕事であることを、彼自身が一番よく知っている。
新人の頃、彼は違った。
どんな原作でも、一枚の原画で何かを変えられると本気で信じていた。
一瞬の目線、一呼吸の間、一コマの表情で、キャラクターに命を吹き込めると信じていた。
だから、やりすぎた。
指定以上に動かし、感情を盛り込み、結果として修正され、削られ、意味を失った線だけが残った。
「原作と違う」
「目立ちすぎる」
「無難にしてください」
その言葉を何度も浴びるうちに、彼は学んでいく。
全部を賭ける描き方は、現場では続かないということを。
熱量をそのまま出すほど、削られることも増えていくということを。
今の彼は、最初から線を引く。
どこまでなら直されないか。
どこまでならスケジュールを壊さないか。
どこまでなら、自分が自分を嫌いにならずに済むか。
この物語の中心にあるのは、その「妥協線」だ。
完全に諦めるわけでもなく、全力でぶつかるわけでもない。
誰にも気づかれない一瞬にだけ、ほんの少しの感情を忍ばせる。
勝利が決まっている戦闘の直前に、一瞬だけ迷いをにじませる。
指定された「自信満々の顔」を、「勝たなければならない顔」にわずかにずらす。
それは、評価されるための工夫ではない。
作品を救うための抵抗でもない。
ただ、「何も考えずに描いた仕事」にならないための、彼自身の最低限の誇りだ。
名作にはならないと、彼自身が一番よく分かっている。
円盤が売れ、語り継がれる作品にはならない。
数年後にはタイトルすら忘れられるだろう。
それでも、その一瞬の線だけは、確かに彼が選んだものだ。
その積み重ねが、彼をまだこの仕事に繋ぎ止めている。
やがて彼は気づく。
現場で引かれる妥協線の位置は、作り手だけで決まっているわけではないことに。
どんな作品を「アニメ化する価値がある」と判断したのか。
どんな原作に賞を与え、企画として通したのか。
その一言、その選択が、現場の覚悟の上限を静かに決めていることに。
物語の最後、彼は直接声を上げることはしない。
抗議もしない。告発もしない。
ただ、静かな問いを残す。
この作品を選んだのは誰なのか。
その選択は、現場にどんな線を引かせているのか。
これは、成功譚でも敗北譚でもない。
量産の裏側で、黙って線を引き続ける人間が、完全に折れないために守っている小さな境界線の物語である。
選ばれた線 済美 凛 @slamdank
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