第3話

『―――――――』


 その声は、春のそよ風のように優しく耳に響いた。

 神なのか精霊なのかわからない。男性なのか女性なのかも判別できない。

 ただ、聞き間違いなどないほどに、耳の奥に馴染んでそのまま溶けていくようだった。


 御神託だわ。


 誰からなにかを聞かずとも、レパトロワにはそれがわかった。そして、そのことを神官に打ち明けることなく、胸の内にそっと仕舞い込んだ。


 それはまるで神との間で内緒の約束をしたようだった。だが、自分の考えが過ちではないのだと確信があった。


 神託は、この胸の奥に秘しておこう。その時が来るまでは。


 レパトロワの少し前に祈りを終えたプリムローズが、神託を授かったと周囲にいる人々と話しているのが聞こえていた。


 レパトロワは膝をついて両手を組み合わせた祈りの姿勢から、ゆっくりと頭を上げた。

 目の前には神官がいて、レパトロワを見つめていた。先ほどプリムローズと向き合っていたのも彼である。


 老齢の神官は、一人だけ衣の色が白かった。神官にも身分があり、彼はきっと高位に当たるのだろう。

 寄付や寄進で教会通いには慣れていても、神事を司る神殿に足を踏み入れることは滅多になく、レパトロワはその辺りの認識が疎かった。


 レパトロワは、老神官の澄んだ瞳を見つめて微笑んだ。彼の前にいるだけで、心が清らかになるようだった。


「神はなんと仰いましたか?」


 老神官はそう尋ねてきた。レパトロワの前にいた令嬢にもプリムローズにも、彼は同じ問いかけをしていた。


「なにも」

「⋯⋯ほう、左様でしたか」


 神託を受け取らないのは恥ずかしいことではない。受け取るほうが稀なのであるから、なにもなかったと言って、神官がことさら残念そうにすることはない。

 この神事だって、毎年ある令嬢たちの成人の儀式の締め括りのようなものだった。


 なにも、と言ったレパトロワは、決して嘘をついた訳ではなかった。「なにも、誰にも話すことはない」心の内ではそう言ったのである。


 耳元に響いた囁きは確かにレパトロワが受け取って、そしてそっと胸の内に収めた。神はそれで良いと仰るだろう。


「貴女に神のご加護があらんことを」


 老神官はそう言って、レパトロワの額に指先を伸ばして聖水をつけた。


「ありがとうございます」


 そう言って頭を下げて礼を述べると、神官は「またいらっしゃい」と、孫娘にでもするような気軽なことを言った。



 祭壇から降りると、向こう側にはまだデボラー一家がおり、プリムローズは頬を紅潮させて何事かを話していた。だが、レパトロワが祈りを終えたのを見て、彼女は小走りになってこちらに駆け寄ってきた。


「レパトロワ、どうだった?」

「なにも」

「なにもなかったのね?」


 プリムローズは、「なにもなかった」ことを確かめた。レパトロワはそんな彼女のくるくる目まぐるしく変わる表情が可笑しくて、つい笑って頷いた。


「私、御神託を受けたわ。はっきり聞こえなかったけれど」


 なにを言われたのかわからないのに、御神託だと息巻く姿が可愛らしい。プリムローズは後先考えないところはあるが、そんな彼女のあけすけな無邪気さが、レパトロワは好きである。


「ふふ、おめでとう」

「レパトロワも祝ってくれるのね!」


 そこでプリムローズは、レパトロワの背後に友人の姿を見つけたらしく、またねと言ってパタパタとそちらに行ってしまった。


 両親の姿を探せば、そちらも母が伯母に捕まっていた。プリムローズとよく似た伯母の姿に、レパトロワは再び笑いが漏れた。


 伯母もプリムローズも、全くもって無害な人々である。それ故に、他者の苦悩が目に入らない。

 だから、プリムローズがレパトロワの婚約者と親しく交流していても、それでレパトロワがなにも言わないのだからと気にも止めない。


 レパトロワにしても、全てはレジナルドの行動が起因するものであるから、やっぱり従姉妹は無害だとしか思ってはいなかった。



「さあ、レパトロワ。帰ろうか」


 多忙な父は、今日のために休暇を取っていたのだが、これから仕事に戻るのだろう。

 両親は散々伯母とプリムローズの相手をしていたからか、レパトロワには神託がどうだったか確かめることはなかった。


 兄もまた父と同じく休暇を取って、レパトロワの成人の儀式が滞りなく終わるのを見届けてくれた。


「おめでとう、お前もいよいよレディだな」


 レパトロワと同じ艶のある赤髪に、潤む紺碧の瞳を揺らして、兄はレパトロワに微笑んだ。


「ありがとう、お兄様」


 先を歩く両親の後をついて、兄と並んで歩き出す。


「ああ、アラン殿からもおめでとうとお言葉を頂戴していた」

「まあ。それっていつのお話?デビュタントは先週のことなのよ?」


 そう言えば、兄は「今思い出したんだ」と言って、ハハハと笑った。


 アランとは、父の上司の令息である。兄と父は同じ部署で文官として勤めているのだが、アランもまた兄とは同期にあたる同僚だった。

 二人は春から出仕し始めた新米文官で、生家の爵位に違いはあれど親しく交流をしている。


 兄と並び歩いていると、プリムローズの姿が見えた。まだ彼女は友人たちと歓談中で、その姿にレパトロワはふと婚約者を思い出した。


 プリムローズが神託めいたことを賜った。レジナルドの心変わりは、そう遠くはないだろう。寧ろ、もうすでに変わっているのを認めなければならない。


「お兄様」

「うん?なんだ?」

「いずれ、お兄様にご相談することができるわ」

「ああ⋯⋯」


 兄はすでにレジナルドのことに気がついている。

 それは、婚約者の茶会でカニング伯爵邸にレジナルドを招くと、彼がプリムローズのことを何気に尋ねて、できれば彼女も呼ぼうだなんて言い出したときからのことだろう。


 はしゃぐプリムローズの姿を見て、兄にもレパトロワの憶測が通じたようだった。






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