ウルトラの母はママ
松本章太郎
第1話
娘は最近、毎日のように「ウルトラの母ってね」と話してくる。幼稚園から帰ってくると、私のところへ駆け寄って来ては、ウルトラマンの話をしてくれるのだ。
特にウルトラの母が大好きで、優しくて、強くて、いつも子どもを守ってくれるんだって、きらきらした目で力説する姿を見るたびに、私は「ほんとに好きなんだなあ」と微笑ましくなる。
でも、正直に言えば少しだけ憂鬱でもある。というのも、先日の保護者役員会で「今度の園でウルトラの母が来るイベントをやるのですが、その役をぜひどなたかに…」と先生に言われ、なぜかその流れで私が引き受けることになってしまったからだ。
断る勇気もなく、「あ、はい…」と曖昧にうなずいていると、気がつけば「ウルトラの母役は〇〇ちゃんのお母さん!」と決定事項になっていた。
娘はイベントを心待ちにしている。カレンダーの日付に丸をつけて、毎晩「あと何日?」と聞いてくる。そんなはしゃぎぶりを見れば見るほど、私は複雑な気分だった。
娘が大好きな存在になれるなんて最高に幸せなことのはずなのに、噂に聞く着ぐるみの大変さを思うと胃が痛くなるのだった。
そして当日も、朝から娘は興奮気味に「今日はウルトラの母に会えるんだよ!」と友達に話している。私はその横でぎこちなく笑うしかなかった。
幼稚園に行ってみると、真っ赤と銀色に輝く「ウルトラの母」の着ぐるみが、堂々と鎮座していた。
「これに入るの……?」とつぶやくと、隣にいたママ友の松木さんが苦笑いする。
「いよいよだね。大丈夫、私が手伝うから」と背中を押してくれた。
重そうな頭部、長い手袋、光沢あるブーツ。想像していたよりもずっと「人が着る」という実感を拒む存在感だった。
まずは下半身を入れる。銀色のタイトなスーツに片足を入れた瞬間、ひやっとした冷たさと同時に、肌をぎゅうっと締めつける感触に思わず息を呑む。
「きつい……!」
続いて腕を通して、肩まで引き上げると、まるで全身が厚いゴムの壁で覆われたみたいに重くなる。自分の腕が自分のものじゃなくなったようである。
そして両腕に抱えるほど大きなお面を持ち上げ、慎重に頭を差し込む。
かぶった瞬間、視界は真っ暗になった。中にこもるゴムと布のにおいが強烈で、吐き気が込み上げる。思わず「うっ……」と声を漏らした。
必死に動かすと、ようやく目の下あたりに小さな覗き穴を見つける。そこからかすかに光が差し込み、ようやく「世界とつながった」気がした。だが見えるのは床と足元ばかりで、人の顔は全然映らない。
「いくよ」
松木さんが声をかけ、背中のチャックをぐいっと引き上げる。ジジジ……と響く音とともに、背中が完全に閉じられた。
その瞬間、私は本当に一人きりになった。頭はキチキチで、視線を変えるには、体ごとぐるりと向きを変えるしかない。
「誰か助けて! ここから出して!」と叫びたくなるのを必死にこらえる。
松木さんに手を取られて、ようやく一歩を踏み出す。けれど、ブーツのヒールが予想以上に高く、バランスが取りにくい。「わ……わたし、これ、無理かも」
「大丈夫、子どもたちが待ってるから」
その言葉に支えられ、なんとか足を進めた。
「さあ、もうすぐだよ」――松木さんの声が、重たいマスク越しにかすかに届いた。
私は息を呑む。
見えるのは相変わらず床の一部だけである。
足元のブーツがぎこちなく揺れる。
カチャリ、とドアノブが回る音がする。
ドアが大きく開かれ、眩しい光が覗き穴から飛び込んできた。次の瞬間、耳をつんざくような歓声が押し寄せてくる。
「うわぁーーっ!」「ウルトラの母だぁー!」
子どもたちの黄色い叫び声が、壁を震わせるほどの勢いで広がる。
視界には小さな足がどっと駆け寄ってきて、跳ねる音、笑い声が波のように押し寄せる。私はその場に立ち尽くしながら、「ああ、待っていてくれたんだ」と胸が熱くなった。
「ウルトラの母!」「こっち見てー!」
四方八方から伸びてくる小さな手。私は銀色の手袋をはめた手をそっと差し伸べ、一人ひとりと握手をした。手袋越しにも、子どもたちの熱気が伝わってくる。
「ほんものだー!」「かっこいい!」
汗で苦しいはずなのに、不思議と笑みがこぼれるのを感じた。
その小さな視界の片隅に、見覚えのあるリボンの色が見えた。娘だ。
狭い視界の中で、娘の顔がどんどん近づいてくる。頬を赤らめ、瞳をうるませながら、両手を精いっぱい伸ばして「ウルトラの母!」と呼ぶその声が心に響いた。
私はゆっくりと膝を折り、彼女の目線に合わせる。ごつい銀色の手袋の手で、そっと頭を撫でる。髪の感触はほとんど伝わらないけれど、撫でた瞬間の娘のとびきりの笑顔がすべてを教えてくれる。
私は思い切ってその小さな体を抱き上げた。着ぐるみは窮屈で、腕はぎこちなく、視界も狭く、体勢を保つのも大変だ。それでも娘を胸に抱いた瞬間、全身に不思議な力が満ちていく。
「わぁぁぁ……!」
娘の口からこぼれた感嘆の声が、歓声に混じって響いた。彼女の細い腕が私の首元にぎゅっと回される。その温もりが、厚いスーツの壁を突き抜けて、まっすぐ心まで届いた。
私はゆっくりと立ち上がる。重いマスクの奥で、目頭が熱くなる。
これは、私にとっても夢のような瞬間だ。
どこか切ない気持ちを抱えながらも、私は娘をぎゅっと抱きしめた。あまりにその慣れた手つきだったせいか、他のママたちの中には「もしかして…」と気づいた人もいたようだった。
周りの子どもたちも「いいなぁ!」「抱っこしてほしい!」と口々に叫ぶ。その声が笑い声と拍手に変わり、教室全体が祝祭のようにきらめいていた。
午前の出番を終え、着ぐるみからやっと解放された私は、控室で呼吸を整え、娘の待つ教室へ向かった。
一緒にお弁当を広げ食べ始める。娘はにこにこと笑顔を浮かべ、待ちきれないというように喋り始めた。
「ねえママ! 聞いて聞いて!」
「ウルトラの母がね、わたしのところに来てくれて、頭をなでてくれたの! それでね、ぎゅーって抱っこしてくれたの!」
目をきらきら輝かせ、手振り身振りで「こんなふうに!」と抱っこの再現をしてみせる。
「そっかぁ、よかったねぇ」
私の言葉はそれだけ、でも、心の中では「それ、ママなんだよ」と叫びたくてたまらなかった。
「ほんとにね、すっごく優しかったの!あったかくて、大きくて……。わたし、嬉しくて泣きそうになっちゃった」
娘の声は弾み、頬は興奮で赤く染まっていた。
「それにね、ウルトラの母ってすごく強そうなのに、抱っこしてくれたときはやさしいの。わたし、ずーっと覚えてたいって思った」
その言葉を聞いて、私は胸の奥が熱くなる。
息ができない苦しさ、足元しか見えない恐怖、こらえきれない吐き気、それら全部が、今はこの子の笑顔のための道だったと気づいた。
「ねえママ、ウルトラの母って泣いてたの。なんでだろう?」
娘は不思議そうに首をかしげる。
私は一瞬言葉に詰まり、そして笑顔で答えを濁した。
「そうなんだ……きっと嬉しくて涙が出たんじゃないかな」
本当は、あの涙はマスクの中にたまった私の汗が覗き穴から滴り落ちていたのだ。
おにぎりを頬張りながら、娘は何度も何度も同じことを繰り返し語った。
「抱っこしてくれたの!」「あったかかったの!」「泣いてたの!」
その無邪気な声を聞いているだけで、体の疲れや苦しさがすべて溶けていくようだった。
ただ、昼休みの終わりに、娘に「一緒に写真撮ろうね」とせがまれると、私は返事に困った。
ウルトラの母に変身しなければならないことを恨めしく思い、松木さんにでも代わってもらおうかとも考えたが、あの過酷な着ぐるみを大切なママ友に押しつける気にはやはりなれなかった。
午後の出番が迫ってきた。また、あの銀と赤のスーツを身にまとう。汗で湿ったインナーを着直す瞬間の冷たさに身震いしながらも、子どもたちの笑顔を思い出して自分を奮い立たせた。
背中のチャックを引き上げられると、また視界が暗転し、息苦しさが戻ってくる。
園児たちが一列に並び、順番にウルトラの母と肩を並べて写真を撮る。
小さな手を握り、頭をなでると、シャッター音と共に歓声があがる。
次から次へと押し寄せる子どもたち、汗はさらに流れる。
視界は狭く、誰がどの子かもはっきりとはわからない。ただ「今この子を喜ばせている」という実感だけが、暗闇の中の私を支えていた。
その合間、私は覗き穴の隙間から必死に娘の姿を探していた。「午後は一緒に写真撮ろうね」と言われた約束が胸に重く残っている。
けれど、狭い視界に彼女の姿はなかなか映らない。ようやく見つけたとき、娘は少し離れた場所でぽつんと立っていた。
ほかの子どもたちが順番に並ぶ列をじっと見つめながら、時々こちらに視線を向けては、うつむいてしまう。
私は声をかけることも、手を伸ばすこともできない。ただ園児を抱き寄せ、笑顔を振りまく“ウルトラの母”でいるしかなかった。
「ごめんね、今行くから。あと少し待ってて」
視界の端に見える娘はだんだんと寂しげな表情に変わっていく。
ようやく最後の園児との撮影を終えたときには、娘の姿はもう列の中にはなかった。
着ぐるみから出してもらい、娘のもとに駆け寄ると、娘は涙をためた顔で言った。
「どこに行ってたのよ! 一緒に撮りたかったのに……」
小さな声が震えていた。その言葉に返す言葉を失い、私はただ強く抱きしめるしかなかった。
「私は、ずっとそばにいたんだよ。ウルトラの母として、あなたのことをずっと見守っていたんだよ」
心の中でそうつぶやきながら、娘の涙をぬぐった。冷たい素手の感触が、ごつい手袋越しに撫でたときとは違って、確かな温もりを伝えてくれる。
汗に濡れた私の腕の中で、娘は少しずつ落ち着きを取り戻した。嗚咽がやがて呼吸に変わり、私の胸に顔を埋めながら静かになっていく。
帰り道、娘は不機嫌そうに口を尖らせていたけれど、手をつなぐ力はしっかりしていた。
きっといつか、この日のことを思い出すだろう。娘にとっては「憧れのウルトラの母に会えた日」として。そして私にとっては「娘の笑顔と涙に胸を揺さぶられた日」として……。
ウルトラの母はママ 松本章太郎 @Kac3gtdsty
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