蛍火

@kagerouss

第1話

10年ぶりに帰る祖母の家は、思っていたよりもずっと傷んでいた。玄関の鍵を開けると、畳と古い木の匂いが鼻をついた。廊下の床は歩くたびにきしみ、障子の一部は破れて陽が差し込んでいた。


その晩、私は一人、亡くなった祖母の遺品整理を始めた。仏壇の前に新しい花と線香を供え、手を合わせる。


「おばあちゃん、戻ってきたよ。しばらく、ここにいるね」


整理をしていると、仏壇の奥から、古びた桐の箱が出てきた。蓋を開けると、黄ばんだ写真や手紙がぎっしりと詰まっていた。両親の結婚式の写真、祖父の若い頃の姿、そして、私が赤ん坊だったころのスナップ。


一枚の風景写真に、私は目をとめた。蛍が飛び交う夜の川辺。光に照らされたその中に、小さな女の子が立っていた。白いワンピース、肩までの黒髪、幼い顔立ち。どこかで見たような気がしたが、思い出せない。逆光で顔はぼんやりとしているが、私とよく似ていた。


写真の裏に、見慣れた祖母の筆跡があった。


――「美咲と私、最後の夏」


美咲? 親戚にそんな名前、いただろうか。いや、記憶にない。私はアルバムをめくり、もう一度その名前を探したが、他には見つからなかった。


違和感を覚えながら、今度は祖母の机の引き出しを開ける。奥の方に、革表紙の分厚い日記帳が入っていた。ページをめくると、祖母の几帳面な文字が並ぶ。庭の手入れ、味噌の仕込み、近所の仲が良かった熊谷さんの話。どれも何気ない日常の記録だ。


だが、ある年のページだけ、文字の乱れが目立った。インクが滲み、筆跡が震えている。


「今日、双子の儀式が行われた。村のためには必要なことだと分かっていても、美咲を……」


その先は破られていた。無理やりページをちぎったようなギザギザの跡が残る。私は手を止めた。双子? 私に姉妹はいないはず。両親も、そんな話は一度もしていなかった。


急に部屋が冷えた気がして、私は日記帳を閉じた。


ふと、縁側のガラス越しに、蛍の光を見た。小さくふわふわと浮く美しい光。時間が立つと同時に増えていく。私が帰ってきたのを歓迎するかのような舞にうれしくなりながら、私はそれをしばらく見たあと、カーテンを閉め布団に入った。


翌日、私は昼前に山道を下り、村の商店街まで歩いた。昔は土産物屋や駄菓子屋が並んでいた場所も、今ではシャッター通りになっている。営業していた数少ない店舗の一つ、「味処 健」の暖簾を見つけたとき、懐かしさと少しの安心が胸を満たした。


店に入ると、カウンターの奥で新聞を読んでいた男が顔を上げた。


「……由紀?」


「うん。久しぶり、健太くん」


幼なじみの健太は、昔と変わらぬ笑顔で私を迎えた。小中学校の同級生で、高校まで一緒だった人だ。私が東京に進学したあとも、彼は地元に残り、父親の食堂を継いだと聞いていた。


「祖母さんのこと、大変だったな。東京はどう?元気でやってる?」


「なんとかね。懐かしくて、寄ってみたの。ざるそばと、おにぎりもお願いできる?」


注文を伝えると、健太は手際よく調理に入りながら、ぽつりぽつりと村の近況を語ってくれた。過疎化が進んでいること。同級生のほとんどが出ていったこと。そして、この頃また妙な話が村に流れているということ。


「……昨日、祖母の家の庭で蛍を見たの。八月の終わりにしては、たくさん飛んでて」


その言葉に、健太の手が止まった。彼はそばの鍋を見たまま、少しの間、黙っていた。


「……最近、その話、時々聞くよ。季節外れの蛍が出るって」


「珍しいよね。でも、ちょっと不思議だった。光が、なんていうか…普通じゃなくて」


健太は何かを飲み込むようにして、言葉を選んだ。


「由紀、子どもの頃、一緒に蛍狩りに行った川、覚えてる?」


「うん。毎年、夏になると行ったよね。あの河原……」


「近づかない方がいい。特に、夜は絶対に行くな」


声が低くなった。その語気に、私は少し息を呑んだ。


「どういうこと?」


「去年、あの場所で事故があった。観光客が一人、夜中に川で溺れて亡くなったんだ。足を滑らせたって話だけど……でも、なんだか様子がおかしくて。一緒にいた人が、誰かに呼ばれたような気がしたって話してたらしい」


「呼ばれた?」


「……蛍に、導かれるようだったって」


健太はそれきり口を閉じ、視線を落とした。カウンターの上におにぎりとそばが置かれたが、私の食欲はすっかり失せていた。


食事を終えて席を立ったとき、健太は小声で言った。


「由紀、この村にはもう長くいない方がいい。遺品整理が終わったら、すぐ帰れ。……夜になっても、外に出るな。特に蛍を見ても、絶対に追いかけるな」


私はその言葉に頷きながらも、内心ざわついていた。


なぜ、そんなに蛍を恐れているのだろう?


その疑問が、ますます私の好奇心を掻き立てていた。


その晩、私は眠れなかった。


健太の言葉が耳に残っていた。「蛍を追うな」「夜に出るな」。けれど、そう言われるほど、胸の内に広がる不安と疑念が強くなる。


それに――美咲とは誰なのか。


祖母の日記の「双子の儀式」とは何だったのか。


答えが欲しくて、翌朝、私は村の外れにある一軒の古びた家を訪ねた。かつて村の歴史に詳しいと評判だった、村田善一さん。祖母と同世代で、今も一人で暮らしているらしい。


「……ああ、由紀ちゃんか。よく来たね」


しわだらけの手で煎茶を出してくれた村田さんは、最初はにこやかだったが、私が「双子の儀式」と「美咲」という名前を口にした途端、顔色が変わった。


「……その話は、誰から?」


「祖母の日記に、少しだけ書かれていたんです。でも、ページが破れていて」


村田さんはしばらく黙っていた。目の奥で、何かと葛藤するような光が揺れていた。


「……あれは、三十年前のことだ」


ぽつりと、低い声で語り始めた。


「当時、村は大飢饉に見舞われていた。作物は実らず、井戸は枯れ、誰もが明日を恐れていた。そんなとき、古くから伝わる言い伝えが、再び囁かれるようになった。“双子のうち一人を蛍の精に捧げれば、豊穣が訪れる”――と。そのとき村には…一組の双子しかいなかった」


喉の奥がひりついた。


「……反対しなかったんですか?」


「いろんな声があった…。だが、村の長老たちは『村を守るためだ』と押し切った。生贄として選ばれたのは、美咲ちゃん。生まれてわずか三年だった」


頭の中が真っ白になった。


「由紀ちゃん。君には双子の姉がいたんだ。だがその存在は、君が幼い頃に村全体で“なかったこと”にされた。儀式は夜、川辺で行われた。私も……見てしまったよ。無数の蛍の光が、美咲ちゃんの体を包み込んで……そして、それきりだった」


村田さんの目に、深い悲しみが浮かんでいた。


「その後、不思議なことが起きた。空が割れるような雷雨が村を打ち、枯れた田畑に水が戻り、米が実った。それ以来、川には青白く光る蛍が現れるようになった。誰もその蛍を捕らえようとはしない。……それが“約束”だ」


「……その儀式、三十年周期なんですよね?」


私の言葉に、村田さんははっと目を見開いた。


「そうか…今年…三十年になるのか…だから…」


彼は震える手で湯呑みを握りしめ、膝の上で震えていた。


「ごめんなさい、私、もっと早くに来るべきだったかもしれません」


「いや……そういう運命なのだろう」


村田さんはそう言い、視線を遠くに向けた。まるで、その向こうに蛍の群れが見えるかのように。


私は立ち上がり、深く一礼した。胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚を抱えながら、祖母の家へと戻った。


“美咲”。

その名前が、まるで呼吸のたびに心の奥を叩いていた。


その夜、私は灯りをすべて消し、縁側に座っていた。闇に包まれた庭を、ただひたすら見つめる。


月が雲間から顔を覗かせたころ、ふわりと風が吹いた。


そして――青白い光が、ひとつ、庭の奥に揺らめいた。


蛍。


一匹、また一匹と、光が増えていく。まるで誰かの合図に呼応するように、庭の中を漂い始めた。光の色は、通常の蛍の黄緑ではなく、澄んだ冷たい青だった。


私は立ち上がった。足元がふらつく。視線の奥に、ぼんやりとした人影が浮かんだ。


――あれは、人……?


生け垣の向こう、蛍の光が集中する場所に、それはいた。


小さな女の子。白いワンピースを着て、肩までの黒髪を風になびかせていた。顔は暗くてよく見えない。けれどその輪郭に、見覚えがあった。


思い出の底にある、朧げな記憶。

三歳の私。川辺。泣きながら誰かの名前を呼んでいた。

――それは「美咲」。

私の姉の名前だった。


その子は無言のまま、まっすぐこちらを見ていた。青白い蛍が全身を包み、輪郭が淡く滲んでいた。

生きている人間の気配ではない。けれど、恐怖より先に、不思議と懐かしさが胸を満たしていく。


「……美咲?」


名前を呼ぶと、少女の首がかすかに傾いた。そして――ゆっくりと、右手を差し出してきた。


小さな手のひら。何かを求めるような、誘うような仕草。


その瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。


「っ……!」


私は思わずしゃがみ込み、首に手を当てた。じんと熱を持ち、そこが脈打つような感覚がある。ふらふらと立ち上がって家の中に戻り、洗面所の鏡を覗き込んだ。


――そこには、青白い小さな点が浮かんでいた。


肌の下から蛍の光が滲み出るような、異様な痕。


「嘘……」


触れると冷たく、かすかに震えていた。


再び縁側に戻ったとき、庭はもう静かだった。蛍も、少女の姿も、完全に消えていた。ただ、空気にはまだ青白い残光のような気配が漂っている。


私は立ち尽くし、喉の奥が冷えるような思いで空を見上げた。


満月が、あまりにもまぶしく、無言で夜を照らしていた。


その夜、再び庭に蛍が現れた。


昨日よりも数が多い。光は庭一面に広がり、まるで儀式の舞台のようだった。私は縁側に座り、すべてを受け入れる覚悟でその光景を見つめていた。


――美咲が現れる。


そう、直感で感じる。


青白い光が一点に集中し、次第に少女の姿が浮かび上がる。

白いワンピース、肩までの髪、まるで人形のようなあどけなさを湛えた顔。けれどその瞳だけが、異様に澄んでいて、静かに私の心の奥を見透かしているようだった。


「美咲…………なの?」


彼女は黙ったまま、また手を伸ばしてきた。

まるで、私の答えを、三十年も待っていたかのように。


そのとき――。


「由紀!やめろ!」


健太の叫びが響いた。彼は息を切らしながら、庭に駆け込んできた。手には、古びた巻物のようなものを持っている。


「これを!これを結界に……!」


だが、彼が巻物を広げようとした瞬間、蛍の群れが一斉に飛び立ち、健太の周囲を渦巻いた。光が彼の動きを封じるように、空間を歪ませる。


「くそっ……っ!」


彼は叫びながら手を伸ばしてくる。


でも、私はもう、知ってしまった。


美咲のこと。

祖母の苦しみ。

三十年ものあいだ、誰にも知られずに取り残されていた、姉の存在。


私は立ち上がり、美咲のほうへ一歩踏み出す。


「もういいよ。ひとりじゃない。ずっと寂しかったんだよね」


小さな彼女の目に、ふっと光が灯ったような気がした。


私は手を伸ばす。彼女の冷たい手が、私の指先に触れる――その瞬間。


ざあっと、風が吹いた。


蛍の光が爆ぜるように舞い上がり、美咲の姿がぼやけていく。だが彼女の顔は、初めて笑っていた。3歳の子どもが見せる、屈託のない笑み。涙がにじむほど、眩しい笑みだった。


――ありがとう。


誰の声ともつかない、けれど確かに私の胸に届いた言葉だった。


気がつけば、庭には風の音だけが残っていた。


蛍もいない。美咲もいない。巻物を握りしめたまま呆然と立ち尽くす健太の姿だけがあった。


私はそっと手を下ろし、庭の草を踏みしめながら彼のもとへ戻った。


「……終わったのか?」


健太の問いに、私は小さく頷いた。


「うん。たぶん、……終わったんだと思う」


そう言った自分の声が、どこか遠くのもののように感じられた。


それから数日後、私は東京の部屋に戻った。

祖母の遺品整理は終わり、蛍の痕跡もすっかり消えていた。

首筋の青白い点も、もうどこにもない。ただの夢だったのかとさえ思えるほどに、日常は静かで、いつもの景色が戻っていた。


けれど、どこかに、微かなざわめきが残っていた。


祖母の遺影を思い出すたびに、美咲の姿が重なった。

あの夜、手をつないだあの感触は、幻ではなかったと信じたい。


日々の仕事に追われながらも、時折、夢の中に蛍が現れた。

それは美しい光景だった。怖くはなかった。むしろ、どこか懐かしく、切なく、そして…少しだけ、寂しかった。


村田さんの訃報は私が都会に帰って数日後だった。悲しみに暮れるまもなくある晩、テレビから流れるニュースが耳に飛び込んできた。


――「〇〇村で男性が行方不明に。川辺で靴だけが見つかるも、本人の姿は確認されず」


画面には、顔写真が映し出される。


「……健太?」


私は思わず、立ち上がった。


信じられなかった。帰り際、あんなに穏やかに手を振ってくれた彼が、数日前から行方不明になっていたという。


次の瞬間、部屋の電気がふっと消えた。


「……え?」


リモコンも反応しない。部屋の中は、突然の暗闇に沈んだ。私はスマホを手に取ろうとして――ふと、視界の隅に光を感じた。


ゆらり、と何かが揺れる。


部屋の隅で、青白い蛍が一匹、宙を舞っていた。

そして、また一匹。さらにもう一匹。


静かな部屋に、蛍の光が次々と浮かび上がる。やがて、十匹、二十匹と増え、まるであの庭で見た光景が、今この場所で再現されているかのようだった。


「うそ……ここは……マンションなのに…」


思わず後ずさる。けれど、背中が壁にぶつかる。


そのとき、鏡の前を通った。


私は見てしまった。


――鏡に映った自分の姿。

そこには、私の顔ではなく、3歳の女の子の笑顔が浮かんでいた。

白いワンピース。青白い光に包まれた幼い姿。

その口元が、ゆっくりと動いた。


「こっちであそぼ?」


その声が、私の口からも漏れた。


「私たちは、もう一人じゃないよ」


全身の皮膚の下を、蛍の光が流れていくのがわかる。

指先が淡く輝き、空気がざわつく。カーテンが、風もないのに勝手に開いた。


夜の街の向こうに、黒い闇と青い光が広がっていた。


光に染まりゆく中で、私の中に、美咲の声が響いた。


――「次は、あなた」


その言葉が、やさしくも冷たく、私の意識を満たしていった。


そして、東京の夜空に、季節外れの蛍が舞った。


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