第2話 2日に1回の彼女

「どこに行くんですか? 彼氏さん」

「人のいないところだよ! お前が垂れ流す問題発言が広まらないようにな!」

「だったら、いいところにご案内しますが」


 ……というわけで、引っ張っていたのは俺のはずなのに、気付いたら戻坂に案内されていた。

 そうして連れてこられたのは、誰も寄り付かない校舎の隅にある空き教室だ。


 薄暗がりの中にキラキラと埃が舞っていて、いつからそこにあるんだかわからない椅子や机、そしてガラクタたちが俺たちを出迎える。

 そのガラクタに埋もれていた望遠鏡の埃を軽く払うと、戻坂が振り返った。


「かつての天文部の部室だそうです。ちょうど一昨年、ボクたちが入学する前に部員不足で廃部になったそうで」


 こんなに流暢にしゃべる戻坂美遠を見るのは初めてだった。

 一人称が『ボク』なのも今初めて知った。

 どういうキャラ付けなんだそれは、とツッコミたかったが、深く踏み込むとろくなことにならない気がして、俺は気付かなかったふりをする。


 深入りすると……とか。

 今更遅い気もするが。


「……なんでこんなとこの鍵持ってんだよ」

「地学の先生に、天文に興味があると言ったら貸してくださいました」

「星が好きなのか?」

「なかなか悪くないですよ。星空には人間の聡明さと愚かさが両方詰まっていますから」

「天動説だの地動説だの、そういう話か」


 戻坂は窓枠に手をついて、小首をかしげた。

 なんだか、完全に相手のペースになっているような気がする。

 さっさと本題に入るべきだと、俺の危機管理能力が告げた。


「それで? 一体どういうつもりなんだ」

「どういうつもりとは?」

「とぼけるな。なんで俺をいきなり『彼氏さん』なんて呼ぶんだ」

「お名前を名乗ってくださらなかったので」

「俺の名前は――」

「ですが、『彼氏さん』で十分ですよね。ボクの恋人は天地にあなた1人ですから」


 話が通じない――というより、余計な会話を省いているといった印象だった。

 スティーブ・ジョブズは日々の選択の負担を減らすため、同じ服を何着も用意して毎日それを着ていたというが、どこかそれに近いような、普通の人間が手間とも思わないことをカットできる余分だと判断しているような、そういう鋭さが、戻坂の口ぶりにはあった。


 自分の彼氏は1人しかいない。

 だから名前で区別する必要はない。


「……じゃあお望み通り、一番聞きたいことを単刀直入に聞くぜ」


 俺は混乱しそうになる頭を掻きむしって喝を入れながら、


「なんでいきなり俺が彼氏ってことになったんだ」

「彼女ってことにしたのはそちらでは?」

「方便に決まってんだろ。昨日もそう言ったよな?」

「男に二言はない、と言いますよ」


 口元はマスクで隠れていて見えなかったが、目元がかすかにからかうような光を帯びた。 こいつは……思い込みが激しくて、俺の方便を真に受けたわけではないのか。

 どちらかといえば、俺の発言と行動を口実にして、何か意図があって俺を彼氏ってことにした……。


「何がしたいんだ? お前は」

「最終的な目的であれば、セックスですが」

「んがっ……!?」


 あまりにも直接すぎる物言いに、俺は面食らった。

 そりゃ確かに、ゴールの一つではあるだろうけどさあ……!

 戻坂は窓枠から離れると、ゆっくりと俺へ歩み寄ってくる。


「彼氏さん。あなたはどのくらいの頻度で性欲を発散しますか?」


 センシティブな領域にずけずけと入り込んでくるその言葉に、俺は鼻白む。

 そんな俺を、戻坂は覗き込むようにして平然と続けた。


「ちなみに、ボクは2日に一度程度です」

「……っ、ちょ……」

「無駄な行為だと知ってはいるのですが、どうしてもたまらなくなって、ベッドの中でシてしまいます。ご存知の通り、ボクは人間の平均よりも頭脳の出来がいいようなのですが、その時ばかりは猿以下の知能になり果ててしまうのです。男性も同じだと聞いています」


 恥ずかしげもなく、むしろ面白がるように赤裸々に自分の恥部を晒し――戻坂は、その口元を覆っていたマスクを、ゆっくりと下へずらした。

 小さく可愛らしい、花が咲くような桜色の唇が、すべて露わになる。


 マスクという障害物を外した戻坂美遠の顔は、一瞬我を忘れてしまいそうになるほど綺麗だった。

 あるいは、この凶器とすら言える美貌を隠すためにマスクをしていたんじゃないか、と思えるくらいに――


「彼氏さん」


 誰も寄り付かない、薄暗い空き教室で。

 吸血鬼が獲物へ囁くように、戻坂は甘い声で言った。


「ボクと一緒に――この鬱陶しい本能を、克服しませんか?」

「……克服……?」


 ようやくそれだけ返すと、戻坂はつぼみが花開くように微笑んだ。


「はい。ボクたちはきっと、この欲望に慣れていないから振り回されるのです。だったらそれに慣れてしまえば、この厄介な欲望をコントロールできるようになる――そうは思いませんか?」

「……かもしれねえけど、慣れるってそんな、どうやって――」

「簡単じゃないですか」


 その瞬間。

 戻坂の顔が、急に近づいた。


「……っ!?」


 唇に、ふわりと柔らかいものが張り付いていた。

 まつげが触れそうな距離にあるのは戻坂の瞳で、鼻先にかかっているのは戻坂の鼻息だった。

 そして俺の唇に張り付いているのは、戻坂の唇だった。


 戻坂の華奢な手が、俺を捕まえるように背中へ回されていく。

 状況を今更理解した心臓が、ドクドクと鼓動を早めていく。

 戻坂美遠とのキスは、新鮮な桃のような、爽やかで甘い香りがした。


「……ドキドキしましたか……?」


 そっと唇を離した戻坂は、ほんのり赤い顔でそう言った。


「これを繰り返せばいいんです……。飽きて味がしなくなるまで……当たり前の日常になるまで……性欲の価値が擦り切れるまで。そうなればきっと、ボクたちは猿より賢くなれます」

「……だったとして……」


 まさに今、猿以下の知能になりそうなのを必死にこらえながら、俺は言う。


「結局、なんで……俺なんだよ……」

「一目惚れです」


 戻坂はこれ以上なく簡潔に答える。


「あなたならきっと、この訓練の意味を理解してくれると思ったんです」


 ――天才の考えることはわからない。

 本当に、なんで。

 なんで――それに気付くことができたのか。


 凡人である俺には、まるでわからなかった。

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