ツーボンド：私たちは最悪の形で始まる、絆織る旅に出る

〜＊〜＊〜＊〜＊〜＊

　──また、これだ。

　辺り一面を燃え盛る炎の幕で覆わせて、私は耳を両手で塞いでしゃがみ込んでいる。

　──それなのに、聞こえてくる。

　誰かの悲鳴や叫喚（きょうかん）の声が。

　この世の地獄を体現したかのような不協和音は、耳の鼓膜に張り付いているみたいで鳴り止まってはくれない。

「……なさい、ごめん……い」

　ずっと目を閉じているのに、赤い色をした惨事の光景が目に浮かぶ。まるで瞼（まぶた）の裏に焼き付いているかのようで消えてはくれない。

　もう元が何だったか分からない焼き切れたそ（・）れ（・）は、確かに私にこう告げてくる。

　なんで？────と。

「──っ！！　やめて！」

　胸の内から湧き上がる激情と共に私は叫んでいた。この場から逃げるように走り出して、赤い炎と黒煙の中に突っ込んで行く。

　私は知っている。これは＂夢＂だって。

　だからこの火には熱さも痛みもない。全部、夢（・）という幻なんだから。

　なのに、この肌が焼けるような痛みはなんだろう。この心臓が引き裂かれるような痛みは何？

　やがて朦朧（もうろう）とする意識と共に世界の輪郭は歪んでいく。途切れかけた意識の中、何かに縋（すが）り付くように、許しを乞（こ）うみたいに、私は言った。

　もう何も望まないから。夢なんてみないから。だから──

　あの日、あの炎の中、私の何もかもはほとんど燃え尽きてしまった。

　残った燃え滓（かす）にはこの命と身体以外に何が残っているのか、もう……私には何も分からない。

〜＊〜＊〜＊〜＊〜＊

「……はぁ、はぁ」

　心臓の音がどくどくと激しく打ち鳴らすと同時に、力強く地面を蹴る馬の蹄（ひづめ）の音がまだ呆然としている頭に響く。

　その内と外からの振動に合わせて地面が揺れ動く。私が乗っている小さな荷車が大きく揺れる度、硬い木材の壁や床に身体を打ちつけられた。

「……はぁ」

　さっきとは違う意味で息を吐くと、荷車を覆う布の隙間から吹く冷たい風に身震いをした。

　相変わらずに劣悪な環境だ。この状況がもう十日近くは経っているから、身体も悲鳴をあげている。

「ルル。また、いつもの悪夢か？」

　凝（こ）り固まった身体を解（ほぐ）すように身体を小さく伸ばしていると、横から小さな声が私の元へ届いた。それは私以外の同乗者の一人、マゼルの声だ。

　マゼルは私より一つ年上の十六歳。背は高く長身だけど、身体全体の線は細く痩せている。ブラウン色の短髪と瞳は少し色褪（あ）せているように薄い。他人のちょっとした変化にも気付いて気が利かせられる優しい人で、私も兄のように慕っている。

「ごめん、起こした？」

「いや、こんな環境では誰も気持ちよく寝れないだろう。……このバカは除いてな」

　マゼルはそう言いながら、正面で寝ているもう一人の同乗者、コールを足で小突いた。

　コールは私と歳は同じ。私よりも少し背は高いくらいで男の子としては低い方だと思う。マゼルと同じ髪色だけど、こっちは随分と明るく見える。活発で元気な子で、奴隷という身分の境遇には不満なようだ。よく揉め事を起こす問題児だったりする。

「……コール、今回の主様（あるじさま）に決まってから、ずっと楽しそうだよね」

　すやすやと寝ているコールはマゼルに小突かれようとも穏やかな寝顔は崩れそうにない。いつもはそんな様子のコールを見ていて安心するけれど、今はどこか漠然とした不安が募ってしまう。

「そうだな。最近はずっと、口を開けば夢だったとうるさい限りだ」

　私の不安を紛らわすように呟いた言葉に、マゼルはいつも通りに素っ気なく答えた。

「……夢」

　その単語を耳にして、落ち着いていた心臓の鼓動が再び騒ぎ始める。ついさっき見た夢の内容がまた脳裏に過（よ）ぎる気配がして、私は逃げるように口を開いた。

「……意味ないよ、そんなの」

「あぁ。俺たちのような奴隷が夢見たって無駄なだけなのにな」

　私の霞（かす）むような声に、マゼルは小さく同意を返してくれた。お互いに誰に言った訳ではない独り言のような声だった。

「んぁー……、だからぁ、言っただろぉー……。奴隷でもぉゆめぇ……、みれるってぇ〜……」

　ふと訪れた沈黙をコールのだらしない寝言が遮って、私はコールのよだれの垂れた顔を見つめる。

　寝てる時でさえ、コールはこんな調子で、私は落ち着いた心音に手を添えた。

「ルルもいつまでも付き合わなくていいぞ、このバカに」

　マゼルの言葉に私はコールの方に目を向ける。

　(いつまでも……、か)

　二人と出会ってもう七年近くになる。あの時はこんなに長く一緒にいることになるなんて思わなかった。でも今はもう、二人のことは家族のように想っている。それだけの時間と大変な経験を一緒に過ごしてきたから。それはきっと、二人も同じだって。

　だから私はマゼルの言葉に少しムッとする。

「それは、マゼルだってそうでしょ？」

「……こいつは、放っておくと死んでしまいそうで目が離せないだろ」

　きっとそう言うマゼルの顔はちょっとバツが悪そうになっているんだろうな、と私はマゼルに顔は向けずにほくそ笑む。意地悪なことを言ってきたお返しだ。

「じゃあ、見張っとかないとね、二人で」

「まったく、もう少し大人しくなってもらえたら助かるのだけどな」

「それは……、それで心配にならない？」

　あのコールが大人しく主様に従う様子なんて想像しようとしたら、揉め事になってる姿が直ぐに脳裏に浮かんだ。

　隣から返答の代わりに重たい溜め息が帰ってきて、私は小さく笑ってしまう。

「ルル、起きたばかりだが少しでも寝ておいた方がいい。きっと、明日には目的地だ」

　私はマゼルの言葉に首を傾げる。

　もう何日もこの布で覆われた荷車で過ごしている。偶に外の様子を盗み見ているけれど、断片的な情報では今どこにいるかは定かではない。

「目を瞑れば分かる。寝るのは辛いだろうが、向こうに着いたら嫌でも労働の日々だ。少しでも身体ぐらいは休ませておけ」

　私の疑問は表情に出ていたのか、私が何か聞く前にマゼルは言う。

　相変わらずに目敏（めざと）いというか。こういう所は頼りになるけれど、時によっては気恥ずかしさみたいなものを感じてしまう訳で。

「……お父さん」

「いいから、寝ろ」

　素っ気ない返事を残して、マゼルは私に背を向けて身体を小さく横たえた。こういう所も昔から変わらないな、と頬が少し緩む。

「……おやすみ」

　私はマゼルの言う通りに硬い床に身体を預ける。そして目を瞑（つむ）るといつも不安になる。また、あの夢を見てしまうのかなって。

　私は少し身体を捩（よじ）って荷車の小さな壁に自重を預ける。開けた視界に映る二人の姿を視界に収めてから、その光景を瞳に焼き付けるようにじっと見つめてから、再び目を瞑った。

　私はあの日、もう＂夢＂は見ないと誓った。だから、夢なんて見ないし、見せないで欲しい。でもきっと、私はまたあの炎の中に戻されるのだから、もう……どうでもいい。

　そう思いながら夢の中で目を瞑って、耳を塞いで、ただ目覚めを待つだけだ。

　ガタガタと車輪が地面を滑る音。どこかから聞こえてくる虫のさざめき。微かに聞こえる誰かの寝息に耳を澄ましていると、どこかから遠く潮騒（しおさい）が聞こえた。

(マゼルが言ってたの、これか……)

　私たちの目的地の大樹の国、ルルードゥナ。その世界で唯一の島国の気配を確かに感じた。

　マゼルの言う通りだ。目的地は近い。