記述の不可能性と、ガラスの指紋の終焉

不思議乃九

記述の不可能性と、ガラスの指紋の終焉

iPhoneの画面に指紋がべったりとついている。

スワイプの度に、白い光の中に残された油と皮脂の跡が、私という人間の、この世界への不必要な執着を物語っているようだった。


私はこの光の中で、小説を、あるいは小説になりそこなうであろう何かを記述しようとしている。

記述という行為は、私が世界と接触する際に、最も決定的に世界を歪めてしまう誤りであるということを、十分に理解しているにもかかわらず。



テーブルの上に置かれたマグカップには、冷めたコーヒーの底が薄く残っている。

それがいつ淹れられたものなのか、正確な時間を思い出すことはできない。


時間はいつも、私がそれを記述しようとする瞬間に、既に形を失い、意味のない記号の連なりに分解されてしまう。

小説がやろうとしていることは、この無意味な時間の流れに、強引に意味という名の血管を通そうとする、不愉快な外科手術に他ならない。



私は指を滑らせ、メモアプリを開いた。

キーボードの白と、画面全体の白。


この二つの「白」の間に、何かを埋めようとする。

何も書かなくても、この画面は白であり続ける。

何かを書いたとしても、それはただの文字であり、結局は白い光の上に浮かぶ黒い影に過ぎない。


この影が、どうして「小説」などと呼ばれる、生々しいリアリティを持つことができるのだろうか。



まず、私は「猫が窓の外を歩いている。」と書いた。


この一文は、窓の外を歩いている猫そのものとは何の関係もない。

それは、私が「猫」という記号を、私の内側から切り離し、このガラスの上に配置したという、単なる配置の行為である。


この配置の行為によって、本来生きて、風を感じて、獲物を探しているであろう、真の猫は、私にとって都合の良い、思考の対象に成り下がる。


保坂和志が日常を描くとき、それは日常のありのままを写し取ろうとする、諦めにも似た真摯な試みのように見えるが、その試みでさえ、記述された瞬間に、記述者の意識のフィルターを通した、既に不純な日常へと変質してしまう。


記述とは、常にこの不純さを引き受けることなのだ。



私は指を止め、画面をロックした。

画面は再び真っ暗になり、私の顔を映し出す。


その顔は、私が普段鏡で見ている顔よりも、妙に冷たく、平面的な印象を受けた。

まるで、私の「生」のリアリティが、この薄いガラスの層の下に閉じ込められてしまったかのようだ。


もし、私がこのiPhoneを、窓の外のコンクリートに叩きつけ、バラバラの破片にしたとして、その破片は、誰かの物語になり得るだろうか。


小説とは、そうした、破壊された残骸を拾い集め、存在しなかったはずの「構造」を、冷徹に、そして美しく再構築する作業ではないだろうか。



私は再度画面を点灯させた。

さっき書いた「猫が窓の外を歩いている。」という一文を消去する。


消去は、記述よりも簡単で、そして、遥かに正直な行為に思えた。

記述が「生」を形式化する暴力なら、消去は「生」を再び、無意味で、自由な混沌の中へ解放する、小さな優しさなのかもしれない。



私はこの世界を「今、生きている」という事実に捕らわれている。

だが、iPhoneを握り、それを記述しようとした瞬間から、私は「生きていた私」から乖離し始める。


**記述という行為は、私が生から逸脱する速度を測る行為である。**


言葉は常に過去の残響であり、私が「息をしている」と打ち込むその一瞬に、その「息」はすでに排出された後の空気の塊になる。


小説とは、この「今」から逃れようとする逃亡犯の残した足跡であり、記述は、その足跡がどれほど速やかに、生の真実から逸脱していくかを、冷徹に測定する装置なのだ。


記述されたものは、もはや私ではない。

それは、私から分離し、世界の外側に投げ出された、私の形式的な死体であると言ってもいい。



この指がガラスの表面を滑り、記号を打ち込む。

この指に、私の感情や哲学の重さが宿っているわけではない。


それは、世界と私を接続する、無機質で、決定的に冷たいインターフェースに過ぎない。


私の指先は、ただの記号の入力装置である。

私が「悲しい」と打ち込んだとき、その悲しみは、指先の物理的な動きによって、ただの三文字の記号配列(ヒラガナあるいはカンジ)へと変換される。


小説が成立するためには、この物理的プロセスが、感情という非物理的なものに「意味」を与えていると、読者に錯覚させなければならない。

これは、極めて冷酷で、構造的な詐術である。


私自身、この記号の入力装置を操る私を、まるで透明な箱の中にいる、無感情な観察者のように見つめている。

この距離感が、私を「生」の過度な重さから守っている。



私は次に「誰も見ていない。」と書いた。


この一文は、誰の物語にもなりようがない。

誰の視点も、誰の感情も含まれていない。


しかし、この簡潔な否定の中にこそ、私の哲学の核心がある。

私という存在が、この瞬間に何を感じ、何を思索しているかは、外部の誰にも観測できない。


観測できないからこそ、それは真実である。

小説の宿命は、この観測不能な真実を、観測可能なフィクションへと貶めることにある。



散歩の途中で拾ったコンビニのレシート。

そこに印字された日付、時間、商品の名前、そして合計金額。


**コンビニのレシートと、構造の欠如。**


これらの数字と文字は、誰かの「生」の一部であったはずだ。

しかし、このレシートには、その人物の感情や、なぜその商品を選んだのかという哲学は一切記されていない。


小説家は、このレシートの向こう側に、物語を勝手に想像して書き始める。

だが、真のリアリティとは、このレシートそのものが持つ、無意味で、無感情な数字の配列の羅列の中にこそあるのではないか。


生きた世界には、私たちが求めるような「構造」や「物語」は最初から存在しない。

それは私たちが勝手にレシートに線を引いて、円グラフを作ろうとする、虚しい努力なのだ。



私は深く内省し、ようやく掴みかけた真実は、いつも重く、暗く、そして複雑だ。

しかし、iPhoneのキーボードは軽快に「行動」あるいは「鼓動」といった、私とは無関係の、より汎用的な記号を予測して提示してくる。


予測変換の裏切りと、真実の軽快さ。


この予測変換の機能は、私の真の思索を、常に市場の論理や、他者の平均的な感情へと引き戻そうとする。


このテクノロジーによる「軽快な裏切り」こそが、小説という形式が捉えられない、生きた真実の姿なのかもしれない。


真実は、私が必死に掴もうとする思考の重さとは無関係に、いつも、画面を飛び交う無意味で軽やかな記号の群れの中に存在している。



私はこのiPhoneを、ベッドの上に無造作に放り投げた。

薄暗い部屋の天井を見つめる。


天井には、私の影が落ちていて、その影が、私が存在する唯一の証拠のように見えた。

だが、この影も、私が記述した途端に、詩的な比喩となり、私自身から切り離された形式的な光と闇の構造物へと変わってしまうだろう。


私の「生」と、私が記述する「物語」の間には、埋めようのない、透明な溝が走っている。


この溝を埋めるために、私は日々、iPhoneの画面を指で叩き続ける。

それは、溝の深さを測るための、無意味で、孤独で、そして、どこまでも純粋な儀式なのだ。



画面の下隅に、小さな数字が表示されている。

**バッテリー残量:9%。**


この数字が私に告げているのは、私の思索の期限、あるいはこの記述行為の物理的な限界だ。


この充電がゼロになったとき、私の思索は中断され、このテキストは、データという名の無機質な形式に固定される。

**形式への固定。**


それが小説の完成なのかもしれない。

生きた感情や、流動的な哲学は、バッテリーの残量と共になくなり、残るのは、静止し、誰でも閲覧可能な、冷たい構造物だけだ。



私は再度iPhoneを手に取り、さっき書いた「誰も見ていない。」という一行の下に、新たな一行を打ち込んだ。


「そして、この孤独な記述の行為もまた、小説ではあり得ない。」



5000文字という制限は、もはや意味を成さない。

私は、この行為そのものが持つ、無限の不可能性を記述し終えるまで、このガラスを叩き続ける。


小説は完成しない。

小説が完成したとすれば、それは私という存在が、この世界から完全に切り離され、形式として固定されたことを意味する。


それは、私の生の終わりだ。



だが、私はまだ生きている。

指紋のついたガラスの表面に、かすかに残る温もりを感じる。


この指紋こそが、私が確かに、この世界の一部として存在した、唯一の未完成な証拠なのかもしれない。



私は深く息を吸い、そして、この短い記述を終えるために、最後に一文を付け加えた。


それは、私自身を、そして世界を、許すための、極めて冷淡な諦念だった。


「だが、それでも、私はまだ、このガラスを触り続ける。それが、私が生きているという、ただ一つの決定的な誤りであるから。」



画面をロックする。

通知の光が一瞬、暗闇を破る。


時間は、誰にも記述されずに、流れていく。



【了】

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