第2話 ヤヨの事

 強い雨がヘルメットを叩く。 茶色いレンガ風の外壁材で覆われたマンションが見えてきた。

「あとちょっと」

 ハンドルにしがみつき、必死にペダルを漕いでマンションの入口に飛び込んだ。 “キー” 自転車を降りた。 地下駐車場に入り、脇にある駐輪場に自転車を止める。

「ふー。 しんどかった」

 大変な雨だったけど、制服はほとんど濡らさずに帰って来られて良かった。

 自分の合羽を脱ぎ、玄関ホールを抜けて、エレベーターを使わずに階段で二階に上がる。 階段から一番手前の201号室が我が家だ。 鍵を開け、「ただいま」を告げながら扉を開けた。

「お帰り。 雨大丈夫だった?」

 お母さんの声だ。 普段と同じように、パート先のドラックストアから帰っていた。 たまにシフトが変更になって、帰宅が遅れたりするが、大抵の日は私が帰って来る午後六時半までにお母さんは家に帰っている。

 自転車に乗って帰宅しようとした時、少しだけ雨が弱くなってくれたので、なんとか助かった。 グラウンドを駆けた時みたいな土砂降りだったら、今この時間も自転車で息を切らしていただろう。

「なんとかね。 でもかなり強く降ってる。 制服は大丈夫だけど靴は駄目だ」

 お気に入りのローファーはぐちゃぐちゃだ。 明日は学校指定の白スニーカーを履いて行くしかないや。


 私の家は、中学から自転車で十五分くらいの所にある賃貸の三LDKマンション。 家族は、父親の昔谷祐吾(セキヤユウゴ)と母親の睦月(ムツキ)、そして私の三人だ。 元々ウチの家族は、志賀町という能登地方のド田舎に住んでいたのだが、私が小学校五年生の時にこの金沢市に引っ越してきた。 ド田舎者の私は、当初マンションの生活や周辺の街並みがせせこましく感じた。 少し身体を動かしただけで、何かにぶつかる様な窮屈な感覚に襲われて、常に気を抜くことが出来なかったのだ。 でも数カ月もするとそんな感覚は消え去ってしまった。 歩いて直ぐの所にいろんなお店が在るこの環境も悪くないと思う。 以前は最寄りのコンビニまで、車で約ニ十分だったが、歩いて一分でファミマに毒されてしまったのかもしれない。


 自分の部屋に入って、素早く制服を着替え、直ぐにお母さんの居る台所に向かった。

 流しに立つお母さんの隣に行って、溜まっている食器を洗い始めた。

「ヤヨありがとう」

 私は弥生だから、家族からは  “ヤヨ” と呼ばれている。 学校の友達からは、名前の  “弥生” で呼ばれるので、ヤヨと呼ぶのは家族だけだ。

 私はお母さんが台所に居ると、自分も台所に立って手伝うようにしている。 お母さんの近くにいたいから、そしてお母さんが家事をしているのに、自分は何もせずボケっとしているなんて事ができないから。

 小五の時の引っ越しは、お母さんの病気がきっかけだ。 乳がんだった。

 早期発見ではあったが手術が必要な状況であったため、最寄りの病院から金沢市の基幹病院を紹介された。 そして手術をすれば終了ではなく、その後の検査や治療が続く事もあったため、家族でこちらに引っ越すことを決めたのだ。

 今は経過も良好で、経過観察という事になっているから、あまり不安は感じていない。 それでも何となくお母さんの負担を減らしたいという気持ちがあって、出来るだけ手伝うようにしている。

「さあ、ヤヨ食べよう」

 夕食の準備が出来た。 お父さんを待たずにさっさと二人で食事を始める。 お父さんは仕事で遅くなることが多いから、平日の夕食は大抵二人だ。 別にお父さんが居ない夕食が寂しいとは思わない。 ずっと前からそれが当たり前になっているし、それにどうせ食べ終わる頃には帰って来るから。

 夕食を終え、お風呂に入り、明日の準備をして布団に就いた。 目を閉じると今日の第二体育館の出来事が浮かんでくる。 あの男子は何者なんだろう?

 一学年上だから面識が無いのは当然かもしれないけど、あんな先輩が居たんだ……。 私に合羽を渡すために、土砂降りの中をずぶ濡れになって校舎まで往復してくれた。 目もまともに開けていられない雨の中、私の手を取って校舎まで連れて行ってくれた。 どうして知り合いでもない私にあそこまでしてくれたんだろう?

 そしてあの涙。 あれは何だったの? 加えてあの横顔。 何故だか彼の横顔ばかり浮かんで、顔が沸騰する。 どうしよう、気になってしょうがない。 誰かに聞いてみようか……。

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