私がアリス
あやお
私がアリス
何者にもなれない私は、今日も妄想に興じる。
いつか、私をここから連れ出してちょうだい。
ーー 私のウサギさん
◇◇◇
私は毎朝バスで通学している。
バスに乗り込むと、決まって左側の降車口近くの席に座る。
そこから、気になるおじさまを盗み見るのが私の日課だ。
おじさまは、グレイヘアーに丸い銀縁メガネ、品の良い茶色いスーツを着ている。中には同色のチョッキを着ていて、時折ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認している。
その仕草を見るたびに、私はうっとりする。
おじさまは、私にとって『理想のウサギさん』だからだ。
私は不思議の国のアリスが大好きだ。
初めて物語に触れたあの時の、胸の高揚感は忘れることができない。
身につけるものも、できる限りアリスを感じれるものと決めている。
そんな私には胸に秘めた願望がある。
ーー あの世界に入り込みたい
ウサギさんについて行って、あの世界に行って、少し可笑しい皆んなに会いたい。
みたい、会話したい、触れたい
……私があの世界の主人公になりたい。
考えるだけで胸が高鳴り、ぞくりと体が震える。
その想いは日に日に強くなり、その発散先は私の妄想癖に繋がっていった。
バスのおじさまは、私の妄想の格好のエモノだった。
懐中時計を見る仕草が、バスを降りて歩いていく様が、その仕草の一つ一つが私を刺激した。
あのウサギさんについて行ったら、一体どんな可笑しな世界に連れて行ってくれるのかしら。
バスの窓越しに、歩くおじさまを眺めながら私は妄想に耽った。
ある休日、私は普段訪れない街にいた。
SNSで見つけたこの街で売っているタルトが、アリスに出てくるものとそっくりだったのだ。
私は上機嫌で店に向かう。
途中、窓ガラスに映った自分をみて、微笑む。
今日の私はいつも以上にアリスのようだった。
青色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、長い髪の毛がふわりと舞っている。
鼻歌を口ずさんでいると、目の前に曲がり角が現れる。
私はそっと瞼を瞑り、妄想する。
この角を曲がったら、きっとウサギさんがいるんだわ。そして、その後についていったらどうなるかしら。
高鳴る胸を手で押さえながら、小さく息を吐いて角を曲がる。
瞳をキョロキョロと動かし、前方に視線を向けた時、私の足はぴたりと止まった。
そして、思わず口を両手で覆う。
「ウサギさん……!」
少し先の曲がり角に、いつものバスのおじさまが立っていた。
思わず唾を飲み込み、私はワンピースの胸元を握りしめる。
この出会いは偶然だろうか?
……ううん、違う、あの人は本当に私のウサギさんなんだ。
私はじっと熱い視線をウサギさんに向ける。
ウサギさんはそんな私には気がつく素振りも見せず、曲がり角を進んでいく。
私は軽やかな足取りで、その後をついていく。
一定の距離を保ちながら、私はウサギさんの様子を眺める。
いつものように懐中時計を取り出すたびに、私はゾワゾワと体が震えた。
暫くすると、緑の生い茂る庭園にたどり着いた。ウサギさんはその門の中に進んでいく。
私も続けて門をぬける。
芝生が一面に敷き詰められた庭園は広々としていて、幾つかベンチが置いてあった。
ウサギさんはそのうちの一つに腰をかけ、新聞を広げた。
私はウサギさんを正面に捉えられる別のベンチに座り、気が付かれないように、その様子をみつめた。
新聞には大きな見出しで、政治家の裏金だとか、変死体が見つかっただとか、私の妄想に必要のない事しか書かれておらず、私は視線を逸らした。
ーー もっと、妄想に浸りたい。現実はいらない
私はそっと瞼を閉じる。
私は、アリス。
ここは、私のアリスの世界。
「あれ、⬛︎⬛︎ちゃん?」
顔を上げると、そこには赤ちゃんを抱いた女の人が立っていた。
和かに笑うこの人は、誰だっけ。
頭の片隅にうかんでくる名前を私は必死に押し戻す。
それは、私の世界には居てはいけないものだから。
私の世界に居てもいいのは……
そう公爵夫人よね。そうだそうだ。
「こんにちは」
私は愛想良く笑う。この夫人はいつも不機嫌だもの、愛想良くしなきゃ。
「珍しいわね、こんなところに。私はほら、この子の散歩でたまに来るのよ」
夫人は赤ちゃんを抱き寄せ、私に顔を見せる。
赤ちゃんは、あーあーと声を出しながら私に手を伸ばしている。
「ちょっと、行きたい場所があったんです」
そう、行きたいところがあったんです。
いや、行きたいところが出来たんです。
私の頭の中で、記憶がボールペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされて、注釈で埋められていく。
そう、ウサギさんを追いかけなくちゃ。
私は視界の端でウサギさんが立ち上がったのを捉え、ゆっくりと立ち上がる。
「私はこれで失礼します。ご機嫌よう」
微笑みながら、私は会釈をする。
夫人の表情は、よく、見えなかった。
ウサギさんは庭園を抜け、足早に歩いていく。
その先は住宅街が広がっている。
一体どこに向かうんだろう、私は唇の端を少し上げながら、その後を追っていく。
「あれ?⬛︎⬛︎さん?」
聞いたことがある声がして、私は振り返る。
そこには……そう、チェシャ猫がいた。
吊り上がったキツい目つきで、何か、不審な視線をこちらに向けている。
チェシャ猫は私に問いかける。
「どうしたの?なんかフラフラしてるけど」
「私、ここに初めてきたの」
「そう、なんだ……じゃあ知らないかもしれないけど、この辺りで最近失踪事件が起きてるから、はやく帰ったほうがいいわよ」
ほら、段々日も暮れてくるし……と話すチェシャ猫を、私はじっと見つめる。
チェシャ猫なのに、まともな事しか言わないなんて……イカれてないフリでもしているのかしら。
そうこう話しているうちに、ウサギさんは、どんどん住宅街の奥へ進んでいく。
私がその後をついていこうとすると、チェシャ猫に腕を掴まれた。
「⬛︎⬛︎さん?なんだか様子がおかしいよ?」
チェシャ猫の顔は、眉を顰め、少し怯えたような顔をしていた。
……ちがう、チェシャ猫はこんな顔しない。
そう考えた瞬間、チェシャ猫は不敵に微笑んでみえた。
そう、これでこそチェシャ猫よ。
「私、そろそろいかないと。じゃあね、猫さん」
私の腕を掴む手をそっと退ける。
チェシャ猫は不敵な笑みのまま、ぴくりとも動かない。
そう、これでいい。
私は振り返らず、ウサギさんの後を追った。
暫くすると、ウサギさんは古い大きな屋敷の前で立ち止まった。
煉瓦造りの立派な建物で、蔦が高くまで延び、まるでそこだけ時間が止まっているように見える。
立派な門構えの奥に広がる庭には、かつて観賞用に整えられていたであろう木々や生垣が主人を求めるように生い茂っていた。
手入れされていない事を除けば、そのどれもが
私という主人公の為に整えられた舞台のようだった。
私は期待に胸が膨らみ、口角が勝手に上がった。
ああ、やっぱりウサギさんだったんだ!
私を連れてきてくれたんだ。
私は間違っていなかったんだ。
ウサギさんが中に入って行くのを見届けてから、私は門を潜り、庭に進んでいく。
視線を左右に動かして周りを見渡すと、枯れた花壇をみつける。
そっと枯れた花に触れると、ぱらぱらと干からびた花弁が崩れる。
ああ……なんて美しいのかしら。
荒廃したこの様が、より奇妙さを演出している。
私らしい、私がアリスの物語。
ゆっくりと味わうように、玄関に向かって歩いて行く。
玄関の扉は少し開いていて、その隙間から中を覗く。
屋敷の中は外とは違い、多少のお手入れはされているようで、玄関ホールには赤い薔薇が飾られていた。
ここが、ハートの女王のお城なのかしら?
私は軽やかな足取りで屋敷の中に入った。
屋敷の中は、しんと静まりかえっていた。
私がキョロキョロと見渡していると、奥の部屋のドアが少し開いているのに気がつく。
私はその部屋を、そっと覗き込む。
部屋はカーテンが閉められており、薄暗い中に僅かな隙間から一筋の光だけが線のように指している。
その光の筋の下に、何か人の腕のようなものが見える。フリルのあしらわれた袖の先に真っ白な指がピンと伸びている。
(人形だ……)
その指は人形のものだった。
目を凝らすと、人形の下にも上にも、何体もの人形が重なり合っているのが見えてきた。
腕を、足を放り出して、そこにまた脚が重なって、そして……。
私はそれに気がついて、肩がぶるりと震えた。
本来そこにあるべきものが、ない事に気がついたのだ。
人形たちには、頭部がなかった。
ほとんど手入れのされていない屋敷。
山積みにされた人間サイズの人形達。
そして、人形達には頭部がない。
この奇妙な屋敷を訪れてから、
私の頭の中では、警報が鳴り続いていた。
ーー 逃げないと
これ以上は危ない。
危険だと。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
この機会を逃したら、私はアリスにはなれないだろう。
地味でつまらない、独りぼっちの⬛︎⬛︎として、生きていく事になってしまう。
そう考えると、足元からするすると影が伸びてきたかのように私の足を縛りつけた。
(私は、アリスになりたい……)
私の足はゆっくりと、吸い寄せられるように人形達に近づいていく。
部屋の薄暗さに慣れてきた目は、人形達の山の中央に投げ出されたそれを捉えた。
他の人形達の硬く伸びた手足と違い、それは柔らかさを持っていた。
青いドレスは脚の形に張り付き、スカートの下から覗くふとももは山の形に沿って尾を描いていた。
不思議と、私の頭の中は静かになっていた。
警報音はもう鳴らない。
何故だか、そう、わかった。
私はそれの目の前に近づき、そっと頭部のある場所を覗き込む。
そこには頭部はなく、首の切断面からこぼれ落ちた血が、下に積まれた人形の真っ白なドレスを赤黒く染めていた。
むせ返るような血の匂いが鼻をくすぐり、喉元まで吐き気が押し寄せる。
そのとき、すぐ後ろで息遣いが聞こえた。
私がゆっくりと振り向くと、そこにはウサギさんが立っていた。
いつもと同じだった。
スーツも、眼鏡も、懐中時計も。
……それらが全て血塗られていること、手に大きな鋸を持っていること以外は。
私は、自然と微笑んでいた。
ゆっくりと腕を伸ばし、血で汚れた眼鏡を外す。
隠されていた瞳は、底知れぬ薄暗さを帯びていた。
その冷酷な視線を浴びて、ああ、やっぱりと呟く。
「ウサギさんじゃなくて、ハートの女王だったのね」
私の首に、冷たい刃が当てられる。
私はゆっくりと瞼を閉じ、そこで私の意識は途切れる。
『首を刎ねておしまい!』
途切れたはずの意識の中で、私は確かに聞いた。
そう、私はこれで永遠にーー
アリスになれた。
私がアリス あやお @ayao-novel
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