第15話 『ラジオ体操のあとで、花の話をした』
新型感染症が始まって、
私はラジオ体操に行かなくなった。
いや、正確に言えば、
外に出なくなった。
玄関のドアを開けるだけで、
どこか悪いことをしている気分になった。
マスクの中で自分の息がこもって、
それだけで胸がざわざわした。
「今日は、やめとこ」
誰に言うでもなく、
靴を履きかけた足を引っ込める。
公園のラジオの音は、
そのうち聞こえなくなった。
あの四年間のあいだに、
邦子さんは何度も脳卒中で倒れたという。
あとから聞いた話だ。
「でもね、サ高住だったから助かったのよ」
あっけらかんと、
本当に、天気の話みたいに言う。
「一人暮らしだったら、
もうここにいなかったわね」
電話越しでもなく、
直接でもなく、
誰かの噂として聞くその言葉が、
なぜか胸に刺さった。
糖尿病も悪くなって、
インシュリンを打つようになった。
私は怖くて、
しばらく公園に近づけなかった。
それでも、ある朝。
季節が一周して、
金木犀の匂いが薄れてきた頃。
「……行ってみようかな」
ラジオ体操の音は、
前より少し小さくなっていた。
人も減っていた。
それでも、
いつものベンチのあたりに、
あの派手な色があった。
「あっ」
邦子さんだった。
少し痩せて、
動きはゆっくりになっていたけれど、
あの花みたいな服は、やっぱり着ていた。
「久しぶりじゃない!
生きてた?」
「そっちこそ……」
言葉が詰まる私を見て、
邦子さんはくしゃっと笑った。
「大丈夫、大丈夫。
しぶといのよ、私」
体操が終わって、
並んで歩いた帰り道。
「困ったことがあってね」
声を潜めるように言う。
「インシュリン打つでしょ。
アルコールが、売ってないのよ」
困った顔。
眉が少し下がる。
「あ、そっか……」
それだけ言って、
私はその場で別れた。
コンビニの明るすぎる照明。
レジ横の消毒薬。
手に取ったマキロンは、
思ったより軽かった。
サ高住の廊下は、
静かすぎて、少し怖かった。
邦子さんの部屋は留守。
私は、
買ってきた袋を
ドアノブにそっと掛けた。
「……勝手でごめんなさい」
翌日。
「ねえ!」
遠くから手を振られる。
「あれ、あなたでしょ!」
「……ばれました?」
「ばれるに決まってるじゃない」
にこにこして、
子どもみたいに言う。
「ありがとう。
ほんと、助かったの」
その一言で、
胸の奥が、じんと熱くなった。
それからは、
取り戻すみたいに一緒に出かけた。
お祭り。
焼きそばのソースの匂い。
プラネタリウムの暗闇で、
彼女は小声で言った。
「星ってさ、
生き急がないのよね」
薔薇園では、
真っ赤な花の前で立ち止まって、
「ほら、見て。
生きる気満々じゃない?」
私は、
足元の小さな草花を見ていた。
「私は、こっちが好きです」
「ほんと、正反対ねえ」
でも、
並んで歩く速度は、
いつも同じだった。
そして、ある日。
サ高住の前に、
張り紙が出た。
立て直しのため、全員退去。
数日後、
灯りは消え、
カーテンもなくなった。
邦子さんが、
どこへ行ったのか、
私は知らない。
「元気かな……」
公園で、
一人でラジオ体操をしながら、
私は空を見上げる。
あの人は、
きっとどこかで、
また大きな花の前に立ち止まっている。
「しょうがないのよ」
そう言って、
さらっと笑っている。
また会いたいな。
胸の奥で、
小さな声がそう言った。
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