第4話 鏡像の遅延

​ 大学の講義は、全く頭に入らなかった。

 大教室の前方でマイクを握る老教授の声が、時折、スロー再生された古いカセットテープのように間延びして聞こえたり、黒板に書かれた数式が、意味不明な文字化けした記号の羅列に見えたりしたからだ。

 周囲の学生たちの話し声も、水中で聞いているようにこもって響く。

 世界と自分との間に、薄い膜が一枚隔たっているような感覚。

​「……おい、境。大丈夫か? 顔色やべえぞ」

​ 隣の席の友人が、心配そうに声をかけてきた。

 しおんは曖昧に頷き、逃げるように席を立った。

​「悪い、ちょっとトイレ」

​ 昼休みで賑わう食堂を避け、しおんは校舎の裏手にある、あまり使われていないトイレへと駆け込んだ。

 個室に入り、鍵をかけると、ようやく息ができた気がした。

 冷や汗が止まらない。心臓の音がうるさい。

​「落ち着け……ただの疲れだ。幻覚を見てるだけだ」

​ 自分に言い聞かせ、個室を出て洗面台に向かった。

 蛇口を捻る。錆びた管から、水が勢いよく迸る。

 両手で水を掬い、何度も顔を洗った。水の冷たさが肌を刺し、少しだけ意識が鮮明になる。

​「ふぅ……」

​ しおんは顔を上げ、目の前の大きな鏡を見た。

 水滴のついた自分の顔が映っている。青白い顔色。目の下の隈。ひどい顔だ。

 備え付けのペーパータオルを引き抜き、濡れた顔を拭おうと手を挙げた。

​ その瞬間、思考が凍りついた。

​ 鏡の中の自分が、動いていない。

​ しおんは今、右手を挙げて顔を拭いている。

 だが、鏡の中に映っているしおんは、まだ両手で水を掬い、顔を洗う体勢のまま静止していた。

 水滴が空中で止まっている。

​「……は?」

​ 声が出た瞬間、鏡の中の像がカクンと動き出した。

 一秒、二秒ほどの遅れ。

 鏡の中のしおんが、遅れて顔を上げ、遅れてペーパータオルに手を伸ばす。

​ 遅れている?

 まるで通信環境の悪いビデオ通話のように、現実の動作と鏡像の間に、明らかな「処理落ち(ラグ)」が発生している。

​ しおんは恐る恐る、左手をゆっくりと振ってみた。

 現実の手が左に動く。

 ……一秒後。

 鏡の中の手が、カクカクとコマ送りのように左へ動く。

​「うわ、あ……ッ!?」

​ しおんは後ずさり、背後の個室のドアに背中をぶつけた。

 幻覚じゃない。物理法則が狂っている。光の反射速度が遅れているなんて、ありえない。

 この場所だけ、世界のデータ処理が追いついていないのだ。

​ その時、鏡の中の風景が「バグ」った。

​ ザザザッ……ビッ、ガガガッ!!

​ 激しい電子ノイズが走り、鏡の表面が砂嵐(サンドストーム)に覆われた。

 映っていた自分の顔も、背景の白いタイル壁も、一瞬で掻き消える。

 次に映し出されたのは、こちらの世界の景色ではなかった。

​ どこまでも続く、無機質な灰色の空間。

 上下左右の感覚がない、データの海のような場所。

 そこに、誰かが立っていた。

​ 銀色の髪。ガラス細工のように整った、中性的な美貌。

 その体は、光で織られたような「純白」の礼装に包まれていた。

 無機質で、神聖で、人を寄せ付けない絶対的な清潔感。

 胸元には、システム管理者を示す幾何学模様の紋章が、青白く発光している。

​ その人物――シンリは、鏡の「向こう側」の世界から、しおんを見下ろしていた。

 銀髪の隙間から覗く瞳は、血のような、あるいはシステムのエラー警告灯(アラート)のような、鮮烈な深紅だった。

​『……適合(アクセス)したか。思ったより早かったな』

​ 声ではない。

 鏡のガラス面が細かく振動し、その振動が直接、鼓膜と脳を揺らすような奇妙な響き。

 シンリは表情一つ変えずに、興味深そうに視線をしおんの胸元へ向けた。

 白手袋に包まれた指先は、陶器のように白く、人間離れしている。

​『おい、そこの「バグ持ち」。聞こえているか?』

「お、前……誰だ!? そこはどこだ!」

​ しおんが叫ぶと、シンリはふっと短く笑った。

 人間味のない、完璧にプログラムされたような冷たい笑みだった。

​『ここは「ヨミ」の入り口だ。もっとも、お前たちの言葉で理解できるよう翻訳するなら……そうだな。「サーバー・ルームの排熱口」とでも呼ぶべきかな』

​ シンリが鏡の表面に、内側から指を這わせる。

 すると、こちら側の洗面台の鏡が、まるで水面のように波打ち、そこから冷凍庫を開けた時のような白い冷気が吹き出してきた。

 トイレの空気が一気に冷え込む。

​『お前、拾っただろう。「0円の伝票」を』

​ しおんの心臓が跳ねた。

 無意識に、ジャケットの胸ポケット――財布が入っている場所を押さえる。

​『捨てておけばよかったものを。……いや、もう遅いか』

​ シンリは冷ややかに目を細め、白手袋の指先で虚空を弾いた。

 真っ白なブーツが、音もなく虚空を踏みしめる。

​『お前はそれに触れ、指紋と生体電流を登録し、内容を視覚で認識し、あまつさえ大事に財布にしまった』

『つまり、ユーザー側の意志で「接続(コネクト)」を承認したということだ』

​ シンリの紅(あか)い瞳が、カメラのレンズの絞りのようにギュンと収縮し、その奥で不吉な光が明滅した。

 それは、死刑判決を下す裁判官のように、冷徹な響きで告げた。

​『物理接触による生体認証(ログイン)、完了。……お前は今、システムに「処理待ちのファイル」としてタグ付けされた状態だ』

​ 鏡の表面に、赤いノイズが走る。

 ビーッ、という小さな警告音が、しおんの脳内だけで響き渡った。

 逃げ場はない。

 俺はもう、システムの一部に組み込まれてしまったのだ。

​(第4話 完)

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