第3話 顔のない男
大学へ向かう通学路。
早足で歩きながら深呼吸をするが、胸のつかえは取れなかった。
世界がおかしい。
外の景色全体が、妙に「薄っぺらい」のだ。
曇り空は、灰色のペンキで塗り潰した壁紙のように奥行きがない。
道端の紫陽花は、鮮やかすぎてプラスチックの造花のように見える。
まるで、世界のグラフィック設定を「低画質」に落とされたような、チープで空虚な感覚。
駅へと続く大通り。多くの通勤客や学生とすれ違う。
皆、俯いてスマホを見たり、無表情で足早に歩いたりしている。
その時だった。
向こうから歩いてきた一人の男と、すれ違いざまに視線が合った。
くたびれたグレーのスーツを着た、中年のサラリーマンだ。
しおんは、ヒュッ、と息を呑んだ。
顔がない。
いや、あるはずだ。目も鼻も口も、パーツとしては存在している。
だが、顔の皮膚の部分だけ解像度が極端に落ちたように、粗いモザイクがかかっていた。
肌色の四角いドット(ピクセル)の集合体が、ニタニタと卑屈に笑う形に歪んでいる。
「う、わっ……!?」
しおんは思わず後ずさり、ガードレールに背中を激しく打ち付けた。
ガシャーン、と金属音が響く。
周囲の視線が集まる。
サラリーマンは怪訝そうにしおんを一瞥し、何も言わずにそのまま通り過ぎていった。
慌てて振り返る。
その後ろ姿。横顔。
……普通だ。ごく普通の、疲れ切ったおじさんだ。モザイクなんてどこにもない。
「……見間違い、か?」
心臓が早鐘を打っている。冷や汗が背中を伝う。
ただの見間違いにしては、あまりにもリアルだった。
あれは幻覚というより、システムがその男の顔のデータを読み込むのに失敗して、一瞬だけ「粗い画像」を表示してしまったような――そんな機械的なエラーに見えた。
「お兄ちゃん! 待ってよ!」
背後からドタドタと駆ける足音が聞こえ、しおんはビクリと肩を跳ねさせた。
振り返ると、息を切らせたありなが走ってくるのが見えた。
リボンの曲がった制服姿。慌てて追いかけてきたのだろう。
「はぁ、はぁ……もう、なんで先に行っちゃうのさ。置いてかないでよ」
「あ、ああ……ごめん。ちょっと急いでて」
しおんは引きつった笑みを浮かべた。
ありなの顔をまじまじと見る。
ちゃんと見える。大きな瞳、少し怒ったように膨らませた頬、血色の良い肌。
ちゃんと生きている人間の顔だ。
しおんは膝から力が抜けそうなほど安堵した。
ああ、よかった。ありなは「正常」だ。こいつだけはバグっていない。
「まったく……。あ、ネクタイ曲がってる」
ありなは世話焼きな母親のように手を伸ばし、しおんの襟元を直そうとして――ふと、動きを止めた。
彼女の視線が、しおんの顔から胸元、ジャケットのポケットのあたりへと注がれる。
そして、鼻をひくつかせた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「なんか、変な匂いしない?」
ありなは眉をひそめ、しおんの胸元に顔を近づけた。
「匂い? 俺、汗臭いか?」
「ううん、違う。なんか……焦げたみたいな匂い。古い機械が焼き切れた時みたいな、変な刺激臭」
しおんの心臓が、ドクンと跳ねた。
昨夜のファミレス。雨風に混じって感じた、あの錆びた鉄とカビの臭い。
しおんは無意識に、ポケットの上から胸を押さえた。
そこには、財布が入っている。
そしてその財布の中には、昨夜拾った「0円の伝票」がしまわれている。
――なんでだっけ。
思考の空白が、唐突に訪れた。
昨夜、バイトから帰って着替えた時、俺はどうした?
あの不気味な伝票を、制服のポケットから取り出して、ゴミ箱に捨てようとしたはずだ。
なのに、気づけば俺は、それを丁寧に折りたたみ、自分の財布のレシート入れの奥にしまい込んでいた。
まるで、絶対に失くしてはいけない「契約書」か何かのように。
捨てようとするたびに指先が痺れて、脳が『保管しろ』と命令してきたような、曖昧な記憶。
「……気のせいだろ。昨日の雨の匂いが残ってるだけだよ」
「そうかなあ。なんか、嫌な匂いなんだけど……」
ありなはまだ納得いかない様子で首を傾げたが、やがて駅の時計を見てハッとした。
「やば、電車行っちゃう! 私こっちだから! じゃあね、お兄ちゃん!」
「あ、ああ。行ってらっしゃい」
「お兄ちゃんも、気をつけてね!」
ありなは鞄を揺らしながら、反対方向のホームへと走っていった。
しおんはその後ろ姿を見送った。
いつもの日常の風景。
だが、言いようのない不安が胸を締め付けた。
――気をつけてね。
その言葉が、まるで「もう二度と会えないかもしれないから」という、永遠の別れの挨拶のように聞こえた気がしたからだ。
ふと、視界の隅で何かが動いた。
通りの向こうにあるショーウィンドウ。
ガラスに映る、自分の立ち尽くす姿。
その背後に、ピタリと寄り添うように立っている「何か」が見えた。
人ではない。
人の形をした、真っ黒なノイズの塊。
顔のない黒い穴が、鏡越しに、じっとこちらを見つめていた。
(第3話 完)
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