地政学が茶番劇に見えてしまう理由 :台湾/香港・習近平/プーチン/金正恩

北のいわし

地政学が茶番劇に見えてしまう理由 :台湾/香港・習近平/プーチン/金正恩

ニュースや解説番組を眺めていると、世界地図の上で国と国とがぶつかり合っているように見える。

でも、オレにはどうしても「そこにいる人間の顔」の方が先に浮かんでしまうのだ。

きっかけはふと湧いたひとつの疑問だった。


第二次世界大戦前の台湾って、今と同様な「独立自治区」的な側面があったのか?


この問いから、台湾・香港・中国、そして習近平とプーチン、さらには金正恩まで、一本の線でつながってしまった。

その結果として、オレの目には「地政学」というものが、どこか壮大な茶番劇のようにも見えてしまう。

今日は、その連想をそのまま文章にしておこうと思う。

(かなり長いので覚悟の上でお読みください)


戦前台湾は「政治=直轄統治」「生活=台湾独自」という二層構造

日清戦争後の下関条約で、台湾は1895年から1945年まで日本の統治下に入った。

法律・行政・警察・教育・インフラなど、政治制度のほとんどは日本が握っていた。

自治どころか、「直轄統治」に近い状態である。

ただし、これはあくまで「政治」の話だ。

台湾の「生活」は、まるで別の層で動いていた。

日本統治以前から、台湾には

・漢民族(福建系・客家系)

・先住民族(いわゆる高砂族)

といった人々の文化が混ざり合っていた。

日本がやって来ても、根っこの部分はしぶとく生き残る。

・言語(台湾語・客家語)

・宗教(道教・民間信仰)

・家族制度

・地域コミュニティ

・生活慣習

これらは「本土とは違う世界」として続いていた。

政治の上では「日本の一部」だが、暮らしの空気は「台湾という島そのもの」だったわけだ。

さらに、大正末〜昭和期になると、台湾人エリートの間で「自治」の意識も芽生え始める。


象徴的なのが、1921年から続いた「台湾議会設置請願運動」だ。

日本の一部として扱うなら、台湾にも自治議会が必要ではないか。

これは「独立」ではなく「地方自治の拡充」を求める運動だったが、台湾人の政治意識が目を覚まし始めた証拠でもある。

まとめると、戦前台湾はこういう二層構造だったとオレは理解している。

・政治:日本によるほぼ完全な統治

・生活:台湾独自の文化が根強く残る

・意識:自治の芽ばえはあるが、まだ「独立」とまではいかない

つまり、厳密には「独立自治区」ではない。

けれども、島としての「独自性の芯」は今と同じくらい強かったわけだ。

中国の頭の中では「満州も台湾も『回収すべき領土』」


ここから話は中国に飛ぶ。

オレの感覚では、中国の対台湾政策には、どこか満州(現在の中国東北部)と同じ匂いがある。

「満州を日本から取り戻した」のと同様に「台湾を日本から取り戻す」という“裏的方針”

中国共産党の歴史物語には、「近代の屈辱」というキーワードがある。

・列強に領土を奪われた

・列強に好き勝手された

それを「回復」することで、中国の正統性を示す。

この物語の中では

・満州=日本から「回収」した領土

・台湾=清から日本へ割譲され、戦後「返還されたはずの」領土

という扱いになっている。

国際法的に見れば、台湾の地位はもっと複雑だ。

だが、中国は「奪われたものを取り戻した/取り戻す」というストーリーにまとめたがる。

だから、中国の内部ロジックでは、台湾=満州と同じく「回収すべきピース」となる。


問題は、この「歴史物語の整合性」が、現実の政治判断より優先されがちな点だ。

・元は中国のものだった

・日本に奪われた

・戦後に返還されたはずだ

・なのに独立に向かっているのはおかしい

・だから回収しなければならない

こういう順番で世界を見ているから、台湾問題は異常にシビアになる。

国際政治というより、「自分たちの物語帳のページを埋めたい」という欲望に近い。

台湾の本音は「中国が怖い」以前に「香港のようになりたくない」


では台湾側はどう感じているのか。

一言でいえば、「一国二制度」を約束しておきながら、それを事実上反故にした「香港の未来」のようになりたくないという、切実な恐怖だと思う。

中国は香港返還の際、「50年間の高度な自治」を約束した。

だが、20年少々でその約束はほぼ空文化してしまう。

・民主派議員の排除

・メディアへの圧力

・国家安全法の導入

・デモへの弾圧

・教育や言論への統制

香港は、法の文言ではなく「現実」のレベルで、大陸の一部に飲み込まれていった。

台湾はこの変化を、「約束の否定」として見ている。

さらに、台湾はアジアの中でもかなり高い水準の自由を享受している。

・民主選挙

・言論・報道の自由

・市民運動の自由

・性的マイノリティの権利保障

これらが一夜にして揺らぎかねない、という恐怖。

それは単なる「政治的な不安」ではなく、自分たちの暮らしそのものが塗りつぶされる恐怖に近い。


香港で国家安全法が施行された時、台湾のSNSに飛び交ったのは、こんな言葉だったという。

「今日泣いているのは香港だけど、明日泣くのは台湾かもしれない」

台湾の「反(統一)意識」は、単純な反中国というより、もっと切実な「自分たちの生活と自由を守るための反・香港化」と言った方が近いのだろう。

中国は、利益(公認カジノ)になる限りマカオを泳がせている。

そしてマカオもまた、それを承知の上で「吸収されているふり」を続けている。


ここで、習近平の話に移る。

オレが本質を突くなら、こう表現してしまう。

「習近平は、毛沢東になりたがっている」

彼が欲しがっているのは、「政策の成功」や「経済成長」だけではない。

それ以上に「歴史の中でどんな位置に座るか」という象徴的な地位だ。

・建国の父・毛沢東

・改革開放の父・鄧小平

この二人の影を背に受けながら、「自分はその系譜の頂点に立ちたい」という欲望を隠そうとしない。

2018年の憲法改正で、国家主席の任期制限(二期まで)は撤廃された。

これによって、形式上は「終身在任」への道が開かれた。

毛沢東型の「長期支配」を制度面から回復させたとも言える。

台湾は、その物語の中で「毛沢東が埋め残したピース」だ。

・毛沢東:大陸をほぼ統一したが、台湾だけは手に入らなかった

・習近平:その「未完の地図」を自分の時代に完成させたい

こういう歴史欲望があるから、台湾は「領土問題」であると同時に「習近平個人の“物語欲”の対象」にもなっている。

だからこそ、話がややこしく、危険になってくる。


一方、ロシアのプーチンについて、オレはこう感じている。

「プーチンは、自分をレーニンだと勘違いしている」

レーニンは「国家を作った人」だ。

プーチンは「国家を取り戻したい人」だ。

本来なら全く別の役割なのに、そのポジションをごっちゃにしている。

彼がやってきたことを並べると、よく見えてくる。

・大統領として二期務める

・任期制限が来たら首相に退き、実権は握り続ける

・再び大統領に戻る

・さらには憲法をいじって、自分の任期を「リセット」する

形式的にはルールを守っているように見せながら、実質的には一度も「トップの座」を降りていない。

それはただの権力欲ではなく、「国家を作り直す男」「歴史を塗り替える男」として、自分を物語の中心に据えたい欲望だろう。

その欲望の燃料として使われているのが、「旧ソ連の地図」や「ロシア帝国の影」だ。

プーチンの頭の中で、それは「取り戻すべきもの」に変換されてしまっている。

(ピョートル大帝にまで遡ろうとしているのか?)


プーチンと習近平は、別ルートで同じ階段を登っている

ここまで来ると、ふと気づく。

「え?プーチンと習近平って、同じことをやってないか?」

・任期の無期限化

・歴史上の英雄との自己同一化

・領土の「回収」を自らの正当性の証明に使う

・国内の自由を制限し、反対者を排除する

これは、20世紀前半のある人物の歩みと、あまりに似ている。

ヒトラーは「非常時」を口実に、事実上の終身独裁に移行した

・「ドイツ人の生存圏」「失われた領土の回復」という大義を掲げて、周辺国に進出した

・反対者を徹底的に排除し、メディアと教育を掌握した

もちろん、歴史的状況も思想も、完全に同じではない。

ただ、権力の使い方と自己物語の組み立て方という意味で、「ヒトラー的なパターンに、別々の国が別々の方法で近づいている」という危うさは、たしかにある。


ここまで並べてくると、「北朝鮮はどうなんだ」という話になる。

オレの感覚では、金正恩は「小心者が威勢を張っているタイプの独裁者」だと見ている。

決して安全な相手ではないが、プーチンや習近平とは“危険の質”が違う。

北朝鮮の動きは、極端に言えば

・体制維持のための見栄と虚勢

・国内向けの「強い指導者」演出

・内部の不安定さをごまかすための大声

こういう要素が強い。

金正恩の判断基準は、とても単純だ。

「自分と体制が続くことが最優先」

その意味では、「世界を作り直したい」プーチンや習近平よりも、暴走の射程が狭い分だけまだ「扱い方が読みやすい」とも言える。

オレが「まだ小心者が威勢を張ってる金正恩の方がマシかもね」と感じてしまうのは、そういうニュアンスだ。

どちらが良い悪いではなく、「危険の向き」が違うという話である。


だからオレには、地政学が茶番劇に見えてしまう


ここまで、台湾から香港、中国、習近平、プーチン、金正恩と、世界地図の上をぐるっと一周してきた。

けれども、オレが見ているのは、国旗や国境線ではない。

・毛沢東になりたがる習近平

・レーニンになりたがるプーチン

・小心ゆえに虚勢を張る金正恩

・香港化を本能的に恐れる台湾の人々

その背後にあるのは

・歴史の中で自分をどう位置づけたいかという虚栄心

・奪われたと信じ込んだ領土を「回収」したい執着

・失うことへの恐怖

・毎日の暮らしと自由を守りたいという、ごく普通の感情

こうした、人間くさい欲望と不安の入り混じった流れだ。


だからオレには、地政学というものが「巨大な舞台装置の上で、ちっぽけな人間の欲望が大袈裟に演じられている芝居」のように見えてしまうことがある。

舞台装置はやたらと大きくて、照明も派手で、音響も豪華だ。

その真ん中で、権力者たちが自分の物語を完成させようと走り回っている。

ただ、その影の下には、名前も顔も出ない人々の生活がある。

台湾の街角でコーヒーを飲む人、香港で小さな本屋を営んでいた人、ウクライナの原っぱでサッカーボールを蹴っていた子どもたち。

そういう人たちの息づかいを想像してしまうからこそ、オレには地政学が茶番劇に見えつつ、同時に「笑えない芝居」にも見えてしまうのだ。


煽るわけではないが、そろそろ日本も「第二次世界大戦の加害者」から脱却して、地政学当事者の仲間入りするべきなのである。

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