Re:on
暗い。
目を開けているのか、
閉じているのかも分からない。
――“Re:on”。
苦しくて、
どこか懐かしい、
その音。
身体の感覚が、遠い。
――冷たくて
静かすぎる。
音が、ひとつずつ削がれていく。
世界が、余分な情報を手放している。
(……ああ)
そうだ。
これは、
発作の時の感覚だ。
何度も、
経験している。
胸の奥で、
鈍く、重たい痛みが広がる。
心臓が、
うまく動いていない。
「……またか」
声に出したつもりだったが、
音にはならなかった。
でも、大丈夫だ。
いつも、
ここから戻ってきた。
苦しくて、
息が吸えなくて、
それでも――
戻ってきた。
(まだ、大丈夫だ)
重い瞼を、ゆっくりと開ける。
ぼんやりとした視界に、無機質な白が映った。
天井。
蛍光灯。
薄く引かれたカーテン。
視線だけを動かすと、淡い青白い光が目に入る。
心拍モニターだ。
規則正しい電子音が、やけに遠く聞こえた。
――ああ。
病室だ。
見慣れた天井。
見慣れた匂い。
見慣れた、この場所。
しばらく、何も考えられなかった。
頭の奥が、まだ深い水の中にあるみたいで、
思考がうまく浮かび上がってこない。
「……よかった」
声がして、そちらを見ると
馴染みの看護師が安堵したように微笑んだ。
「気分はどう?」
僕の顔を覗き込んで、
いつもの調子でそう聞く。
「先生、呼んでくるからね」
そう言って、
そのまま、病室を出ていく。
僕は――
それを、ただ見つめていた。
引き止める理由も、
声をかける気力も、なかった。
静かになった病室で、
モニターの音だけが、一定の間隔で鳴っている。
僕は、ゆっくりと腕を動かした。
点滴につながれた手を、
目の前にかざす。
青白い。
細い。
骨ばっていて、血管が浮いている。
……こんな手だったっけ。
もっと、
大人の大きな手だったような気がする。
――でも。
大人になんて、
なれるはず、ないのに。
胸の奥で、
その考えが、妙にしっくりきた。
不安でも、悲しみでもない。
ただ、そういうものだと、
ずっと前から、知っていた気がした。
モニターの音が、
一拍、わずかに乱れる。
それを聞きながら、
僕は天井を見上げたまま、
もう一度、ゆっくりと目を閉じた。
◇
目を覚ますと、もう朝だった。
病室のカーテンの隙間から、
薄い光が差し込んでいる。
さっきまでの感覚は、
もう、ほとんど残っていない。
胸は、少しだけ重い。
でも――悪くない。
今日は、
たぶん“いける日”だ。
僕はベッドサイドの台に置いてある
ノートパソコンに手を伸ばした。
病院の備品じゃない。
自分のだ。
電源を入れると、
見慣れた起動画面が立ち上がる。
心拍モニターの音と、
ファンの微かな回転音が、
不思議と噛み合って聞こえた。
ログイン。
指は、迷わない。
特別な理由があるわけじゃない。
誰かに復讐したいわけでもない。
ただ――
今日は、気分がいい。
病室という檻の中で、
世界の向こう側に手を伸ばす。
それだけで、
胸の奥が、少しだけ楽になる。
画面に並ぶのは、
見慣れた数行のログと、
淡々と流れる通信履歴。
特別な準備はいらない。
指先が、自然に動く。
一つ、経路をずらす。
もう一つ、鍵の位置を確かめる。
画面の端で、
警告が一つ、弾ける。
すぐに、二つ目。
三つ目は、音もなく消えた。
――ああ。
この感触。
突破じゃない。
ただ、構造をなぞっているだけだ。
そこに、
僕が触れたという痕跡が残る。
それだけで、
今日も、生きていたと分かる。
向こう側で、
誰かが慌てて扉を閉める気配がする。
でも、もう遅い。
閉められる前から、
中身は、見えてしまっている。
僕は、
ほんの少しだけ覗いて、
何事もなかったように戻る。
画面が静かになる。
心拍モニターの音と、
キーボードのリズムが、
一瞬だけ、重なった。
僕は、まだ生きている。
――それは存在の証明だった。
*
向こう側は、きっと大騒ぎだろう。
数日前の“件”が、
もうネットニュースになっている。
《世界的ハッカー「Re:on」による
企業への大規模サイバー攻撃》
……そう、処理されたらしい。
僕は小さく肩をすくめる。
大げさだ。
ただ、
脆いところを、すり抜けただけ。
壊していない。
盗んでいない。
止めてもいない。
扉が開いていたから、
中を覗いただけだ。
それなのに――
世界は、勝手に騒ぎ出す。
世界を騒がせた「Re:on」の影。
それは、病室のベッドの上で過ごす少年が、
ただ、世界の隙間をなぞってしまった指の跡だった。
病室のベッドの上で、
世界の騒ぎから目を離し、
僕はパソコンを閉じた。
◇
最近、
自分がどちら側にいるのか、
分からなくなることがある。
その夜も、そうだった。
眠れないまま、
病室の天井を眺めていた。
心臓は動いている。
呼吸も、している。
それでも――
自分が、まだ
“生きている側”にいるのか、
確信が持てなかった。
気を紛らわせるように、
ノートパソコンを開く。
僕の人生のほとんどを過ごしてきた、この病院。
その運営母体は、
エデン・グローバル・カンパニー。
世界的な医療企業で、
病院だけじゃない。
老人施設。
学園。
研究機関。
人が、生まれて、
生きて、
やがて衰えていく場所の多くが、
その傘下にあった。
……少しだけ、
覗いてみたくなった。
理由は、特にない。
出来心だ。
いつも通りの延長で、
ほんの一段、
奥を覗くだけ。
それだけのつもりだった。
けれど――
その先で、
世界の“表”とは違うものに、
指先が触れてしまった。
そこに記されていたのは、
「魂の継ぎ接ぎ」
「選別の
――神の指先。
どれもが、
整った呼び名の皮を被りながら、
それでは済まされない響きを持っていた。
僕は、
それ以上、深く読もうとはしなかった。
——読んでしまえば、
自分がどちら側に立つのか、
分からなくなりそうだったからだ。
その時だ。
誰かに、
見られている気がした。
監視ではない。
もっと静かで、
もっと近い。
――入り込んできた獲物を、
値踏みするような視線。
こちらを急かすことも、
排除しようとする気配もない。
ただ、
そこにいる。
それが、
ひどく、気味が悪かった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
理由のない畏怖が、背筋を這い上がる。
――これは、
戻ったほうがいい。
考えるより先に、
本能が警告していた。
突然、
心臓が、
裏側から握り潰された。
息が、吸えない。
喉の奥で、空気が引っかかる。
モニターの音が、早くなる。
早すぎて、
もう一つの音に聞こえた。
ドアが開く。
人が、なだれ込んでくる。
――多い。
いつもより、
明らかに。
白衣。
青いスクラブ。
顔を知らない医師や、看護師たち。
酸素マスクが、当てられる。
冷たい。
(……こんな人たち、いたっけ)
そう思った瞬間、
胸の痛みが、
思考を押し潰した。
心臓が、
大きく、跳ねた。
次の瞬間、
僕の世界は、
止まった。
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