神の喉笛
街は、何も知らないまま、
今日も機能していた。
誰かが、
どこかで決めたことの影響が、
もう届いていることにも気づかずに。
それが、
「観測」なのか、
「実験」なのか、
あるいは――
▼ △ ▼
十三歳ぐらいの少年の姿をした死霊が、
高架脇の道に立っていた。
あどけなさの残る顔。
年相応の、まだ柔らかい輪郭。
だが、その内側に――
外見からは想像もつかないほどの、
濁った闇が沈んでいる。
メイは、喉の奥がひりつくのをこらえた。
この空気は、見えない毒だ。
息を吸うだけで、身体の中の“調子”が狂っていく。
こんな死霊は、はじめてだった。
「……大丈夫ですか? はやく、こっちへ!」
気分の悪そうな男と、口元を押さえている女性に向かって、
メイは声を張った。
「一体……なにが」
顔をゆがめたまま、男が言う。
「いいから、離れて!
振り返らないで、まっすぐ行って!」
二人はメイの真剣な声に押されるように、
ふらつきながらも、その場を離れるように小走りになった。
少年の死霊は、ただそこに立っていた。
焦点の合わない瞳を、メイに向けている。
だが、その瞳には、何も映っていない。
メイには、
その少年の死霊が、
ただ魂の“輪郭”をなぞっているだけのように見えた。
少年を取り巻く瘴気をまとった闇が、
静かに、街へと蔓延していく。
そんな錯覚に、胸の奥がざわつく。
メイは手の甲で鼻と口を覆い、
送魂アプリを、そっと少年にかざした。
【対象:不確定残滓】
【死因:不明】
「……全然、役に立たない」
これはもう――
自分の業務のレベルを、明らかに超えている。
メイは、一瞬だけ、
高架下の向こうへ視線をやった。
「……レオン」
端末を取り出しかけて、
その手が、止まる。
理由もなく、胸の奥が重くなる。
息を吸うたびに、
何かを謝りたくなるような感覚が込み上げてきた。
誰に、何を――
それすら分からないのに。
視界が、みるみる滲む。
ぽたり、と。
メイの瞳から、涙がこぼれた。
何に対してかは、分からない。
それでも、
自分が悪い気がしてならなかった。
根拠のない罪悪感だけが、
胸の奥に、静かに沈んでいる。
「……え? なんで」
自分でも可笑しいほど、
戸惑った声だった。
死にかけた街灯が、ちかちかと瞬いた。
そのたびに、
メイの足元の影が、少しずつ濃くなる。
――違う。
影が濃くなったのではない。
周囲の闇が、
影へと、集められている。
影の境界が、定まる。
地面に縫い付けられていたはずの闇が、
自分の形を、思い出したように。
影は、
いつの間にか、立っていた。
「それ以上、近づいちゃダメだよ、メイ」
軽い口調だった。
街灯が、一度だけ、はっきりと点いた。
その光の中で、
影は、もう影ではなかった。
「……パンドラ」
言いかけて、メイは息をのむ。
パンドラは、
見たこともないほど冷えた眼差しで、
少年の死霊を見据えていた。
「……リカルド」
押し殺すような呟きだった。
「……知り合い、なの?」
メイが聞き返すと、
少しの間があって、
「……親友だった」
それ以上は、何も続かなかった。
パンドラは、ゆっくりとリカルドに歩み寄った。
少年の死霊――リカルドは、
相変わらず、そこに立っているだけだった。
「……これは」
パンドラは、低く呟く。
「リカルドの魂の残滓だ。
本体のデータは、俺の中にある」
淡々とした声だった。
「……一体、どこに残っていたんだか」
そう言って、
パンドラは、少年へと手を伸ばした。
ほんの一瞬だけ、
その瞳に、名づけようのない色が走った。
触れた瞬間、
わずかに、眉根が寄る。
――次の瞬間。
空気が、変わった。
怒鳴り声も、
殺気もない。
けれど、
静かな怒りが、確かにそこに満ちていく。
空間そのものが、
息を殺したようだった。
パンドラの表情は、変わらない。
それでも、
メイは息をのんだ。
これは――
人に向けられる怒りではない。
誰かが、
“してはならないこと”をした。
その事実だけが、
はっきりと、伝わってきた。
「……まさか、魂に何か混ぜられてる?」
恐る恐る言ったメイの問いに、
パンドラは答えなかった。
否定もしない。
視線だけが、わずかに沈む。
「……以前、そういう魂を一時保管したことがあるの。
送魂ができなくても……それでも」
必死に言葉を探しながら、
メイは続ける。
「リカルドも、
まだ……間に合うんじゃないかって……」
メイがリカルドの名を口にした、そのとき。
少年の周囲で、空気が一度、ひきつった。
魂のコードをレオンほど
はっきりと認識できないメイの目にも、
黒いものが、糸のように浮かび、
絡み合い――
そして、かすかに揺らいだように見えた。
次の瞬間、
パンドラは、ためらいなく、
少年の死霊へと踏み込む。
伸ばした腕が、
少年の内側へと沈み込んだ。
リカルドの身体が、ぐらりと前のめりになる。
まるで、
魂に食い込んだ異物の場所を、
最初から知っていたかのように。
パンドラは、強く手を引き抜いた。
その瞬間、
少年の輪郭が、崩れる。
肉体ではないはずの身体が、
霧のようにほどけ、
音もなく、失われていった。
その霧は、
逃げることも、拡がることもなく――
ただ、パンドラの方へと引き寄せられた。
吸い込まれるように。
あるいは、
戻っていくように。
数秒後。
そこにあったはずの少年の姿は、
完全に消えていた。
引きずり出された黒いコードも、
黒い煙のようにほどけていく。
パンドラは、それを握りつぶした。
そして、初めてメイを見る。
「……リカルドは」
一瞬、言葉を探してから、
メイは続けた。
「戻れた?」
「……してやろう」
「え?」
パンドラは、
かすかに口の端を吊り上げた。
それは、笑みだった。
だが、人に向けるものではない。
「神の喉笛に、
喰らいついてやろう」
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