第2話 桶狭間・刀洗い事件 

午前二時半。

草木も眠る丑三つ時。


突然、虫の声がふ、と途切れた。

空気が凍りつき、世界が一拍だけ呼吸をやめる。


次の瞬間――水音。


庭先の蛇口で、誰かが、

いや、“何か”が、ゆっくりと金属を洗っている。


桶狭間ニューガーデンヒルズ。

新築の家々が並ぶ、静かな住宅地。

だが足元の土は、遥か昔、戦で斃れた者たちの血をいまでも覚えている。

そしてこの土地は、五百年前の“最後の息”をまだ手放していない。


カーテンの隙間から覗いた住民の視線が、

ありえないものを捉えた。


矢が何本も突き刺さった武者姿の男。

月明かりに浮かんだ横顔は、生者とも死者ともつかない。


その男は、

血に濡れた刀を、淡々と水で洗っていた。


蛇口の水は静かに流れているのに、

刀にこびりついた血だけは一滴も落ちる気配がない。

まるで血だけが、この世の水を拒んでいるようだった。


「……ひっ……」


息が漏れた瞬間、男の顔が、カーテンの隙間にゆっくりと向いた。


視線が合う。


住民は声も出せず、そのままカーテンを閉じる。

布団に潜り込み、震えながら夜明けを待つしかなかった。


◆ ◆ ◆


「案件名:桶狭間ニューガーデンヒルズ・刀洗い事件……またここ?」


パソコン画面を睨み、メイがげんなりとつぶやく。


ここは冥府省送魂部・名古屋支部。

築三十年の雑居ビルの五階。

蛍光灯が安っぽい音を立て、古いエアコンが唸っている。


「そりゃ、あそこにはまだ今川の武将クラスが鎮座してるからな」


書類山の向こうから、テツがぼそっと返す。


死霊カスタマーの数、多すぎです。あの辺、過密すぎません?」


メイが冷めたコーヒーを啜ると、

後方のシノが眼鏡を押し上げながら言った。


「地元の人は、もう諦めてるんじゃない? 夜中に水音がしても“あぁ、またか”って。」


「笑えないわよ……なんで桶狭間が私の担当なのよ……」


メイはため息をつき、席を立つ。


「じゃ部長、私現場行ってきます」


机で印鑑を押していた白髪混じりの男が顔を上げ、穏やかに微笑む。


「はいよ。気をつけてな、メイちゃん」


◆ ◆ ◆


桶狭間ニューガーデンヒルズ。


朝日が昇っても、街は妙に湿っていた。

風が吹いても、どこか重く沈む気配が抜けない。


メイはスマホを起動し、送魂アプリを開く。


【対象:地縛霊 ─ 総数:計測不能】

【死因:不明】


画面が震え、空気がざわついた。


「計測不能って…。なんなの本当」


視線の先に、無数の落武者たちが揺れている。

すべて同じ姿勢で、同じ角度で首をかしげ、同じ言葉を繰り返す。


「まだ……逝けぬ……若様が……まだ……」

「まだ……逝けぬ……若様が……まだ……」

「……わしの馬はどこへ……」

「まだ……逝けぬ……若様が……まだ……」


合唱のようだった。

誰か一人が言っているのではなく、

“同じ声が複数の口から同時に出ている”。


「……一人だけ違うの混ざってるけど」

でも、その声だけ、妙に“近い”気がした。

背筋にひやりとしたものが走る。


「……っ」


体の奥がきゅっと強張り、一瞬、呼吸が止まった。

メイはゆっくりと息を戻し、スマホを握り直す。


「……これはもう、話を聞く余裕はないわね。」


スマホを構え、シャッターを切る。


光が走り、亡者たちの輪郭が崩れていく。

ひび割れて、砂のように。


どれだけ繰り返したのか…。

最後の一人が消えた瞬間、スマホがじり、と熱を帯びているのに気が付く。


画面には「送魂:完了」と表示されていた。

だが、その下に小さな文字が残っている。


《残滓:検出》


「そろそろ限界かも。ちょっと休憩しよう。残りは午後の私に任せよう」


◆ ◆ ◆


古戦場近くの洒落たカフェ。

ランチの余韻がようやくメイを落ち着かせはじめ、いい気分のままトイレに立つ。


可愛らしい木製の扉を開けると、

そこは──鏡一面に、赤い飛沫が散っていた。


白い洗面台は赤黒く染まり、

泡立てた手で刀を洗う落武者がいる。


ゆっくりと顔を上げたのは――鏡の中の像のほうだった。


「……若様の……首を……返せ……」

落武者が地を這うような低い声で唸る。


(……ここで洗うな。迷惑)

メイは小さく息を吸い、スマホを構えた。


シャッターが光り、落武者は砕けるように消えた。

だが鏡には、消えたはずの“赤い指跡”だけが残り──ゆっくりと滲むように消えていった。


静寂。


鏡越しにメイだけが、何事もなかったようにそこに立っていた。


「紙の資料に印鑑文化……亡者まで古いのよ、この街は」


店を出ると、スマホが震えた。

【大量送魂送信――エラーコード:O-KE-HA-ZA-MA-06】


「……ああ、もう」


がっくりと肩を落としたその瞬間。


足元のアスファルトが、ぐにゃりと沈んだ。

「……え?」


ヒールの下から、黒ずんだ“指の跡”が滲み上がる。

泥でも水でもない。形だけを残した“手”。


「まだ……逝けぬ……若様を……お守りせねば……」

その声は、足元のアスファルトの“下”から響いているようだった。


「……っ!!」


メイが反射的にかかとを落とす。

触れた瞬間、そこだけ空気ごと“抜けた”ように沈み、跡形が消える。


消えたはずの“跡”は、アスファルトの下に沈むように黒く滲んでいた。

メイはしばらく足元を見つめ、それ以上は何も言わず歩き出した。


歩きながら、メイはスマホをスワイプする。

画面には《送魂再送中》の文字。


「……送魂アプリ、反応悪すぎ。今日も残業確定だわ」

うんざりした頬を、ひと筋の風が撫でていった。


……どこかで、水の音がした。

だがこのあたりに、蛇口など最初から存在しない。


その水音だけが、この世界のどこにも属していなかった。

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