ツクモン

@utamaro_nv

第1話 カイトとカナ

 小学校へ行く道は、ふたつある。


 車が通り、植え込みが続き、信号がいくつもある道。もうひとつは、信号も植え込みもない。人の体だけが通れて、風だけが抜ける路地だ。


 朝七時台、その路地はたいてい湿っている。向こうのアパートの雨どいが、昨夜の水をまだ手放せず、ぽた、ぽた、と落としているからだ。落ちる位置はいつも同じで、コンクリートの一点だけが濃く染まる。


 そこへ小学五年生の男の子が入ってくる。歩くというより急いでいた。遅刻というほどではないが、登校班に追いつきたいのだろう。ランドセルの肩ひもは左右でわずかに長さが違い、走るたび、箱が背中で斜めに揺れた。


 路地の壁際には、捨てられたものが寄り集まっている。折れた傘の骨、片方だけのサンダル、空っぽの植木鉢、いつからあるのか分からない割り箸。今日もまた、何かひとつ増えている。


 影の濃い壁の下に、古い工具箱がひとつあった。赤いはずの塗装はくすんで茶色に寄り、取っ手の根元にはビニールテープが巻かれている。けれど巻いた手は雑で、端がぴろりと浮き、その隙間に砂が噛んでいた。


 それを、向こうから来た中学生くらいの男が、歩きながらつま先で蹴った。


 工具箱は音を立てて転がり、路地の奥へ逃げていく。ガタン、ガタン。角がコンクリートに当たるたび、金属の箱が小さく身をよじった。


「乱暴にすんなよ」


 声は、カイトの口から勝手に出た。喉に引っかかる前に、外へ滑った。


 蹴った男は振り向きもしない。肩をすくめたような気配だけ残し、そのまま路地を抜けていった。校則に縛られていない歩き方で、ズボンの裾が少しだけ地面を引きずる。


 カイトは足を止めた。止めたせいでランドセルの揺れが遅れて追いつき、背中に重みが戻る。


 工具箱は路地の奥のほうで横倒しになっていた。ちょうど、壁に貼られた剥がれかけのチラシの下だ。犬の散歩マナーを守りましょう、と書いてある。雨で字がにじみ、「守りましょう」だけが妙に太く見えた。


 カイトが一歩近づくと、足元で小さな気配が動いた。


 猫だ。子猫。といっても、実際の子猫より輪郭がはっきりしている。灰色の毛に、背中へ薄い筋。首輪がついていて、その一部だけ金属みたいに光っていた。朝の光を拾い、そこだけ冷える。


 カイトの家に猫はいない。けれどこの猫は、いつからか、カイトの横を歩くようになっていた。名前はカナ。カイトがそう呼んでいる。呼べば尻尾の先だけ揺れる。返事はしない。


「おまえ、きょうも来たのか」


 カナは答えない。前足をちょん、と出し、カイトの靴先に触れる。触れてから、何もなかったみたいな顔をした。


 カイトはしゃがみ、首輪の光っているところを指で拭った。指先にひやりとした感触が残る。金属の癖だ。カナはツンと顔を背けるのに、逃げない。逃げないどころか、喉の奥で小さく鳴らし、落ち着いた体つきになる。


「よし」


 よし、が何に向けた言葉なのか、カイトにも分からない。分からないまま立ち上がり、工具箱へ目を戻した。


 さっきまで、ただの箱だった。路地に捨てられているもののひとつ。蹴られたせいで、余計みすぼらしく見えるだけの……。


 その箱が、ギチギチ、と鳴った。


 まず、ふたが少し浮く。次に留め具が勝手に動く。噛み合わない歯がいらだって上下に跳ねているようだった。中から工具が触れ合う音がする。乾いた金属音なのに、どこか痛そうな音だ。


 カイトは足を引いた。引いたのに、走り出せない。自分でも不思議なくらい足の裏が路地に貼りついていた。


 カナが低く唸る。猫の唸り声は小さいのに、空気だけが少し重くなる。


 工具箱のふたが大きく開いた。


 中身が見える。ペンチ、ドライバー、小さなノコギリ、六角レンチ。どれもさびが浮いている。赤茶だけではない黒いさびが混じり、油が焦げたような黒さが、ところどころに残っていた。工具たちがふたの内側にぶつかり、出たがっている。


 工具箱が、こちらへ寄ってきた。


 箱なのに、寄ってくる。底の四角が滑るのではなく跳ね、角を支点に体をねじりながら少しずつ進む。コンクリートを擦る音が、耳の裏を掻いた。


 カイトは口を開いた。何か言おうとして、言葉が出ない。代わりに、息が一回、変な音を立てた。


 カナが足元から跳んだ。


 跳んだと思ったら、カイトの腕にしがみつく。小さな爪が制服の袖に引っかかった。次の瞬間、腕の上でカナの姿がほどけた。


 毛の手触りが消え、重みが変わる。温かさが引き、金属の冷たさが手のひらに落ちてくる。


 カイトの手には金槌があった。


 柄の木は妙に手に馴染む。けれどカイトが金槌を握っても、大工さんみたいにはいかない。手首が固く、肩が上がる。力が入りすぎて指が白い。


「カナ」


 名前を呼ぶと、金槌の頭のあたりがほんの少しだけ重く感じた。返事の代わりだ。


 工具箱が突っ込んできた。


 ふたを開いたまま、口を開けた獣みたいに。中の工具が踊り、牙のように飛び出す。ノコギリの歯は光らない。さびて鈍いのに、そこだけやけに目に入った。


 カイトは真正面に立つ。


 叩けばへこむ。へこめば壊れる。壊れれば止まる。そういう計算が頭の端にはあるのに、振り上げた腕が途中で止まった。


「壊すんじゃなくて」


 言ってから、言い直す。


「止める」


 工具箱のふたがカイトの顔の高さまで跳ね上がり、勢いのまま閉じようとする。閉じきれない。留め具がずれている。噛み合わないまま、ふたがガン、と戻って、また開く。怒っているみたいに開閉を繰り返した。


 カイトは金槌の面を、留め具のあたりに当てた。


 コツン。


 叩いたというより、触れた音だった。


 工具箱の勢いは落ちない。ふたが開き、中からドライバーが一本、飛び出してくる。刃先を狙えば危ない。カイトは先端を避け、胴の側面へ金槌を当てた。


 コツン。


 ドライバーは変な回転をしながら箱の中へ戻る。戻っても、ほかの工具が押し合い、また出てこようとする。


 腕が痺れてくる。金槌は重い。重いのに、当てる場所は小さい。小さいところを小さく叩くのは、思った以上に疲れた。


 工具箱が体当たりしてきた。角がカイトの膝の横をかすめ、制服のズボンが白く擦れる。


「痛っ」


 自分の声が路地の壁に当たって返ってくる。朝の路地は音が逃げない。


 カイトは一歩横へずれ、工具箱の側面へ回り込もうとする。工具箱も向きを変える。底が擦れて黒い筋がコンクリートに残った。


 ふたが開く。閉じる。開く。閉じる。留め具だけが、いつも最後に外されるみたいに噛み合わず、跳ね続ける。


 カイトは歯を噛んだ。噛んでも声は出さない。出すと力が逃げそうだった。


 一度、金槌を下げる。


 工具箱が寄ってくる。その距離で手を伸ばす。怖い。けれど確かめたかった。どこが悪いのか。どこを戻せばいいのか。


 指先が留め具に触れた。


 その瞬間、路地の湿った空気が消えた。


 別の場所の匂いがした。木の粉。油。汗。工具箱を抱えて走っている。誰かの腕の中。胸に押しつけられ、箱の角が肋骨に当たっているのが分かる。走る息は荒い。


「助かった!」


 笑う声。若い声だ。誰に向けたのかは見えない。見えないのに、顔だけが浮かぶ。笑って、目尻が少し下がる。


 次は作業台の上。木の台に工具箱がそっと置かれる。置かれるとき、取っ手のビニールテープが指に触れて、少しだけ粘った。大事にする置き方だった。


 最後に、違う手が現れる。


 乱暴な手。投げる。放る。工具箱が床に落ちる。留め具が歪む音がする。金属が、元の形を諦める音だ。


 カイトは息を呑んだ。息が喉で止まり、咳になりそうになる。指先には留め具の歪みが残っている。ほんの少し。ほんの少しのねじれ。


「ここだ」


 声が出た。小さいのに、自分の耳には大きい。


「留め具。ずれてる」


 工具箱が急に暴れた。触られたのが気に入らないのか、あるいは触られたせいで恥ずかしくなったのか。そんなふうに考える余裕が、今のカイトには少しだけあった。


 金槌を持ち替える。握り直す。今度は力を抜く。抜いたほうが、狙える。


 留め具の根元に金槌の面をそっと当てる。


 コツン。


 コツン。


 二回では足りない。三回、四回。音が少しずつ変わっていく。金属が合う音へ寄り、ギチギチが減って、カチカチに近づいた。


 工具箱がふたを開こうとする。抵抗しているみたいに。中の工具が押し返し、ふたの端がカイトの手首に当たりそうになる。


 カイトは目を上げた。


 工具箱を道具として見るのを、いったんやめてみる。箱に顔はない。目もない。けれど、あの中の記憶。抱えられて走った感触だけが、ここに残っていた。誰かに急いで運ばれた、あの感じが。


「がんばってたんだな」


 言ってから、少し間が空いた。言葉が続かない。それでも口が、もう一度開く。


「助かった、ありがと」


 留め具が、カチン、と鳴った。


 鳴った瞬間、工具箱の中にあった黒いさびの気配がほどけた。ほどける、といっても見た目では分からない。黒さが煙になるわけでもない。ただ、空気が軽くなる。ふたが落ち着き、開こうとしない。閉まっていることを、納得したみたいに。


 工具箱は、ただの工具箱に戻った。


 閉まったふたの合わせ目から、ふわりと小さな影が抜けた。


 赤いイタチだった。手のひらに乗るくらいの、小さな赤。毛並みはやけに整っていて、目だけが黒くつやつやしている。路地の湿り気の中でも、その赤だけがあたたかく見えた。


 イタチは工具箱を一度見上げ、それからカイトのほうを見た。見ただけで、何も言わない。言えないんじゃなく、言わないのが礼儀みたいに。


 次の瞬間、イタチは壁際の影へ駆け、影の中に溶けた。溶けたというより、もともと影のほうが居場所だったみたいに、そこへ戻った。


 仲間になるような気配ではない。去っていくのが仕事みたいな、短い別れ方だった。


 カイトはしばらく動けなかった。金槌を握る手がじんじんする。叩いた回数より、我慢した回数のほうが多い気がした。


 腕の中で、金槌が少し軽くなる。


 次の瞬間、カナが戻っていた。灰色の子猫の姿で、カイトの腕から地面へ降りる。何事もなかったように前足を舐める。首輪の金属だけが、相変わらず冷たく光っていた。


「おまえさ」


 カイトが言うと、カナは顔を上げる。上げてから、目を逸らした。ツンとした態度だけは崩さない。


 カイトは工具箱を見下ろす。閉まったふたに朝の光が薄く乗り、蹴られた傷が角に残って、そこだけ少し白い。


 工具箱を持ち上げた。


 重い。中身が入っているからだ。誰かの仕事の道具が、そのまま残っている。こんなものを路地に捨てるのは、面倒になった人のやり方だろう。あるいは、捨てたくなかったのに捨てられたのかもしれない。カイトには分からない。分からないから、今できる置き方をする。


 路地の端。雨どいの水が落ちない場所。壁に寄せ、転がらない角度を探す。


 丁寧に置く。


 置いたあと、取っ手のビニールテープの端を指で押さえた。ぴろりが少し落ち着く。砂が指に移って、指先がざらついた。


 背中でランドセルが鳴った。時間が過ぎている。


「行くぞ、カナ」


 カナは返事の代わりに、カイトの靴の横へぴたりとつく。歩き出しても離れない。路地を抜けるところで、一度だけ振り返りそうになるのを、カイトはこらえた。こらえたまま、前へ行く。


 校門のほうから子どもたちの声が聞こえはじめる。上履き袋がぶつかる音。自転車のブレーキ。先生の呼ぶ声。


 カイトは歩幅を少し大きくした。足元のカナがそれに合わせて小走りになる。尻尾が一回だけ揺れた。


「壊すのは簡単だろ」


 誰に言うでもなく、口に出た。


「けど、それじゃ終わりだ」


 カナが顔だけ上げ、またすぐ前を向く。首輪の金属が朝の光を拾って、少しだけ眩しい。

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