インクの出ないペン
わちお
出来損ないへ送る期待
そのペンはインクの出ない不良品だった。
インクを詰め替えてみても、上下に振ってみても、紙にどれだけ擦り付けても、そのペンが白紙の上に何かを生み出すことは決して無かった。
どこかが壊れているのかもしれないが、そういったことに疎い私には、どこがおかしいのかなど一切わかるはずもなかった。見た目も大してかっこよくない、なんなら貧相で少し黄ばんでいるように見えるそのペンは、近所の百貨店で山積みで売られていた中の一本だ。
使えないとわかっているものの、余裕の無い経済状況で買ってしまった手前、捨てるのも悔しく机の横に置いている。
最も、金に余裕が無いのはだらしのない自分が全て悪いのだが。
人に求められている訳でもない、誰も読まないような駄文を紙の上に書き連ねる。
「作家になりたい」
そう言って親のしかめられた顔に蓋をして就職をせずに大学を卒業した。アルバイトをしながら三文小説を飽きもせず書き続ける今の私の生活は、とても人に誇れたものではない。
私は家の汚点、コンプレックスなのだ。風邪でもないのにマスクをする人にとっての口であり、スカートを履きたがらない女子にとっての太もものようなものなのだ。
親は私のことを外で話したがらないし、話すとしても大学を卒業するまでのことしか話さなかった。それより先の薄汚い部分はすっぽりと不織布のマスクで覆ってしまう。
ふと、窓から差し込む日の光が机に乱雑に置かれたチラシを照らす。チラシには求人という主張の強いフォントと、フレッシュでスマートな男女の写真が映っている。母が置いてくれたものだろう。
後ろからノックの音が聞こえた。2回叩くのは父だ。
「おう、順調か」
「あ、うん...まあまあ」
「...飯、そこに置いとくから」
ありがとう、とドアの閉まる音よりも小さな声で呟いた。いっそのこと働け!と怒鳴って欲しかった。この出来損ない!と鬼の形相で睨んで欲しかった。しかし私の親は違った。
どんな出来損ないでも私を愛してくれた。就職をしないと言った時でさえ私のご立派な志を尊重して応援の言葉をくれた。
こんな私に、両親は"期待"をしてくれているのだ。こんな、インクの出ない私に。
隣の家から笑い声が聞こえる。
一家で食卓を囲む談笑。その声はありったけの幸せを帯びている。今の私の鼓膜に最も痛々しく突き刺さる声だ。
掻き消すように机の横に置かれた味噌汁をひとくち啜る。
出汁の豊かな風味と健康的なしょっぱさを含んだ汁が喉、胸、胃を順々に温めてゆく。その時、かつての一家団欒の風景が脳裏に映し出された。
『お母さん、お父さん!おれ、大きくなったら本を書くんだ!』
あの時の味噌汁も、私の戯言を優しく包むように温かく喉を流れていた。これはまさしくあの時と同じ味だった。
一滴、二滴、白紙の上に涙の雨が滴り落ちる。
お母さん、お父さんごめんなさい。だめな子供でごめんなさい。期待に応えられない出来損ないでごめんなさい。
私は不良品のペンを握り締める。涙の痕を避けて紙の上を滑らせてみた。
「やっぱり...出ないか」
買った日から毎日、今日はインクが出るかもしれない、と試しているが一向にインクの一滴も出てくる様子は無い。それでもきっと私は明日も明後日も、このペンを紙の上に滑らせるのだろう。
父と母が、私にそうしたように。
私は、まだ諦められない。
いつかの食卓で叫んだ戯言を実現させるために、いつの日か、父と母が"恥ずかしい"と覆ってしまったマスクを外せるように。
私は懸命に言葉を綴る、無償の愛に応えるために。
私は書き続ける、いつか必ずインクの出るペンになるために。
インクの出ないペン わちお @wachio0904
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