世界が変わった日〜眠たがり龍が住む天鏡郷で仲間が厄災に堕ちた結果、地球ではダンジョンが生え、異世界では世界の穴を覗いた冒険者が現代日本を見る〜

さまたな

プロローグ 世界が変わった日

第1話 世界が変わった日①

         2025年


        日本ー東京



竹刀がぶつかり合う乾いた音が、体育館の中に短く、鋭く響いた。
 

夕日が高窓から差し込み、木の床に淡い橙色の帯をつくっている。



夏の終わりを思わせる蒸し暑さが漂う中、何度も繰り返される踏み込みと打突。

そのたびに空気が切り裂かれ、掛け声が交じり合っては消えていった。


「――面っ!」

 

白神白刃は一歩で間を詰め、刃筋を正確に通して竹刀を振り下ろした。
 

踏み込みの音、竹刀の衝突音、そして一拍の静寂。


「一本!」

 

顧問の判定が響いた。
 


その瞬間、緊張の糸が少しだけ緩む。


面を外すと、の髪から汗が額からつっと流れ落ちた。
 

白刃は深く息を吸い、静かに吐き出した。呼吸を整えるたびに、道着の内側まで染みた熱気が冷えていく。


「……今日も全勝だね、白刃」

 

声の主は𣜿葉(かしは)だった。
 

彼女は白刃の幼馴染であり、白神家という、化け物に挑み続け、いつの間にか剣道部の副主将を務めるまでになっていた娘だ。



「いつも通りだよ」



「それがすごいって言ってるの、わかってる?」


 𣜿葉は小首をかしげて笑う。
 その表情には、尊敬よりも親しみが色濃い。子どものころから、彼女だけは白刃の勝ち負けを特別視せず、


常に「隣を歩く人」として見てくれていた。


部室での片づけを終え、校門を出ると、夕暮れの光が街路を染めていた。
 蝉の声が遠くでまだ粘るように鳴いている。
 


白刃と𣜿葉は並んで歩きながら、汗で湿った制服の袖を風に乾かした。


「今日もすごかったね、最後の一本」
 𣜿葉が言う。



「そう?」

「うん。あれ、誰が見ても完璧な面だったよ」



白刃は苦笑する。
 誉め言葉を素直に受け取るのが、どうしても苦手だった。


「……誉めてもなにも出ないよ」



「べつに見返りほしいわけじゃないもん」



 𣜿葉は小さく笑いながら、白刃の竹刀袋を軽く指でつついた。



「昔からそうだよね。自分のこと、全然認めようとしない」

 

夕焼けに照らされた道の上を、二人の影が長く伸びていく。
 白刃は少し前を見つめたまま、足を止めずに言った。



「……認めたら、そこで止まりそうだから」



「止まってもいいでしょ。一回くらい」



「だめだよ」


 

白刃の声には、迷いがなかった。
 まるで何かを振り切るかのように。

 𣜿葉はしばらく黙って歩いたあと、ふっと視線を横に向けた。



「ねえ、白刃」



「ん?」




「そういうところ、好きだよ」



「え?」



「強くなりたいって、本気で思ってるとこ」
 


𣜿葉はまっすぐに笑っていた。
 白刃は顔をそらす。胸の奥がかすかに熱くなる。


「……知らないふりしとく」



「なんで」



「なんでも」
 



二人の間に、心地よい沈黙が流れた。
 

校舎の明かりが遠ざかり、商店街の灯が近づく。
 夏の夜の匂いが、少し冷えた風に混じって吹き抜けていった。


 

夕焼けが沈みきる頃。
 白刃が自宅の玄関を開けると、家の中は妙な静けさに包まれていた。


「ただいまー」

 

返事はない。
 

靴を脱ぎながら、白刃は微かに眉を寄せる。
 

リビングからはテレビの音もしない。普段なら、誰かしらの生活音があるはずなのに。


「……いないのかな」


 そう思いながらリビングの扉を開けた瞬間――


「……んー……」

 

気怠げな声が聞こえた。
 

ソファーが横倒しになり、その下から白い指先がぴくりと動く。


「んー、あれ……帰ってきたの?」

 

もぞもぞと体を起こしたのは、白髪の肩くらいまでのミディアムヘアをした、女性。
 


白神家の長女、白神澪華(れいか)。二十四歳。
 シャツに赤いネクタイ、真っ黒なタクティカルなパンツ姿。会社員らしき服装なのに、その格好のままソファーで寝ていたらしい。


「今日、家にいるんだ?」



「んー……そうだよ……午後からリモートだったから、そのまま……寝落ちしてた」


ぼんやりとした声で答えると、大きくソファーに反りながら伸びをする。

シャツのボタンがはち切れそうなくらい、胸が強調されていた 


「……あれ? 紬姉さんは?」

「あぁ、今日は遅くなるって」



「そうなんだ」

 

澪華は髪をかき上げながらソファーの隅に座り、いつものように笑った。


「どうせ今日も最後まで残って打ち込みしてたんでしょ」


「まあ、納得しなくて」


「真面目だねぇ。頑張るのはいいけど、倒れないようにね」


「澪姉さんがそれ言う?」


「ん? わたしはちゃんと仕事サボりながら休憩してるから」


 言い切ると、澪華はクスッと笑った。

 その調子に白刃もつい口元を緩める。


 


 澪姉さんの隣に座る


 澪姉さんはどこか抜けたような人だ。

 けれど、その飄々とした態度の奥に、冷静な観察眼と芯の強さがあることを白刃は知っている。

 彼女の笑顔は、不思議と空気をやわらげた。


「……姉さん、今日、仕事どうだった?」


「んー、まあまあ。上司が書類ミスってさ、全部私に回ってきた」


「それって他の人の仕事でしょ」


「そうだよ? でも私が直さないと進まないんだもん」


「それでサボりながらって言ってたの?」


「そうそう。やるだけやってサボるのが、社会で生き延びるコツ」


「わけわかんない理論だな……」


 白刃が呆れたように笑うと、澪華も楽しそうに肩をすくめる。

 ふとしたことが、こんなにも心を軽くする。

 こんな会話が久しぶりだと気づいて、白刃の胸に小さな懐かしさが灯った。


 そのまま、澪華は白刃の白髪に手を伸ばした。

 温かい手のひら。

 優しく撫でられる感覚は、十年前と何も変わっていなかった。


「よく頑張ったね、今日も」


「…なに急に?」


 白刃は少しむっとして姉の手をどけようとしたが、力が入らなかった。


「ははっ、もう十七でしょ。でも、どちらかというと、手が勝手に動くんだよ」


「……好きにすれば」


 そう言いながらも、白刃の顔は穏やかだった。

 撫でられるたびに、熱くなった身体と心がほぐれていく。

 道場での張り詰めた緊張が、指先から少しずつ解けていった。


「……ちょっと走ってくる。……何か買ってこようか?」



「ん〜? センスで」


「わかったよ」


 白刃は軽く笑い、家を出た。




 夜風が、頬を撫でた。

 昼間の蒸し暑さが嘘のように引いていて、風はほんの少し潮の匂いを含んでいる。

 街のざわめきが徐々に遠ざかり、代わりに河川敷の静けさが広がる。


 光は少ないが、街灯が等間隔に並んでいた。

 夜の湿り気を含む川面が、反射でゆらゆらと光る。

 耳にイヤホンを装着する。流れてくる曲はいつもよりゆっくりに感じた。


 

 リズムを取るように歩幅を合わせ、地面を蹴る。

 トレーニングというより、思考のに近い。


 ――踏み込みと、間合い。

 顧問の注意。

 𣜿葉(かしは)の笑顔。


(“強い”って、何なんだろうな)


 ただ勝つだけでは足りない。

 勝ったあと、何を得るのか。


 あの日見た、姉たちの背中。

 いつも一歩先を歩いている。そこに届かない自分が、悔しくてたまらなかった。


 白刃は風を受けながら視線を上げた。

 高く広がる夜空。雲がうっすらと動き、星がかすむ。

 走るにつれて身体が温まっていく。

 呼吸が整い、汗が首筋を伝う。

 ひとりで走っているはずなのに、どこか誰かに見られているような感覚があった。


(馬鹿だな……考えすぎだ)


 苦笑しながらも、足を止めない。

 いつものコース。

 川の反対側には住宅街の灯が並び、小さな虫の鳴き声がかすかに聞こえる。


(――ああ、強くなりたい)


 何度もその言葉を呟く。

 姉たちのように、胸を張って言える自分に。

 𣜿葉みたいに、誰かの隣を堂々と歩けるように。







 そのとき――


 










ぐらり、と地面が揺れた。




「……っ?」


 足元が不規則に波打ち、河川敷の街灯が一瞬揺らぐ。

 遠くで犬の吠える声。

 白刃は反射的に膝を曲げ、重心を下げた。


 短く、だが強い揺れ。


「地震……?」


 耳に入ってくるのは、低いゴウッという音と、水面が微かに跳ねる音。

 心拍が速くなる。

 呼吸は保ちながら、冷静に周囲を確認する。


 街灯は消えていない。

 電線も切れていない。

 被害は大きくなさそうだ――そう、思ったところで。







 空気が、変わった。




 湿った風が止まり、胸の奥を圧迫するような重苦しさが広がる。

 耳鳴りのような低音が響き、肌を刺すような冷気が風とともに流れてきた。







「……なんだ、これ……」


 白刃は無意識に後ずさる。

 視線の先、さっきまで何もなかったはずの場所に



――何かが立っていた。


 

 塔のように高く、形容のしようがない。

 黒と灰の境界から浮かび上がるように存在していた。


 光の反射も、街灯の影も歪む。

 まるで現実そのものがねじれて、そこだけ異なる空が開いているようだ。


 息を飲む。喉が乾く。

 瞬きをしても、幻ではない。


「……は?」


 現実感が、じわじわと遠のく。

 風の音も、街の喧騒も、霞んで消えていく。


 やがて――


 建造物の影が、ゆっくりと動いた。


 ずしん、と重い音。川面が波立つ。

 白刃は反射的に身を引いた。


 暗闇の中から何かが姿を現す。

 人に似ているが、人ではない。

 四肢の動きは滑らかで、関節が異様にずれている。


 まるで絵の具が流れ落ちたような黒い影が、ゆらりと立ち上がった。


 月明かりが雲の切れ間から差し込み、その顔を照らす。











 ――人でも、獣でも、ない。















 そして。























 目が、合った










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