人間のこと

 俺は今日の授業を終え、教科書をパタンと閉じた。

 勉強は得意なほうだ。座学のほうはまちまちだが、魔力を用いた実技に関しては俺の右に出るものはいないとさえ言われたことがある。


 まぁ、魔獣なのだから当たり前だが……とにかく、人間達と同じ学校に通っていて不便に思うことは特にない。


 すると、隣に座っていたクラスメイトのジルがふぅとため息をついた。彼は、日に当たると赤く光る髪をした少し変わった青年だ。勉強が大の苦手なので、何か教えてくれるのではないかといって俺にまとわりついてくる。今日も、無言で俺の隣の席についたし、教科書まで見せてやる羽目になった。

 そして、彼は満面の笑みで言う。


「今日の授業も、何一つ分かんなかったぜ」

「なんで嬉しそうなんだよ」

「は? 嬉しくはないんだが」

「あぁ、そう」


 ジルは「教科書ありがとな」と言って立ち上がった。


「二度と教科書忘れるなよ、めんどくさいから」

「おう! また貸してくれ」

「聞いてたのか……?」

「あ、それよりさ! 言わなきゃいけないことがあったんだ」

「なんだよ」


 コイツと会話していると、いつも主導権を握られている感じがして不愉快だな。というよりは、俺の話をまともに聞いてくれないだけか。


「お前のことを探してたぜ、隣のクラスのネルさんがな」

「ネルが? またか」

「そう。今日こそはお前と一緒に寮まで帰りたいらしいよ」

「はぁ……」


 ネルと約束をしたあの日からもう一週間が経つ。彼女はこんな調子で、何度も俺と接触しようとしてきたが、なんとなく気まずいので避けてきた。俺が魔獣であることを知る唯一の同級生なんだ。関わるどころか存在しているだけでヒヤヒヤするものだ。

 そんな事情はつゆ知らず、ジルは呑気そうに言った。


「一緒に帰るだけだろ? 付き合ってあげなよ。だってさ、ずっとお前のこと探してるんだぜ」

「嫌だね」

「なんだよ。まさか……〝あの噂〟について気になってるのか?」

「あの噂?」

「知らないのか?」


 ジルはしばらく考え込んでから、首を横に振った。


「何でもない。どうせ聞いてもくだらないなって思うだけだろうし」

「なんだよ。言えって」

「言っても俺にもお前にも得がないからな。これから一生教科書貸してくれるって約束するなら考えてやってもいいが」

「はぁ……ならいい」


 その後、ジルは「また明日」と言って、手を振りながら教室を出ていった。俺は「二度と俺の隣に来るな」と言って、手を振り返してやった。


 そして、ネルに見つからないうちにと、すぐさま教室を後にした。



 魔法学園はいくつかの校舎が集まってできてる。それらを繋ぐ道が無数にあるため、入学したての時はよく迷っていた。


 一日の終わりを告げる夕暮れの赤色と影が、石畳の上に模様を作る。一人で寮を目指し、ゆっくりと歩きながら、ぼんやりと考え事をしていた。


 もし、ネルが俺の正体をバラしたらどうなるのだろう。また森に帰って、魔獣としての生活に戻るのだろうか。今となっては、そんなのは考えられないな。


 ────すると、突然背後から話しかけられた。あの日から、一秒たりとも頭を離れないあの声だ。


「クロード! やっと見つけた、魔法学園……広すぎてわかんないってば!」

「ネルか、どうした?」


 俺が振り返ると、そこには膝に手をついたネルがいた。先ほどまで走り回っていたのだろうか、息が荒く少し汗をかいているようだ。


「どうしたって……あの日、また明日ねって言ったじゃん! なのに、どうしていつも一人で帰っちゃうの?」

「承諾した覚えはないが」

「でもさ、でも……」

「あんまりつきまとわれても困る」

「う……」


 俺はそう言って、ネルに背を向けた。これで懲りたら、もう一緒に帰ろうなんて言ってこないはずだ。これで少しは気が楽になるはず、そう思っていた。


 しかし、背後から聞こえる鼻をすする音にハッとした。慌てて振り返ると、ネルは泣いていた。


「ネル……?」

「…………」

「もしかしてさっきの俺、酷かったか?」

「……うん」

「それはその、すまん」


 確かに俺は、自分のことばかり考えていたのかもしれない。そういえば人間は、いつも他人のことを考えているな。気遣いや思いやりというやつか。

 ネルからすれば、言われて嫌だっただろうし、避けられているように感じたのかもしれない。


「なぁ、ネル。お前はその……俺の正体を知っているからわかるだろ? 人間のことを完全には理解できていないんだ。だから傷つけてしまったんだと思う」

「…………」

「だからその、お前が人間のことを教えてくれるっていうのなら……一緒に帰るのも悪くないなとか。そう思った」

「……そう?」

「あぁ」


 ネルは顔を上げて、俺の目を見た。彼女の赤くなった目に見つめられた途端、少し胸が苦しくなった。これが罪悪感というやつか。ジルはどんなに酷い扱いをしても平然としていたが、皆が皆そうはいかないよな。


「じゃあネル、一緒に帰ろう。今から」

「……っ! うん、そうだね」


 ネルは嬉しそうにして、俺の隣まで駆け寄ってきた。

 しかし何故こんなにも俺と帰ることにこだわるのだろうか。別に大した話はできないし、むしろ一人で帰ったほうが有意義なんじゃないだろうか。

 人間のことは沢山勉強したが、やはりまだわからないことがあるな。それをこれから、彼女に教えてもらえるのなら……少し楽しみかもしれない。


「ねぇクロード」

「なんだ?」

「ありがとね、一緒に帰ってくれて」

「…………?」

「こういうときは『どういたしまして』だよ」

「分かってはいるが、本当にそれで合っているのかどうか考えてただけだ」

「そう? まぁ、人間としてはまだまだってことだね」


 ネルは嬉しそうに笑って、こっちを見た。


「だからさ、色々教えてあげるね」

「あぁ」


 夕焼けを背負った俺たち二人の影は、帰り道に沿って真っ直ぐに伸びていた。これからどうなるのだろうか、彼女はいったい何を教えてくれるのだろうか。


 そしてふと、ジルが言っていた〝あの噂〟について思い出した。しかし、寮に着くまでの帰り道、彼女にそれを訊くことはできなかった。

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