夜に咲く彼岸花

第1話 陽光の背

「初めまして。私は記憶の絶者、メモリー。世界の記憶の保持者であり、記憶回廊の核……その複製体。これから、あなたは1人の絶者の虚無となった記憶を見ることになる。彼女は如何にして生まれ、どのように育ち、なぜ絶者となる道を歩んだのか。引き返すなら今だけど……。そう、なら見るといい。後悔はしないようにね。……? 誰に話しかけているのか? それはもちろん、この記憶の読み手にね。」


 1726年7月7日。彼女の最初の産声は、助産師を一瞬でこの世から消し去った。幸い、誕生の瞬間を見守っていた咲野江さくのえ明花めいかが赤ん坊の力を抑えたことでそれ以上の被害は免れた。


「ああ……なんと恐ろしや。」


 麓の町の占い師は赤ん坊は呪われた子だと言った。その結果、母の茜は彼女を酷く恐れ、育児のすべてを使用人にさせた。ただ、生みの親としての思いからか彼女に『えい』とだけ名付けた。


―1―

 屋敷の一番奥の部屋には、夜風も届かない。分厚い木の扉と二重の鍵、それに目隠しのかかった窓。まるで誰にも気づかれないように存在している小さな箱庭のような空間。

 この部屋から出る時には必ず使用人に声をかけなければならない。使用人は幼い影の手を握ってくれるが、手の震えが彼女への恐怖を抱いているのを感じ取らせた。

 影は部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。灯りは小さなランプだけ。声をかけなければ誰も来ないこの場所では、夜になると静けさだけが広がる。

 けれど、今夜も違った。扉の向こうから、控えめなノックの音が三度。


「……影? 入るね」


 声を聞いた瞬間、影の頬がふわりと緩む。扉が開くと、そこには姉がいた。明花。柔らかな灯を手に、穏やかな笑みを浮かべている。


「お姉ちゃん! 今日も来てくれたの?」

「もちろん。だって影の顔、見ないと眠れないもの」


 明花が近づくと、部屋の空気が少しだけ明るくなる気がする。影はそっと姉の膝に寄り添った。


「ねぇ、今日はどんなお話してくれるの?」

「そうだなぁ。今日はね、屋敷の庭で小さな青い蝶を見つけたの。影にも見せてあげたかったな」

「……見てみたい!」

「じゃあ、描いてみようか。影のために」


 明花は懐から小さな紙束を取り出し、鉛筆で蝶の姿を描き始める。影は黙って、その横顔をじっと見つめていた。数分も経たないうちに、明花の指先が描き上げた蝶が、紙の上で羽を広げていた。淡く塗られた水色の翅が、どこか涼やかに揺れているようだった。


「はい、できた。」

「……きれい……ほんとに青いね。羽の模様までちゃんと描いてある……」


 影はそっと指を伸ばして、紙に触れた。けれど、そのまま触れてしまうのが惜しいようで、寸前で止める。明花はそんな様子に気づいて、くすりと笑った。


「触っていいよ。影の手は優しいから、大丈夫」


 影は少しだけ照れたように笑って、今度こそ指先で絵をなぞった。


「……ありがとう、お姉ちゃん。うれしい」

「ふふ。影の喜ぶ顔が見られるなら、何枚でも描くよ。ほかにも何が見たい?」

「……お花。あと……小鳥も……」

「うん、いいよ。じゃあ明日はお花と小鳥、ちゃんと観察してくるね。報告もつけてあげる」


 影はコクンと頷いてから、少し黙った。そのまま明花の膝に寄りかかると、小さく息をつく。


「……お姉ちゃんがいてくれて、本当によかった」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、明花は何も言わずに影の髪をそっと撫でた。


「私は影の姉だからね。ずっとそばにいるよ」


 影の目が少し潤むのを見て、明花はその手を取り、両手で包み込んだ。


「――私のかわいい妹。誰に何と言われても、私は影が大好き。ずっと大好きだよ」


 影は静かに目を閉じた。姉の声が胸の奥にしみていく。

 

―2―

 翌朝、影は目覚めたときから、どこかそわそわしていた。昨日の夜、明花が描いてくれた蝶の絵が、まだ胸の奥で羽ばたいている気がした。


「……あの蝶、ほんとうに見てみたいな」


 小さな声で呟いたそのとき、ちょうど扉の外から軽くノックの音がした。影が慌てて起き上がると、扉が開き、明花が顔をのぞかせる。


「おはよう、影。今日は少しだけ、庭まで行ってみる?」

「行く!」


 返事は、明るく元気がこもっていた。明花は微笑み、影の手をそっと取った。

 

 屋敷の廊下を歩くのは、影にとってまだ慣れないことだった。木造の床の感触も、壁にかかる墨画も、すべてが見知らぬ世界のようで、どこか夢を歩いているようだった。


「大丈夫。ゆっくりでいいからね」

「うん……」


 影は明花の手をしっかりと握りながら、歩みを進める。

 庭へと続く廊下を曲がろうとしたそのとき、数人の使用人と共に歩いてくる一人の女性が視界に入った。


 咲野江茜――影の、母。


 影は反射的に足を止めた。明花もまた一瞬だけ歩みを止め、影の視線の先に気づいた。


「……」


 影の喉がひくりと動き、小さな声が漏れる。


「……母さま。」


 その言葉は、確かに届く距離だった。

 茜は一瞬、ほんの一瞬だけ、足を止めた。

 けれど、すぐにそのまま歩き出す。視線を逸らすでも、振り返るでもなく。


 まるで、そこに娘の声など存在しなかったかのように。


「……っ……」


 影の胸に、冷たい何かが落ちてきた。声が届かなかったというより、無かったことにされた。そんな感覚。


 影の手がふるりと震えた。


 明花は何も言わずに、影の手を握り直す。指先から伝わる体温だけが、かろうじて影の意識を現実につなぎとめていた。


「……お姉ちゃん……私、やっぱり……いらない子なのかな……」


 影の呟きはか細く、それでも明花の胸を強く刺した。


「ちがうよ。影は、世界で一番大切な子。……私にとって、ね」


 明花の言葉に、影はそっと明花の胸元に顔をうずめた。


 それからしばらくして、ふたりは静かに庭へ出た。風は穏やかで、空は高く澄んでいた。


「……こわくない?」


 明花の問いかけに、影は少しだけ明るい声で答えた。


「ううん。……お姉ちゃんと一緒だから、大丈夫」


 その言葉に、明花は笑みを深めた。庭の一角、小さな花々が咲く植え込みの上に、ふわりと何かが舞い降りた。


「あ……」


 青い蝶だ。昨日、明花が描いてくれたものと、まったく同じ色。羽をゆっくりと開いたまま、蝶はしばらくじっとしていた。


「本当に……いたんだ……」


 影がぽつりと呟く。その横顔には、初めて見るような柔らかな表情が浮かんでいた。


「ね、昨日の蝶と同じでしょ」

「うん……また、見られるかな……?」

「見られるよ。何度でも。……影が生きていれば、きっと」


 明花のその言葉に、影は目を細めて、小さく、それでも確かに、笑った。

 ほんのひとときでも、心が温かくなる。それだけで、十分だった。

 

―3―

 影の小さな声が、廊下に微かに響いていた。


「……母さま」


 茜の足が一瞬、止まる。目を伏せたまま、彼女はほんの数秒その場に留まった。けれど、視線を向けることはできなかった。声をかけることも、振り返ることも、できなかった。


(……呼ばれた)


 その声に応えれば、何かが壊れてしまう気がした。あの子は、恐ろしい力を持っている。人の命を、生まれながらにして奪った。その記憶が、いまだに茜の中に色濃く焼きついている。


 けれど、それでも――


(あの子は、私を「母さま」と呼んだ……)


 茜の胸の奥で、何かが軋んだ。娘の声を聞きながら、背を向けることしかできなかった自分に、強い嫌悪が湧いた。

 

『茜と俺の間には明花しかいない。それが恐ろしいあれを処分しない絶対条件だ。使用人にも同じようにさせる。』

 茜の夫、影の父、嵐の言葉がちらつく。


(明花がいてくれてよかった。あの子の傍には、あの子を愛してくれる存在がいてくれる。私なんかじゃ、きっと……)


 茜は静かに、何事もなかったかのように歩き出した。手のひらの中には、見えない爪痕が残っていた。

 

 その夜――。

 影は布団に入っていたが、目は閉じられていなかった。昼間の出来事が、胸の奥に残っていた。母に呼びかけた声が、無視されたこと。あの無音のような拒絶が、ずっと影の心に冷たく残っている。


 そんなとき、扉の外から控えめなノック音が響いた。


「影、起きてる?」


 影は起き上がり、小さく「うん」と返す。扉が開いて、明花が静かに部屋に入ってきた。


「今日は……頑張ったね」


 明花はそう言って、影の隣に座ると優しく髪を撫でた。


「お姉ちゃん」

「うん?」

「……お母さま、私の声……聞こえなかったのかな……」


 その問いに、明花はすぐには答えられなかった。けれど、すぐに影を優しく抱きしめると、小さく囁いた。


「……大丈夫。影はね、とっても大切な子なの」


 影はそのぬくもりに包まれながら、少しだけ涙をにじませた。


「……おまじない、してくれる……?」


 明花は微笑んで、そっと顔を近づける。


「もちろん。影が明日、いい一日を過ごせますように――」


 そう言って、明花は影の額に、そっと唇を触れさせた。


「これで、もう大丈夫」

「……ほんとに効く?」

「ふふっ、だってこれは、お姉ちゃんの“影のための”おまじないだから」


 影は、照れくさそうに笑い、そっと額を手で押さえた。


「……ありがとう。お姉ちゃん、大好き」

「私も。大好きだよ」


 そのまま、影はゆっくりと目を閉じていく。明花はしばらくそっと隣に座ったまま、静かに見守っていた。

 額に残る温もりが、「影をあたたかく照らしてくれますように。」

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