第1章 託されたペン、広がる未来

託されたペン、広がる未来(一)

 黒田彩菓茶房で働き始めて、一か月。薫子の生活は一転していた。

 秩父の自宅から通うには遠いので、東京で住める場所を探すつもりだった。けれど、店の二階が空いているから住み込みで良いと、誠一は言ってくれた。

 誠一は別に自宅があるそうで、店の清掃や建物管理も仕事になっている。

 黒田彩菓茶房には制服はないけれど、食べ物を扱うので白いエプロンだけは固定だ。

 初めは緊張したけれど、一か月も経つと、常連さんとは仲良くなっていた。同時に、黒田彩菓茶房の経営方法も見えてきた。

 黒田彩菓茶房は、人通りの多い大通りからは外れた場所にある。そのせいか客はまばらで、多いとは言えない。

 それでも店内はいつも賑やかだ。人気の理由は誠一の経営方針にあった。


「では、仲直りできたんですね」

「うん! このクッキー、すごく気に入ってくれたの!」


 誠一はソファ席で少女と歓談している。彼女に気があるとか、恋仲だということでもない。これが誠一の接客だ。


「一重じゃなくて八重なのが素敵ねって。本当に有難う!」

「そう言ってもらえれば、僕も作ったかいがあります」


 彼女は、薫子が最初に見たお客さまだ。桜さんという友人と喧嘩して、仲直りのきっかけが見つからないと悩んでいた。そこで誠一の考えた物が、あの八重桜のクッキーだった。

 たくさんの言葉を交わし、一人ではできない成長をする。そうすれば、一重も八重へ、新しい自分へと変わっていける――という意味らしい。

 彼女は誠一の言葉を話題のきっかけにして、桜さんと話すことができたそうだ。


「八重桜クッキーは、他のお客さまにも好評なんです。お土産に使いやすいそうで」

「私も大好きですよ! 苺味だけど甘すぎないし、なにより可愛いもの!」


 ――という具合に、誠一がお客さまの話を聞き、お客さまの物語をお菓子にするのが黒田彩菓茶房の醍醐味だ。

 しかし、ここに問題があった。薫子は、整えたばかりの帳簿を開き睨む。

 八重桜クッキーを作ったのが先月。クッキーは、どうしたって大量にできるから余りは販売――なんてするわけもなく、無料配布で大好評。気分よく追加した結果、大赤字だ。

 誠一の無料お悩み相談は、一人当たりおよそ三十分だ。長い時は一時間以上もお喋りをし、最長で三時間ということもあった。

 黒田彩菓茶房は誠一の店だ。誠一が良いのなら、それでいい。

 ただ、経理を任された身としては、座席の占領は困り物だった。他のお客さまが座れなくなるので、回転率が非常に悪い。

 加えて、話しにくい話題のときは隅の座席を使う。しかし、隅は大きなソファの十人席だ。団体客が入れなくなる。そのうえ、特注で作ったお菓子は無料で渡してしまう。

 それだけではない。話すきっかけがてら、頼まれてないお菓子を出してしまう。廃棄寸前の商品ならともかく、その場で作って、だ。

 お客様の心は救えても、数字だけ見れば赤字だばかりだった。

 けれど、もう一つ気づいたことがある。誠一は、赤字をまったく気にしていない。

 誠一を盗み見ると、またもショーケースからケーキを出し、振る舞っている。きっと、あれも無料だろう。赤字の要因だ。

 だから経理を――というのはわかるが、それならば、節約を念頭におくのが普通だ。それなのに、無料配布をやめるどころか、躊躇する気配すらない。


「……他に収入があるんじゃないのかしら。そっちで帳尻合わせはできてて、けど、黒田彩菓茶房の赤字は把握しておきたいだけ、とか……」


 当初は、帳簿を作って細かく報告していた。しかし、誠一が気にするのは『最終的に赤字がいくらか』だけだった。

 埋め合わせをどうするか、黒字にするにはどうしたらいいか、なんてことは考えない。考えようとすらしない。誠一との会話は、すべてお客様の心ばかりだ。

 だが、それではなぜ雇ってもらっているかわからない。なにかしようと、ひとまず、無駄の削減には手を尽くすことにした。

 では、この店における無駄はなにか。

 飲食店でありがちなのは、賞味期限切れの食材廃棄だ。廃棄というのは、廃棄作業にお金がかかる。仕入れた費用も無駄になる。赤字に赤字を上乗せするに等しい。

 けれど、黒田彩菓茶房は廃棄が皆無だ。言わずもがな、誠一が配ってしまうから廃棄はない。むしろ足りないくらいだ。


「無料配布は、販促費に付けて固定費扱いよね。そう考えると、原価に無駄が無いともいえる。持ち家だから家賃も無いし。となると後は……」


 薫子はとんっと帳簿の項目をつついた。それは人件費だ。

 はっきり言って、薫子が無駄だった。赤字を気にしないのだから、経理なんて必要じゃない。どちらかといえば、誠一がお喋りに集中するための接客係だ。

 ならば、接客で役に立たなければ駄目だろう。それは薫子のの目標にも繋がる。

 うん、と心の中で努力を決意した。そのとき、ふいに誠一が窓の外を見て駆けだした。外は雨が降りだしたようで、行き交う人々は小走りだ。

 けれど、誠一が店の外に行く必要は無い。傘立てを出す雑用は薫子の仕事だ。

 それでも、誠一は外へ飛び出し軒下にしゃがみ込んだ。背伸びして様子を見ると、どうやら他にも一人男性がしゃがんでいるようだった。


「ああ、これは……」


 働き初めて日の浅い薫子でもわかる。これは、誠一のいつものパターンだ。

 薫子は棚から浴巾を取り出し、お悩み相談では無料状態の珈琲を準備する。奥のソファ席へ置くと、戻って来た誠一に言われた指示は、予想通りだった。


「薫子さん。すぐに」

「ソファ席、準備できてます」


 誠一は、相談されなくても悩んでそうな人を拾ってくる。連れてこられた人は、驚き目をぱちくりさせる――これが黒田彩菓茶房の日常で、薫子が役に立てる貴重な場面だ。

 こうして、今日も黒田彩菓茶房の物語が始まる。

 誠一は青年をソファに座らせ、薫子の用意した浴巾を渡していた。薫子は、申し訳なさそうにしている青年に珈琲を出す。


「お嫌いじゃなければどうぞ。無料なので、お気になさらないでくだ

さいね」

「有難うございます。すみません、浴巾までお借りして」

「いいえ。困ってる人を助けるのは、マスターの信条なんで」


 もはや業務と言って良いだろう。それが黒田彩菓茶房という場所だ。


「お名前を聞いても良いですか? 僕は黒田誠一といいます」

「小泉正人です。本当に有難うございます。見つからなかったら、どうしようかと……」


 小泉青年は、細い棒のような物を強く握りしめていた。見たことのない物で、薫子は首を傾げた。誠一は知っているようで、ああ、と頷く。


「ボールペイントペンですか。なかなか珍しい物をお持ちですね」

「ボール……?」


 薫子は、やはり首を傾げ続けた。けれど、小泉青年は驚いたようで勢いよく立ち上がった。


「これを知っているんですか⁉」

「ええ。外国で流通している、万年筆の簡易版のようなものです。滲むこともなく、するすると書けるそうですよ。日本ではあまり見ない貴重な品です」

「そうです! これを持ってる人を知りませんか。女性です。短い黒髪の!」

「心当たりはないですが、人探しですか?」

「はい。このペンは預かり物なんです。でも、誰だったのか、わからなくて」

「ということは、まったく知らない人から預かったんですか?」

「そうなんです。似顔絵の露店を広げていたから、追うこともできませんでした。貴重な物のようですから、返したいんです」


 小泉青年は傍らの鞄を撫でた。大きな鞄は膨れ上がり、きちんと蓋が閉まっていない。その中には絵具や筆、画用紙などが見える。


「小泉さんは絵描きさんなんですか?」

「卵のようなものです。いえ、勉強中なので、卵にもなれていません」


 小泉青年は悲しそうにして俯き、ゆっくりと再びソファへ座った。


「それで、ボールペイントペン知ってる人を探してるんです。話を聞いたこととか、ないでしょうか。些細なことでもいいんです」

「僕はありませが、知ってる人はいると思いますよ。そろそろ文具屋さんが来ます」

「来ます?」

「ええ。すぐに。十、九、八、七……」


 誠一は数えながら、店の扉へ目をやった。そして、誠一が「零」と言った瞬間に、扉が勢いよく開き男性が飛び込んでくる。


「よー! デザートくれ!」

「あ、寅助さんだ」


 寅助は、黒田彩菓茶房の常連中の常連だ。客も寅助を知っていることが多い。


「どなたですか? ボールペイントペンに詳しい方でしょうか」

「寅助文具店のご店主ですよ。マスター、なんで寅助さんが来るってわかったんですか?」

「さっき、そこを通ったので。それにいつも来る時刻です」


 誠一は薫子の後ろにある窓を指差した。窓の向こうの景色が見えるわけだが、建物に阻まれ、若干大通りが見える程度だ。

 あんなに人が行き交う場所で、しかも何気なく眺めつつ見つけるなんて神業だ。


「相変わらず、すごい洞察力ですね」

「恐れ入ります。寅助さん、こっちだよ。こっち」


 誠一はちょいちょいと手招きをして、寅助を呼び寄せる。


「なんだ。どうした」

「海外の文具に詳しいかい? これなんだけれど」

「俺の店は時代遅れの純日本製だ。お、そりゃボールペイントペンとかいうやつか」

「さすが博識な寅助さんだ。これを売っているお店はあるかい?」

「俺への嫌味か? 鉛筆が普及したばっかで、んなもん売る店ねえよ。欲しけりゃ海外にでも行くんだな。そんなことより薫子嬢ちゃん! 今日のおすすめデザートくれ!」


 寅助は、薫子が一番最初に馴染んだ客だ。客というより、誠一とは年の離れた友達のような存在ということもあり、薫子にも良くしてくれている。


「はーい。マスターどうしますか? いつもと同じでいいですか?」

「そうですね。でも、寅助さんなら気合を入れないと。薫子さんも手伝ってください」

「はい! 小泉さん、少し待っててくださいね」


 薫子は、誠一について台所へ向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る