映る影、変わる時代(三)
翌日、薫子は東京へ向かった。
慣れないワンピースとパンプスで、まずはミスミ洋菓子店本店を視察。生クリームのような三階建ての洋館に圧倒されたが、負けじと他の菓子店も調査して回った。
しかし、どこも似たり寄ったりで目新しさはない。靴擦れと小雨に見舞われ、疲れ果てた末に辿り着いたのが――黒田彩菓茶房だった。
薫子が一気に事情を話し終えると、青年は苦笑いを浮かべた。
「そういうことでしたか。ミスミさんは、どこでも人気ですからね。この辺りも、何軒か撤退しています。西洋菓子を売っても、ミスミさんには叶わないようです」
「わかりますよ、美味しいのは。でも、人の店を潰していい理由にはならないわ」
「そうですね。少々、配慮にかけるやりかたです」
青年は、一緒に困ったような顔をしてくれた。いくら人が良くても、倒産させようだなんて意気込みを聞かされても困るだろう。
いまさら反省していると、店内から「すみません」と声が上がる。スーツ姿の男性が手を挙げている。注文だろう。
「すみません。少々お待ちください」
青年は薫子へ頭を下げると、滑らかな歩行で男性客の元へ向かった。いくつかメニューの説明をしている。今度はどんな彩菓なのか、楽しみになる。
注文はなんだろうかとわくわくしていたけれど、聞こえてきたのは――
「フルーツセットと珈琲ですね。かしこまりました」
軽食もあるので、彩菓以外のメニューも豊富だ。彩菓ではないことは、少しだけがっかりすした。けれど、果物を切るところは見てみたい。彩菓を生み出す一端でも見られるのなら、とても興味ある。
青年を目で追うと、キッチンへ入って行った。カウンター席から除くことのできる距離で、薫子はじっと見つめる。
すると、深い眼差しと優雅な手つきで果物を操り出す。
「すごい……魔法の杖みたいな指……」
青年の指は、果物を芸術品に変えていく。
林檎や蜜柑の皮は、虹の一筋に生まれ変わった。練り上げられるバタークリームの花は、時に非現実的な色をしている。けれど、それはまるで、果てしない夢や望みが花開いたように感じられた。
一通り完成したのか、青年は大きなプレートを持ち出した。ショーケースからミルフィーユを取り出し、生クリームの入った小鉢を置いた。輝く果物も盛り付けられているが、これは妙だ。
「フルーツセットって言ってなかった?」
注文にミルフィーユはなかったはずだ。メニュー表を開くと、フルーツセットは紛れもなく果物を持った物だ。他の客の注文なのだろうか。
しかし、祝い事でも始まりそうなプレートが届けられた先は、やはりスーツを着た男性客だった。
「お待たせしました。『時を刻むミルフィーユ』でございます」
耳をそばだてていた薫子は眉をひそめた。時を刻む、とはなんだろうか。
薫子は、思わず男性客をちらりと見た。男性も薫子と同じように困惑している。
「あの……注文したの、フルーツセットですけど……」
「はい。ですが、働きながら転職活動は疲れるでしょう。不採用続きならなおのこと」
「え、あの、どうして転職しようとしてるって知ってるんですか。不採用なのも」
「一か月ほど、平日の日中にスーツでお越しです。何度も自己紹介を練習し、数日すると悲しそうな顔をなさっている。夜は使い込んだ書類をお持ちで、一昨日は『課長にどやされる』と呟いてらした。それで、いまのお勤め先から転職をお考えなのだろうと」
「……そう、です。よく見てるんですね……」
「何度も来てくださっていますから」
青年は、なんの飾りもされていないミルフィーユを差し出した。何層にも重ねられた生地は見事だが、それだけだ。宝石のようなケーキには見劣りする。
「人生は岐路の積み重ねです。まるでミルフィーユのようじゃありませんか?」
青年は穏やかにほほ笑みながら、生クリームを添え、カットした林檎を添え、蜜柑、葡萄と果物をどんどん乗せていく。
「あと一層で完成するかもしれません。その先には、新しい出会いもあるでしょう」
重ねられていく果物は、いつの間にか美しい花と葉になっていた。見たこともない植物たちは、男性客の新たな出会いを予感させる。
最後に、丸いクッキーが生クリームの横に沿えられた。
表面には美しいデコレーションがされていて、時計のような柄だ。チョコレートと金粉だろうか。薫子の席からでも、艶やかで美しいことは見て取れる。
あれほど貧相だったミルフィーユは、宝石へと姿を変えていた。
「新しいお仕事が決まったら、お祝いのケーキを作らせてください」
「……はい。有難うございます」
そうして、男性客は少しだけ涙ぐんだ。生クリームたっぷりのミルフィーユと果物を食べ終えると、穏やかな笑顔で店を出て行った。
男性が笑顔で帰って行くのを見送ると、青年はようやく薫子の元にやってくる。
「お待たせしました。ご注文はどうなさいますか?」
「それなんですけど、いまミルフィーユ出してましたよね。頼まれていないのに。いつもあんな風にしてるんですか?」
「ええ。うちのお菓子は、お客様の物語なんです。このミルフィーユは、お仕事で悩むかたから生まれました。一人の経験が、誰かを助けることもあるんです」
「じゃあ、こっちはどんな物語なんですか? 真っ白なクリームに白い花と紫の花」
「ストレスで寝付きが悪い女学生の物語です。よく眠れるように、リラックス効果のあるカモミールとラベンダーを使いました。女性には人気です」
「チョコレートケーキは?」
「和菓子好きのおばあちゃんが、洋菓子好きなお孫さんの受験を応援する物語です。ご自分ではなにが良いか思いつかないとのことで、お任せいただきました」
「へえ……素敵、とっても素敵……」
夢の国にしかないような美しいケーキなのに、語られる物語は誰もが想像付くような日常ばかりだ。凄まじい落差だけれど、不思議に違和感はない。
「たくさん歩いてお疲れのようですし、チョコレートケーキになさいますか?」
「……いいえ。ミルフィーユをください。私もその物語の力を借りたい」
「ご実家のことですよね。西洋菓子では駄目なんですか? ミスミさんには置いていない西洋菓子もあるでしょう」
「新しければ良いわけじゃありません。お父さんが扱いたいと思ったならともかく、ミスミさんに対抗するためなんて、看板を捨てるのと同じことだわ」
「失礼しました。そうですね。うちも先々代から同じメニューでやっています」
「ずっとですか? でも西洋菓子ですよね。最近の物だと思うんですけど」
「うちは、お客様に必要なお菓子を作ります。どの文化発祥かは、気にしていません。これは祖母の考えたお菓子で、西洋ではミルフィーユという名称だっただけ。もっとも、材料や仕上げの形状は、西洋のミルフィーユに寄せましたが」
青年はショーケースをするりと撫でた。
ケーキには一つずつ名称が付いているが、その説明文はとても長い。きっと、お客様の物語が綴られているのだろう。
青年は、ミルフィーユを取り出し薫子の前に置いてくれた。先ほどの男性客と同じように、フルーツを盛り付けていく。質素なミルフィーユに魔法がかけられる。
「うちは洋菓子店ではありません。彩菓茶房です」
彩菓。その言葉に、どれだけの想いが詰まっているのだろう。
途端に自分が恥ずかしくなる。倒産させるために力を貸してくれ――なんて、愚かなことを言ったのだろう。ミルフィーユを口に入れることすら、申し訳なく感じる。
机の下で握る拳は震えた。情けなくて、悔しくなってくる。
するとその時、すっと一枚の紙が薫子とミルフィーユの間に割って入って来た。紙には『従業員募集(経理経験者は優遇します)』と書いてあった。
「……あの、これ」
「よければ、少しうちで働いてみませんか?」
「え!?」
「ちょうど一人雇おうと思っていたんです。それに、もったいないですよ」
「もったいない?」
「ええ。あなたは、少しだけ間違っています」
青年は求人の紙を机に置くと、窓の外に見えるミスミ洋菓子店を振り返る。
「目的は、ご実家を守ることでしょう? ミスミさんの倒産ではないはず」
「そ、そう、ですけど」
では、他にどんな手があるというのだろう。東京と秩父はあまりにも違う。人口からして違う。敵を倒さずして、生き残る道があるとは思えない。
いまの薫子には、なにも考えつかなかった。けれど、青年は優しく微笑んでくれる。
「うちにはいろいろなお客さまがいらっしゃいます。思わぬ選択肢に出会い、より良い未来に辿り着いたかたも多い。お客さまの物語に触れることは、きっと薫子さんの力になる。どうでしょう」
青年が微笑むと、店内の彩菓に明かりがともる。きらきらと、薫子の世界が光を取り戻した。
震えていた拳を握り直し、薫子は立ち上がった。
「やらせてください! お金の管理なら得意です! 損益計算とか!」
「本当ですか。それは助かります。僕ときたら、すぐ無料であげちゃうんですよ。だから、気が付けば大変なことになっていて」
「無料って、さっきのミルフィーユみたいな?」
「ええ。僕が好きで差し上げてるから良いんですけど、黒字赤字ってそういうことじゃないでしょう? でも数字の管理は、どうも苦手で」
つまり、さっきの男性客は、フルーツセットの金額でミルフィーユも食べたということだ。しかも、転職したら、またケーキを無料で提供する。
この赤字が何件も続くなら、それは確かに大問題だ。桐島駄菓子店で経理業務をやってきた薫子には、よくわかる。
「大丈夫! まずは無駄の削減をしましょう。配るほど材料があるなら、それだけでも手はあるはずです! お客さまへ出せる商品だって、きっと増やせます」
「本当ですか? それは嬉しい。ぜひお願いします。僕は黒田誠一です」
「桐島薫子です! よろしくお願いします!」
こうして、薫子は新たな一歩を踏み出した。黒田彩菓茶房で学べば、商品の入れ替えをしなくても、やっていけるかもしれない。まずは誠一の役に立つことからだ。
「帳簿ってありますか? いまの収支を知りたいです」
「さっそくやってくれるんですか? 頼もしいです。ではこっちに」
誠一に連れられ、カウンターの中に入る。誠一は帳面を開き、薫子に見せた。
これだけ客の心を掴んでいるのなら、かなりの黒字に違いない。だから、ケーキをあげても痛手にならないのだろう。
薫子も飴玉一つあげる程度のことはあった。食べ物には賞味期限があるので、廃棄するくらいならあげてしまおうと思ってのことだ。優しさではない。
しかし誠一は違う。大事なのはケーキではなく、気持ちだ。気持ちを掴んだのなら、お客様は何度も来てくれるだろう。そういう成立の仕方なのだ――そう思い、帳簿を見た。
けれど、帳簿に書いてある数字を見て愕然とした。数字は方々に飛び散って、どこになにが書いてあるのかわからない。文字は型崩れして、読むこともできない。
ただ一つわかるのは、帳簿の数字は、すべて赤いということだ。
「なんですかこれ! 大赤字じゃないですか!」
どこを見ても、負の数字だ。駄菓子より単価は高いから、粗利金額の違いはある。だが、販管費を差し引いた最終的な利益は、桐島駄菓子店よりはるかに悪い。
思わず誠一をじっと見ると、誠一はこてんと首を傾げた。
「えへへ」
なにを可愛く笑っているのか。
休日なのに十二時開店なんて、この赤字でよくも強気な経営ができたものだ。薫子はそっと帳面を閉じた。
「まずは帳簿を整えましょう! とりあえずうちの書式で!」
「初日から、そんな凄いことをやってくれるんですか。とっても助かります」
「任せてください! ちゃんと損益勘定して、無駄を見つけましょう!」
店というのは、家賃や水道光熱費など、固定費がある。赤字で何年もやっていくことは難しい。それでも続いている。帳簿が汚いだけで、本来は黒字になっているはずだ。
黒字額を正しく理解すれば、誠一がお客様へ提供できる商品も増えるかもしれない。それは、桐島駄菓子店としても知りたい技術だ。
薫子は気合を入れた。だが、翌日にはもっと信じられない状態が訪れることを、薫子は想像もしていなかった。
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