エピローグ

エピローグ


 風の音が、春の前触れのようにやわらかかった。

 瑞希は、ゆっくりと息を吸いこんだ。胸の奥まで届いた冷気が、もう痛くない。ただ静かに、身体の隅々へ染み込んでいく。


 吾妻連峰の麓。

 あの日、彼女が救われた場所から少し下った地点に、雪解けの水が細い川となって流れていた。陽の光を受けて、きらりと瞬く。まるで誰かがそこに線を引いたようだった。


「……帰ってきたよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 けれど口にした瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 雪の匂いがした。湿った土の匂いが混じる。冬と春の境目の匂いだ。


 足元でサク、と雪がつぶれた。

 彼女は数日前まで病室にいた人間とは思えないほど、まっすぐに立っていた。身体はまだ本調子ではない。けれど、心の足場は驚くほどしっかりしている。


 ポケットの中でスマホが小さく震えた。

 瑞希は取り出して画面を見る。メッセージの送り主は、室井だった。


《ゆっくりで大丈夫です。無理に登らなくていいから。ただ……また会えるの、楽しみにしてます》


 読み終える前に、ふっと笑った。

 優しい人だ。本当に。


 画面をスリープさせる。

 あの日、病室で目覚めたときも、真っ先に聞こえたのは室井の声だった。


『生きていてくれて、本当に良かった……本当に』


 そのときの震える声が、胸の奥でまだ続いている。

 でも今は、その声に縋る必要はない。

 彼に頼りたくない、という意味ではなく、自分の足で立ちたいという静かな意思だった。


 風がさらりと頬を撫でた。

 瑞希は川のほうへ歩く。足跡が、白い地面に新しい線を描く。


「ねぇ、おばあちゃん……」


 雪解けの水がさらさらと流れていく。

 その音に向かって、ひとりごとのように声を出した。


「“本当の生活を見つけなさい”って、あれ……逃げるなって意味じゃなかったんだよね。

 私の“好き”とか“苦しい”とか“これじゃない”って気持ちを、ちゃんと自分で選びなさいって……そういう意味だったんだね」


 言葉が空気の中にとけていく。

 聞いてくれる人は誰もいないのに、なぜかちゃんと届いている気がした。


 川面に映る自分の顔を覗く。

 頬に薄く残る傷跡。思ったほど気にならなかった。


「私ね、もう人の目では動かないよ」


 ぽつりと呟くと、まるで川が応えるように、きらきらと光った。


 SNSのタイムラインに溢れていた言葉たち。

《軽率》《迷惑》《自己責任》

 退院してすぐ、ふっと見てしまった。

 でも、指先で「閉じる」を押したとき、心が驚くほど静かだった。


 ――ああ、私はもう傷つく場所に、自分を置かなくていいんだ。


 その静けさが胸の奥に戻ってくる。


「ここで倒れたんだよね、私。あのとき、空がぐるぐる回って……」


 目を閉じると、白い世界がよみがえる。

 喉が焼けるように乾いて、体温が奪われていく、あの絶望。

 そして――


『戻ってこい! 瑞希さん!』

『まだ心拍ある! 間に合う!』


 救助隊の声。

 あれは、闇の底で聞いた唯一の“生きろ”という叫びだった。


 胸に手を当てた。

 その声が、まだ身体のどこかに残っている。


「……ありがとう」


 小さく呟く。

 誰にも聞こえない。

 けれど、それでよかった。


 川のせせらぎが、少し強くなったように感じた。

 彼女は視線を上げる。


 吾妻の山なみが、雪をまとったまま静かに佇んでいる。

 白い山肌には、細く春の影が差していた。

 青とも緑ともつかない色が、ほんのわずかにのぞいている。


「まだ冬だけど……あの奥に春があるんだね」


 言葉にすると、胸がふっと軽くなる。

 まるで身体の奥に春が入り込んでくるみたいだ。


 足元の雪が、少し柔らかい。

 しゃり、と溶けかけの音がする。


「逃げるみたいに来た場所で……私、生き直せたんだな」


 その言葉を自分で言って、初めて気づく。

 あの日、山に来たのは確かに逃げたかったからだ。

 仕事のことも、恋人の裏切りも、息苦しい街の生活も、全部。

 でも――ここで死にかけて、助けられて、目を覚まして。

 その全部を背負ったまま、もう一度歩けると思えた。


「よし」


 小さく息を吸うと、雪解けの匂いが肺いっぱいに広がった。

 瑞希は振り返らず、山のほうへ向けて一歩を踏み出す。

 登るわけではない。ただ、近づく。

 気持ちのままに。


 背中に、風が押してくれる。


「また来るね」


 山は答えない。

 ただ、黙ってそこにある。

 それが、嬉しかった。


 瑞希は一度だけ空を見上げる。

 薄い雲の隙間から、光が糸のように落ちてきていた。

 雪を照らし、川を照らし、そして――

 彼女の頬にも、そっと触れた。


 その光は、確かに春の色だった。




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「吾妻連峰雪山遭難事故」 @mai5000jp

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